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第7話

 握られていない右手で急いで契約書をめくった。もしかすると、手を握ることも契約に含まれるのかもしれないと思ったのだ。  だけどどのページにも、『手を握る』とは書いていなかった。 「手を握るとは書いてないようですが⋯⋯。どのページでしょうか?」 「つまり、これは——」  ヴィクトルがゆっくりと手を離した。美しい顔に不思議な表情が浮かぶ。笑いをこらえているような表情だ。 「僕がなにか変なことを言ってしまったでしょうか⋯⋯?」 「いや、そうではない。ユリア殿はなにも変ではない」  ヴィクトルは軽く咳払いをしてから、真面目な顔になった。 「『手を握る』という項目はまだ書いていなかった。もしもユリア殿が同意されるのならば、『ヴィクトル・シードロフとユリア・ニキーチェは、夫と妻として自然に振る舞う』という項目をつけ加えてもいいだろうか? 執事のセバスチャンはもちろん、みなは我々が本当の夫婦だと思っている。彼らの目を欺くためにも、夫婦として振る舞うべきだと思うのだ。たとえば手を握るとか、その⋯⋯、いろいろだ——」 「ああ、なるほど! そういうことですね!」  たしかに、『夫婦として自然に見える振る舞い』は大事だろう。 「わかりました!」  ユリアは大きく頷いた。 「では契約書に、『夫婦として振る舞う』と書き加えよう」  最高に嬉しそうな顔で、ヴィクトルが羽ペンを手に取った。 *****  契約書を交わし終わるとホッとした。  ——よかった。これならば、なんとかやっていけそうだ。  ユリアは白い革表紙の契約書を胸にギュッと抱きしめる。 「書き加えたいことがあったら遠慮なく言ってくれ」 「ありがとうございます、でも、これでもう十分です」 「これから屋敷を案内しようか?」 「はい、お願いします」  少しは落ち着いて会話もできるようになってきた。  最初に案内してもらったのは屋敷の南側に広がる庭だった。中央に、真っ白な大理石で作られた噴水があって、そのまわりには赤やピンクの可憐な薔薇が咲いている。風がふくたびに花々がゆらゆらと揺れている。 「きれいなお庭ですね」  可愛らしい小鳥の鳴き声を聞きながら、平和な空気に満ちた静かな庭だな、と思った。 「気に入ってくれたら嬉しい——」 「はい、とてもすてきです」  深く息を吸い込むと、春の香りがした。ほんわりと暖かくて幸せな気持ちになれる香りだ。 「屋敷の中は一日では案内できないかもしれない」 「すごく広いですね」 「使っていない部屋が多いんだ」  そんな会話をしながら一階の応接室や二階の客間を見せてもらった。  どの部屋にも大きな暖炉があって、品のいい調度品が並んでいる。  シードロフ家の屋敷は巨大だ。廊下はまるで迷路のようで、ゆっくりと歩きながら部屋を見せてもらっていると、あっという間にお昼になった。  セバスチャンがニコニコとご機嫌な顔でやってきて、庭を見渡せるテラスに案内してくれた。 「お天気がよろしいのでお昼はテラスにご用意いたしました」  白いテーブルクロスがかかった丸いテーブルがある。  そのテーブルの上に用意されていたのは、旨味たっぷりのソースがかかった鴨肉、そしてとろけるように滑らかなマッシュポテトのつけ合わせだ。  ——緊張して食べられないかも。  心配したが、ヴィクトルとセバスチャンが穏やかで楽しい会話を続けたので、笑いながら聞いているうちにどんどん食べることができた。  いつもは少食なのに自分でもびっくりするほど食欲が出た。鴨肉もポテトも残さずに食べることができたし、食後に出てきた何種類もの珍しいチーズもたくさん食べたし、香り高い紅茶とイチゴと生クリームのケーキにも手を伸ばした。  こんなに食べたのは初めてかもしれない。 「堅苦しくないほうがいいと思いまして、このようなランチにいたしましたが、お口に合いましたか、ユリアさま?」 「はい、とても美味しくいただきました」  ——こんなに幸せでいいのかな?  そう思うほど満ち足りたランチだった。  香り高いアールグレイを飲みながらチラリとヴィクトルを見ると、優しい微笑みが返ってきた。 *****  ランチが終わるとヴィクトルは出かける準備を始めた。騎士団の軍営で仕事が待っているらしい。  セバスチャンや使用人たちが玄関前に並んで見送る。ユリアは列の後ろに並んだ。するとセバスチャンが無言で目配せをしてくるではないか。 『え?』 『ユリアさま、そっちです!』 『そっち?』 『どうぞ前へお出になってください』 『ああ、はい! わかりました!』  急いで一番前に並んだ。 「あの⋯⋯。行ってらっしゃいませ」  そう言ったあとで、これで正しかったのかわからなくてとても焦った。  お飾りの妻の自分がどう振る舞っていいのかどうもよくわからない。  ——奥さん顔をして『行ってらっしゃい』なんて言ってしまったけど図々しかったかな?  少し後悔していると、ヴィクトルはパッと笑った。 「ああ、行ってくる——」  嬉しそうな笑顔で白馬に飛び乗り、屋敷を出て行った。  ——よかった、これで合っていたんだ。  小さくなっていくヴィクトルの後ろ姿を見つめながら、少しずつ、自分の立場がわかってくる。  ——夫婦として振る舞うってことは、こうして奥さんとして振る舞うことなんだ。なんだかちょっと気恥ずかしいなあ⋯⋯。 「ユリアさま?」 「え? ⋯⋯はい、なんでしょう、セバスチャン?」 「お疲れではありませんか?」 「大丈夫です。⋯⋯あの、なにかお手伝いをしたいのですが? 洗濯場はどこですか?」  袖をまくりながら聞くと、セバスチャンが目を丸くした。 「洗濯場? めっそうもございません! 洗濯は、洗濯係がいたします!」 「でも、井戸水は冷たいし⋯⋯。人手があった方が楽でしょう?」  従兄弟の家での冷たい水での洗濯の辛さを思い出す。  春でも井戸の水はそれはそれは冷たいのだ。冬の洗濯は指がちぎれるかと思うほどだった。  だから、このお屋敷でも、自分にできることはなんでも手伝おうと思っているのだ。 「冷たくはございませんよ。このお屋敷ではお湯を使っておりますし、洗濯係は何人もいるので、ちっとも大変ではございません」 「お湯?」 「はい、お湯です」 「そうなんですか⋯⋯」  ——ここで働く人たちがニコニコしているのは、仕事が辛くないからかもしれない。  従兄弟の家の使用人たちはいつも疲れ切っていて、誰もがギスギスとした関係だった。働く場所が違うとこうも違うものなのかと驚いてしまう。 「さあ、ユリアさま。それではこれから私室にご案内いたしますね」 「私室とはなんでしょうか?」 「ユリアさま専用のお部屋でございます」  案内されたのは二階の部屋だった。  ——うわーっ!  扉を開けたとたん、驚いて足が止まる。 続く

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