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第5話

王家とつながる家柄に相応しく驚くほど壮大な屋敷だ。  白い壁が朝日に眩しく輝いている。屋根の上にはシードロフ家の紋章だろうか、大きく美しい二羽の鷲の像があって、屋敷を見守るように羽を広げている。 「どうしよう⋯⋯、ついに来てしまった」  まだ心の準備がぜんぜん整っていない。 「落ち着くんだ、失礼のないようにしなくちゃだめだ」  大きく息を吸ったり吐いたりしていると馬車が止まった。 「お待ち申し上げておりました、ユリアさま——」  馬車の外から明るい声が聞こえて扉が開いた。  おずおずと馬車から降りると、小柄な白髪の老人がニコニコと笑っていた。華美ではないが趣味のいいオメガ襟を首に巻いている。品のいいオメガの男性だ。  老人の後ろには黒い制服の従者や白いエプロンをつけた侍女たちが並んでいる。丁寧な礼をしながら、「いらっしゃいませ、ユリアさま——」と明るい声で挨拶をしてくれた。  ユリアも急いで膝を折り丁寧に礼をした。 「はじめまして、ユリア・ニキーチェです⋯⋯。どうぞよろしく、お⋯⋯、お願いします」  答えた声が最後は小さくなってしまった。ほとんど聞こえないほどだ。従兄弟の家ではずっと使用人に冷たくされていたし、子供のころからそんな環境で育ってきたので、ユリアにとって使用人たちは怖い存在なのだ。 「早朝からの移動でお疲れでございましょう?」 「いいえ⋯⋯。あの⋯⋯、とても立派な馬車だったので快適でした」 「それはようございました。わたくしは執事のセバスチャンと申します。どうぞ、こちらへ。お茶の用意がしてございます」 「あ、はい⋯⋯。セバスチャン、どうもありがとうございます」  大きな両開きの扉を入って玄関ホールへ。中央にピンク色の薔薇の花が飾ってある。とても大きくて豪華だ。ふわりと甘い香りが漂っている。 「きれいですね⋯⋯」 「ユリアさまのためにヴィクトルさまが選ばれた花でございます」 「僕のためにこの薔薇を?」 「ええ、そうでございます。ユリアさまの雰囲気にぴったりでございますね。旦那さまの愛を感じてわたくしは感動いたしました。胸がいっぱいでございます」  老執事は胸を押さえてキュートな笑みを浮かべた。  ——ヴィクトル騎士団長が僕のためにこのピンクの薔薇を選んでくださった?  頬がカーッと熱くなっていく。きっと真っ赤になっていると思って両手で頬を隠した。  胸もドキドキしていた。とっても甘いドキドキで、心が明るくなるようなリズミカルで楽しい鼓動だ。  ——胸が変? どうしたんだろう、緊張しすぎなのかな?  自分の気持ちがわからなくて考えていると、セバスチャンが隣の部屋を示した。 「ユリアさま、どうぞこちらへ」 「は、はい⋯⋯」  促されてホールの横の部屋に入る。そこは客間で、品のいいマホガニーの猫足の椅子や棚が並ぶとても広い部屋だった。  大きな窓から明るい朝日が差し込んでいる。  心が落ち着くような心地よい雰囲気だ。 「素敵な部屋ですね」  ふかふかのクリーム色のクッションがたくさん並んだソファに座る。横には窓。屋敷を囲む木々が見える。春らしい淡い緑色の風景がどこまでも広がっていた。 「アールグレイティーと、ダージリンとどちらがよろしいですか? 深い味わいのブラックティーもございますが?」 「⋯⋯では、あの、アールグレイティーをお願いします」  侍女たちが銀器に乗った菓子を持ってくる。部屋中がバニラのとてもいい香りに包まれた。  美味しそうな香りに誘われたのだろうか、お腹がグーッと大きな音を立ててしまう。  ——あっ!  きのうの夜からなにも食べていないせいだ。  ——ど、どうしよう。すごくはしたないことをしてしまった。  焦ったけれど、セバスチャンの表情は変わらない。 「さあ、どうぞお召し上がりください、ユリアさま」 「はい、ありがとう⋯⋯」  ——あんなに大きな音がしたのに、気がつかないふりをしてくれたのかな?  どうやら老執事は優しい人のようだ。  アールグレイティーの甘い香りと執事の柔らかい雰囲気のおかげで、緊張が少しずつ溶けていった。 「スコーンもお召し上がりください。お屋敷で飼っている家畜たちの、卵と牛乳から作った新鮮な物でございます」 「ありがとうございます⋯⋯」  スコーンは出来立てでまだ湯気が出ていた。二つに割ってたっぷりのクロテッドクリームと苺ジャムを乗せる。一口食べるとサクッと口の中で崩れた。とても美味しい。 「こんなに美味しいスコーンは初めていただきました」 「それはようございました。コックもきっと喜びます。旦那さまはいつもお忙しくてほとんどこの屋敷にはお帰りにならないので、コックも腕のふるいようがないといつも嘆いているのですよ。これからはユリアさまがいらっしゃるのでコックも嬉しいでしょう」  ——お帰りにならない?  どういう意味だろうかと考えて、ハッと気がついた。  ——ああ、そういうことなんだ。ヴィクトル騎士団長は騎士団の人たちと一緒に軍で生活していらっしゃるから、このお屋敷にお住まいじゃないんだ⋯⋯。  つまり、ユリアはこの屋敷でひとりで暮らすということなのだ。  ——僕の立場はお飾りの妻なのに、ヴィクトルさまと一緒にこの屋敷で暮らすことをいっぱい想像してしまった⋯⋯。なんて恥ずかしいことをしちゃったんだろう。玄関ホールのピンクの薔薇だって僕のためじゃないんだ。偽りの結婚を疑われないために、形式的に用意なさっただけなんだ⋯⋯。  また頬がカーッと熱くなる。こんどは大きな勘違いのせいだ。  ——すごく恥ずかしい。  顔を伏せて、膝に置いた手をギュッと握りしめた。ふわふわと浮かれていた明るい気持ちがストンと地面に落ちてしまったような感じだった。泣きたいような、そんな気持ちだ。  迎えにきた馬車があまりにも豪華だったし、ピンクの薔薇もとても美しかったので、思わず自分の立場を忘れかけてしまったのだ。 「ユリアさま、スコーンをもう一ついかがですか?」 「⋯⋯あ、はい。⋯⋯ありがとうございます」  心の中で大きなため息をつきながらスコーンを手に取った。  そのときだった——。 「おや?」  セバスチャンが窓の外に顔を向けた。  馬のいななきが聞こえてくる。  それから、ものすごい速さで走ってくる馬の蹄の音も⋯⋯。 「なにかあったのですか?」  ユリアも窓の外を見た。  するとそこに見えたのは——。  飛ぶような速さで走ってくる白馬と、馬上の美しい騎士の姿だった⋯⋯。

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