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第35話

「あ、違う……っ、これは——」  リオルが必死で弁明しようとしたときだ。  何を血迷ったか、シグルドがテファの首根っこを掴んで地面に引き倒し、左腕を捻りあげた。 「痛って! 痛いっ、痛いっ、離せって、腕が壊れる!」 「ふざけるな、この薄汚い手でリオルに触りやがって!」  シグルドは容赦ない。テファは痛みで地面にのたうちまわり、せっかくの煌びやかな正装が砂まみれだ。 「そ、そいつから誘ってきたんだよっ。俺はそれに乗ってやっただけ!」 「リオルが誘う……? そんなことあるわけないだろ! リオルは絶対にそんなことはしない! お前が手を出したんだろうが! 人のものに手を出すなんて、このクソ野郎っ!」 「痛って! 離せっ、離してぇっ……」  情けない声を出すテファ。そしてこの騒ぎに、大広間にいた人々が集まってきて人だかりができている。 「どうしよう……!」  初めての社交界で、シグルドは公爵にこんな乱暴を働いてしまった。  せっかく今日一日かけて積み上げてきたものが一瞬で崩れ去っていく。  これだから平民は野蛮なんだと陰口を言われたら……? シグルドが社交界から追放されたら……! 「ダ、ダメだよシグルド、もうやめてっ、全部っ、全部僕が悪いんだ! ケンカは良くないよっ」  リオルはシグルドの腕を掴んでやめさせようとするのに、シグルドは言うことを聞いてくれない。 「リオルが悪いことなどひとつもない! このエロ公爵が人のものに手を出したのが悪いんだろ!」  シグルドの言葉に野次馬貴族たちがクスクスと笑っている。 「それにこれはケンカじゃない。成敗だ! こんなクズが偉そうにしてたら、さらに被害者が増えるだろ! こいつは俺が今ここでとっちめてやる!」 「痛った、イタタタ……ッ」  痛がるテファを見てまた貴族たちが笑う。平民にやられる公爵の絵面が面白いのかもしれないが、リオルとしては気が気じゃない。  何のためにシグルドはリオルと結婚したって、お偉いさまたちとの繋がりを作るためだ。  それをこんな騒ぎひとつで台無しにしたくない。 「あっ、あのこれはっ、皆さん、あのですねっ、夫は普段はとても温厚な人でっ……」  誰に聞かれてもないのに、言い訳したくなる。シグルドは本当に温厚で、むやみに人に乱暴を働いたりしない。でもこの場面だけを見た人たちは、シグルドのことを誤解してしまう。それがどうしても嫌だった。 「そうか。温厚な男が、ここまでやるとは相当腹が立ったのだな」  人々が畏まり、道を開けていく。そこから現れたのは王太子殿下だ。  紋章入りの宝冠(コロネット)をかぶり、直属の王家にしか許されない特別な赤色のベルベットのマントを身につけているさまは、誰から見ても特別な存在に映ることだろう。  さすがのシグルドも、王太子殿下の前では何もできない。ねじ伏せていたテファを解放し、姿勢を正して深々と頭を下げる。  リオルもそうだ。御尊顔を見るのすら憚れるくらいで、頭を下げながら王太子殿下の様子を密かに伺う。 「シグルド・フォーデン。お前はただの騎士だろ。なぜここにいる?」  シグルドは王立騎士団所属だ。王太子殿下の警護に就いたこともあるが、王太子殿下がシグルドの名前を把握していることに驚いた。 「ハーランド家の者と婚姻関係にあり、同伴として殿下の誕生祭に呼ばれました」  シグルドは王太子殿下に答えたあと、再び頭を下げる。 「それで、叔父上をこらしめていたのか?」  王太子殿下がニヤリと口角を上げる。 「はい。どうしても許せませんでした」  正直にシグルドが答えると、王太子殿下は周囲を見渡した。  そのとき、リオルと目が合った。リオルは畏まりながら「リオル・フォーデンです」と名乗った。 「なるほど。叔父上は何かおっしゃりたいことはございますか? まさか私が以前忠告したことを忘れたということはありませんよね?」  王太子殿下は今度はテファに迫る。テファは青ざめて「なっ、何も申し上げられませんっ」と地に手をつき、土下座をした。  テファの慌てようは異常だ。おそらくだが、以前も何か王太子殿下に言われていて、ふたりのあいだに何か約束のようなものがあったのかもしれない。  それに、皆の態度だ。気がついてみれば、土下座するテファに同情する者は誰もいない。貴族たちは密かに、テファのみっともない姿を喜んでいるようだ。  そしてシグルドのことを好意的な目で見ている。 「シグルド。お前はなかなか芯の通った男のようだな。番のオメガを守るのがアルファというものだと私は思う」 「はっ。ありがたきお言葉です」 「私の身内がお前たちに迷惑をかけた。詫びがしたい。何か欲しいものはあるか?」  王太子殿下の思ってもいない言葉にリオルは目を丸くする。王太子殿下自らシグルドに詫びてくれるとは、畏れ多いことだ。 「いいえ。殿下。そのお言葉だけで十分でございます」  シグルドは深々と礼をする。 「遠慮するな。何も望まないなら、そうだな。これをやる」   王太子殿下がシグルドに何かを手渡した。 「これは魔石だ。これを持っているといざというときに己の身代わりになるそうだ。お前は戦いに出ることが多いのだから、ひとつ持っているといい」  魔石とは、神に仕えし神官たちが力を込めた宝石だ。宝石が発するもともとの力もあるが、それを神官たちがさらに増幅させ、運気を高める効果があるという。  街の露店で売っているような安価な魔石から、上位の神官が力を込めた高級なものまであるが、王太子殿下がシグルドに授けた青く光る魔石は神々しく闇夜に光を放っていた。  おそらく、とても潜在魔力の高い魔石だろう。 「こんな貴重なものを……。ありがとうございます」  シグルドが礼を言う。 「命を守るために肌身離さず持っていろ。愛する伴侶のためにも長生きせねばな」  王太子殿下が微笑むと、それだけで周囲の空気が変わった。 「叔父上。ここにいる者たちは叔父上のしたことに気がついているようですよ。さて、このことを父上に報告しにまいりましょう。地面に頭を擦り付けるのはそのくらいにしてください」  王太子殿下は、テファを立ち上がらせる。テファは左腕が痛むのか腕を押さえながら、立ち去る王太子殿下のあとをよろめきながらついて行った。

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