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第6話
「遅くなってすまない——」
嵐のようなものすごい勢いで、ヴィクトル騎士団長が部屋に飛び込んできた。
騎士団の黒い制服を着ている。その上にやはり黒の長い外套を羽織っている。
金色に輝く美しい長髪はかなり乱れていて、ものすごく焦って急いで来たかのような姿だ。
その乱れた長髪を長い指でかきあげながら、もう一度、
「遅くなってほんとうにすまない」
と騎士団長は荒い息の間から言った。
——うわーっ! なんだかものすごく色っぽい⋯⋯。
ユリアはまたボーッと見惚れた。会うたびに見惚れてしまうのだ。
手にはスコーンを持ったまま、口をぽかんと開けている。
「おやまあ、旦那さま? どうなさったのでございますか?」
執事のセバスチャンがヴィクトルから外套を受け取りながら聞いた。
「夜明け前に帰る予定だったが国境でトラブルがあったので時間を取られてしまった」
「国境からでございますか? なんとまあ遠くから⋯⋯。ということは、徹夜で馬を飛ばして帰っていらっしゃったのでございますか?」
「ああ、そうだ——。だが間に合わなかったようだ。新婦への礼儀を欠いてしまった。ユリア殿、今から始めてもいいだろうか?」
名前を呼ばれてハッと我にかえった。
「え? あの⋯⋯、はい」
なにを始めるのだろうと思いながらも頷く。
すると、
「それでは——」
騎士団長はにっこりと微笑んで、
「ようこそ我が家へ、妻よ」
腕を伸ばしてきたではないか!
——ええっ!?
ふわりと体が宙に浮いた。
騎士団長の力強い両手にがっしりと抱き抱えられてしまっている。
「新妻を抱いて家に入る習慣があるだろう?」
「え? ⋯⋯でも、あの」
返事をした声がまたしても甲高くひっくり返った。
しかも手にはスコーンを持ったままだ。
「ユリアさま、スコーンをこちらへ⋯⋯」
セバスチャンがそっとスコーンを受け取ってくれて、ニコニコしながら騎士団長に尋ねる。
「旦那さま——。もしや、今日のランチはお屋敷でお召し上がりでございますか?」
「もちろんだ」
「ディナーもでございますか?」
「もちろんだ」
「それは素晴らしいことでございます!」
執事ははち切れそうな笑顔になる。
騎士団長はゆっくりと玄関ホールへ⋯⋯。
——僕はどうしたらいいんだろう?
騎士団長の腕が触れている体の部分がものすごく熱くなっていく。さっき頬が熱くなったのとはレベルが違う熱さだ。このままではほんとうに燃えそうだ。
胸のドキドキもとうに限界を超えていて怖くなってしまうほど。
——きっと胸が破れるかもしれない。
本気でそう思った。
すぐ近くで騎士団長の金色に輝く美しい髪が揺れている。
うっとりするほどいい匂いがする。さわやかで、でもどこか深みのある香りだ。
まるで深い森の奥にいるようで、すごく静かな中に、ベルベットの手触りのような官能的な香り⋯⋯。
ますますボーッとしていると、ヴィクトルは大階段を上りはじめた。
いくらユリアが軽いといっても、階段を登るのは大変に違いない。
「どうぞ僕を降ろしてください、歩きますから」
モゾモゾと体を動かしながら言うと、ヴィクトルは優しい笑みをユリアに向けた。ユリアを運びながら、騎士団長はずっと嬉しそうに笑みを浮かべているのだ。
「新婚の夫の役目を果たさせてくれ」
まるで子猫を抱いているように軽々とユリアを運んで階段を上った。
「さあ、ついた」
二階の一室に入ると、ヴィクトルはやっとユリアを下ろしてくれた。
大きな文机が中央にある部屋だった。暖炉があるが今は火は消えている。本棚には革表紙の高価な本がびっしりと並んでいる。どうやら書斎のようだ。
ヴィクトルに促され、文机をはさんで向かい合って座った。
「これが約束した契約書だ」
ヴィクトルが白い革表紙のノートを差し出した。表紙には美しい文字で、ヴィクトルとユリアの名前が書いてあった。
ユリアは契約書を交わすのは初めてだ。緊張しながら手を伸ばして白い表紙を撫でた。なめらかで繊細な羊の革の手触りがする。
「今は前王の喪中なのでしばらくは結婚の儀式ができそうもない。もうしわけないが——」
「いいえ、大丈夫です。その方が助かります」
契約結婚なのに結婚式をしてみんなに祝ってもらうのは気が引けるのだ。結婚式をしないと聞いてむしろホッとする気持ちだった。
「俺の父母は他国に旅行中だ。父は外務大臣をしていたので海外に友人が多い。引退旅行で友を訪ねて回っている。ふたりが戻ってきたら一緒に挨拶に行こうと思っているが、それでいいだろうか?」
「はい、もちろんです。⋯⋯もしよければ、手紙を書いてもよろしいでしょうか?」
「そうしてくれれば父も母も喜ぶだろう」
「あの⋯⋯、契約書を読んでもよろしいですか?」
「ああ、読んでくれ」
「ありがとうございます」
白い革表紙をそっと開いてみると、『ヴィクトル・シードロフはユリア・ニキーチェの衣食住を保証する』という文字がまず目に飛び込んできた。
——よかった。食べることができて、寝る場所があったら、もうそれだけで僕はなにもいらない。
心からホッとしながら次のページをめくった。
こんどは、『魔法学園及び魔法大学の費用を払う。ユリア・ニキーチェの勉学をヴィクトル・シードロフは妨げない』と書いてあった。
「学校に通っていいのですか?」
驚いて顔を上げると、ヴィクトルはやっぱり微笑んでいた。さっきからずっと優しい目でこっちを見ている。
「ああ、もちろんだ」
声もとっても優しい。
「——ありがとうございます! 僕、とても嬉しいです。もっといろんな魔法を深く学びたいと思っていたんです」
嬉しさのあまり興奮してしまって、思わずしゃべり続けてしまった。どうしよう、止まらない!
「僕が今習っているのは『トリート』の魔法なんですけど——、あの、トリートというのは、いろいろな生物が居心地良く生きていけるように、外側と内側のすべての環境を整える魔法です。とても地味な魔法で、最近の流行りではないので学ぶ学生は少ないんですが、でも僕はこの魔法が大好きなんです⋯⋯。えっと⋯⋯、少し喋りすぎですよね? すいません⋯⋯」
急に恥ずかしくなってくる。
「ん? それで?」
だけどヴィクトルはもっと優しい顔になって静かに先をうながしてくれた。
——話してもいいのかな? ほんとうにいいのかな?
「⋯⋯あの、僕は、トリートの魔法が大好きだし、それに、とても大事な魔法だと思っているんです。生き物たちは——僕たち人間もですが——、環境が変わると本来の能力を発揮できないことがあります。例えば、まったく乳を出さない乳牛がいたとします。だけどトリートの魔法を使って、その乳牛に最適な環境を整えてあげれば、たくさんの乳を出してくれるかもしれません。⋯⋯あの、すいません、退屈な話しをしてしまって⋯⋯」
「いや、おもしろいよ。それで?」
「それで、あの⋯⋯、トリートの魔法は、生き物の心や体が欲しがっていることを、与えてあげることができるんです」
「ほお——」
ヴィクトルの顔に浮かんでいるのは、ユリアの話しをほんとうに楽しんでいる表情だ。
——こんなふうに黙ってずっと僕の話しを聞いてくれた人は初めてだ。すごく嬉しい⋯⋯。
トリート術は昔からある地味な魔法だ。最近ではほとんど廃れていて使う者はほとんどいない。だからユリアが教授に『トリートの魔法を習いたい』と言っても、『ああ、トリートね⋯⋯』と無関心に呟かれるか、『それもいいがもっとこっちの魔法の方が⋯⋯』と、言われるかだった。
従兄弟家族も、従兄弟の家の使用人も、ユリアの話しを聞いてくれる人は誰もいない。
ユリアはいつも命令されるか、話しを遮られるかで生きてきたのだ。
それなのにヴィクトルは黙ってずっと話しを聞いてくれる。
——すごく嬉しい。なんだか、ほんとうに、すごく嬉しい⋯⋯。
ユリアの顔に笑みが浮かんだ。
すると——。
「すてきな笑顔だ⋯⋯」
ヴィクトルが手を握ってきた。
——え?
とても自然な動きで手を握られた。びっくりしたけれど嫌ではない。むしろ、嬉しいような気持ちもする⋯⋯。
だけどどうしてヴィクトルが手を握ってきたのか、理由がわからない。
——これってどういう意味だろう? どうしてヴィクトルさまは僕の手を握っているのだろう?
「あ、あの⋯⋯。もしかして、これも契約に含まれるのですか?
続く
※これはAmazonで出版して頂いた異世界bl長編『お飾り妻と溺愛騎士団長』の元になった短編です(追記・Amazonベストセラー1位になりました)
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