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第4話

「学長?」 「なにかね、学部長——」 「今日いらっしゃるというゲストはどなたなのか、まだ教えていただけないのですか?」  春らしい明るい日差しに包まれた学園の中庭で、ルシア・ツァーリ国立魔法学園の学長と学部長が話しをしている。  ふたりとも真っ白な髪の老人で、黒いマント型の教授服を着ている。 「まだ内緒です。でもとても有名な方ですよ、楽しみにしていてくださいね。今日はこの学園に個人的な用事がおありになったそうなのですよ。それで急遽、歓迎のためにティーパーティを開きました。お茶を飲むのにふさわしい春の日ですからねえ」 「たしかに今日はとても美しい午後ですね」  ふたりが笑みを交わしているその少し後ろの木陰に、黒髪に青い目のほっそりとしたオメガの生徒が、隠れるように立っていた。  ユリアだ。  学長たちの会話は聞こえていたけれどまったく耳に入ってこない。  頭の中は騎士団長のことでいっぱいなのだ。  ——もしかすると夢だったのかも?  と思っていた。  騎士団長から契約結婚してほしいと言われるなんてとても現実とは思えない。  しかもその申し出を受け入れてしまったのだ⋯⋯。  ——騎士団長は指先まで美しかったなあ⋯⋯。  触れ合った手を思い出すと体がカッと熱くなった。首筋までがまるで燃えているように火照った。  実は、手と手が重なった瞬間にユリアは意識が飛んでしまったのだった。  そして我に返ったときには、騎士団長の姿は消えていたのだ。  ——やっぱり夢だったのかもしれない。  だとしたらとても恥ずかしい夢だ⋯⋯。 「冷たいものを飲んだら頭がはっきりするかも⋯⋯」  ティーパーティの会場を見回して飲み物を探した。  パーティ会場は魔法学園の中庭で、薔薇が咲き乱れるエレガントな場所だ。  赤い薔薇で作られたアーチが四方にある。ピンクや黄色の薔薇に囲まれた東屋もあちらこちらに点在している。  白いクロスがかかった丸いテーブルがずらりと並び、そのテーブルの上にはティーポットやスプーンなどの銀食器がキラキラと眩しく輝いている。  ベリーがたっぷりと詰め込まれたサマー・プディングもある。これは若い生徒たちに人気のようだ。  甘くほろ苦いキャラウェイ・ケーキ。こっちは黒いマントの教授服を着た教職員たちが好んで口に運んでいる。  誰かのカップが空になると、すかさず白いエプロンをつけた給仕が飛んできて、優雅な仕草で香り高い紅茶を注いでいる。  穏やかな笑い声に満ちあふれる美しいティーパーティだ。 「水はどこかな?」  キョロキョロしていると、見知った顔と目が合ってしまった。  従兄弟のリドルだ。派手な花柄のフロックコート姿でニヤニヤ笑ってこっちを見ている。 「どうしよう⋯⋯。逃げなきゃ」  リドルの顔を見ただけで息が苦しくなった。すぐに逃げようとしたけれど、あっという間にリドルとその取り巻きに囲まれてしまった。 「臭いと思ったら、やっぱりおまえ⋯⋯」  だけど、リドルがそう言いかけたそのときに、パーティ会場がザワザワと騒がしくなっていって、すぐに学長の大きな声が中庭に響きわたった。 「みなさま、本日のゲストのヴィクトル・シードロフ騎士団長がいらっしゃいました!」  ティーパーティのゲストとは、騎士団長のことだったのだ。  リドルとその取り巻きがパッと顔を赤らめて騒ぎ出す。 「ヴィクトルさまだ!」 「うわーっ! すごくかっこいい⋯⋯」  パーティ会場の人々も興奮の声を上げた。 「あいかわらず麗しくていらっしゃる⋯⋯」 「まさかお会いできるなんて⋯⋯。夢のようだわ」  みんなの注目の的になっているのは、だれよりも背が高く、だれよりも逞しく、そして美しい騎士団長⋯⋯。  ユリアもまたボーッと見惚れた。   ——あれ? 騎士団長がこっちを見てる?  ふたりの視線がピタリとあってしまう。  ——ど、どうしよう⋯⋯。  心臓がドキッと跳ね上がった。虐められているときのドキドキとは違って、どこか甘くて、どこか切ないような、不思議なドキドキだ。  ヴィクトル騎士団長の顔には笑みが浮かんでいた。  そして、ゆっくりとこっちに向かって歩いてくるではないか!  ——うわーっ!  思わず声を出してしまいそうになったけどグッとこらえる。 「我が未来の妻、ユリア・ニキーチェ殿——」  騎士団長はそっとユリアの手を取った。そしてものすごく優雅な礼をしながら、手の甲に口付けをする。  ——うわーっ! うわーっ!  ほんとうに倒れてしまいそうだった。息ができない! 心臓が胸から飛び出してしまう。ああ、どうしよう! く、苦しい⋯⋯。  このまま気を失う——と思ったとき、白髪の学長が明るい声で叫んだ。 「おお! ご結婚なさるのでございますね? おめでとうございます!」  学長は黒いマントをサッと後ろに払って深く膝を折り最上級の礼をする。  王族に対する作法の礼だ。  騎士団長は国王陛下の従兄弟で、第三位王位継承権を持つほどの高い位の貴族でもあるのだ。 「ヴィクトル・シードロフ騎士団長閣下、そして未来のオメガ奥さま、どうぞ、我々の礼をお受けください!」  学長が礼をすると、ティーパーティに集まったすべての人々が次々に深く膝を折って礼をし始めた。 「おめでとうございます、閣下! 奥様!」 「おめでとうございます!」  意地悪な従兄弟のリドルだけが呆然としている。  学長がピシリと、「無礼であろう、そこの学生!」と厳しく叱ると、リドルもガクッと膝を折った。ものすごく悔しそうな顔だ。  こうしてユリア・ニキーチェは、ヴィクトル・シードロフ騎士団長のお飾りの妻になったのだった——。 *****  次の日——。  まだ朝日が登ったばかりの森の中を、カタカタと車輪の軽やかな音を響かせながら豪華な白い四頭建ての馬車が走り抜けていく。  木漏れ日が眩しく光り、白馬車は光を受けてとても美しい。四頭の馬たちの馬具には白く美しい羽飾りがついている。  馬車に乗っているのはユリア・ニキーチェだ。  ——どんな生活になるんだろう?  これからヴィクトルの屋敷へ行くのだ。わからないことがいっぱいで心配でたまらない⋯⋯。  ——自由な時間はあるのかな? 外出はできるのかな? 魔法学園に通って勉強を続けたいと言ったらわがままだって思われるかな⋯⋯。  ユリアの黒い髪は少し乱れていて、青い瞳は落ち着かずにキョロキョロと馬車の中や窓の外を見回している。着ている服は相変わらずとても質素なものだ。 「これから騎士団長と一緒に暮らすんだ⋯⋯」  そう呟いてすぐに、『一緒に暮らす』という想像に体がカッと熱くなった。急いで自分に言い聞かせる。 「一緒に暮らすとしてもこれは契約結婚なんだから⋯⋯」  本当の夫婦ではないのだ。だけどそれでも、美貌の騎士団長と同じ屋根の下で生活すると思うとすごく緊張する。  ——朝にお会いしたら、『おはようございます』と言えばいいのかな? お昼にお会いしたら、『こんにちは』かな? いや、これじゃあ変だよね。だって僕たちは契約とはいえ夫婦なんだから⋯⋯。  『夫婦』という言葉にまた体がカッと熱くなる。 「なんだかすごく暑い朝だ⋯⋯」  急いで馬車の窓を開けた。冷たい朝の風が顔に当たって気持ちがいい。  柔らかい黒髪を風に揺らし、火照った体を冷やしながら、可愛らしい顔で流れていく風景をじっと見つめ、昨夜のことを思い出した。  ——きのうは本当に大変だったな⋯⋯。  従兄弟のリドルは、「おまえなんかが騎士団長の嫁になるなんて!」と叫んで家中の物をユリアに投げつけるし、叔母はヒステリックに怒鳴り散らしたのだ。  嫉妬と怒りと驚きで我慢できなかったのだろう⋯⋯。  ユリアは一晩中眠ることもできずに裏階段の隅に隠れていた。  朝日が昇る前にシードロフ家から迎えの馬車がやってきたときは心からホッとした。  でもこうして馬車に乗って騎士団長の屋敷へ向かっている今は、これからどうなるのか想像もつかなくて、とても不安な気持ちになっているのだった。 「とにかく契約書をもらったら、しっかりとよく読まなければ!」  契約書の大切さは身にしみているのだ。  いろんなことをぐるぐると考えているとシードロフ家の屋敷が見えてきた。 続く

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