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92.最終話

白シャツに黒のカマーベスト、黒い蝶タイ、黒のスリムパンツにソムリエエプロン。 接客用の笑顔を見せる恋人に、僕は自分に向けられてるわけでもないのに、その横顔にぽーっと見惚れてしまう。 柊くんの目の前には、カウンターを挿んで2人の女装家のお姉さんたち。 時折きゃーって黄色い声を上げながら、柊くんと楽しそうにお喋りしてる。 柊くんがアルバイトするようになって、女性の心を持つお客さんも増えたんだって。 元々ここは、愛の女神さま(リュートさん)のご加護による運命の出会いを求めて訪れる人と、美人のマスター(やっぱりリュートさん)目当ての人が多かったから、トランスジェンダーやニューハーフの人は常連さんの知り合い以外はいなかったんだけど。 ネットに、『若いイケメンの男の子が入った』って書かれてから口コミで広がって。 やっぱり柊くん、かっこいいよね…。 皆もそう思うんだって、嬉しくもあるんだけど……… かっこいいって、思えば思うほど、柊くんが遠くに思えたりもする。 柊くんがお仕事の日は、いっそ来ない方がいいのかな。 柊くんがお休みの日に、一緒に飲みに来ようかな…… こっち、見てくれないかな……… そんな思いがまさか通じる筈もなく、ひとりむなしく溜め息を吐き出そうと口を開けば、 「忍」 僕の様子を察してくれた訳でもあるまいに、柊くんが不意にこちらを向いた。 だって柊くん、お姉さんたちの相手で忙しくて、僕の方を見る余裕だってないハズだもん。 「眠くなっちゃった?」 こちらに歩いてきたかと思えば、頬を包まれ顔を上げさせられる。 「あ……ううん、だいじょうぶ」 「1人で退屈じゃないか?もう少し待っててな」 おでこをこつんと合わせてくれた。 仕事中はキスできないからその代わりな、って、アルバイトを始めた頃に柊くんが考えてくれた決まり事。 「うん。待ってるね」 笑ってみせれば、微笑み返してくれた。 「秦野くん、今日はそんなに忙しくないから、早めに上がってもいいよ」 リュートさんが気を利かせて声を掛けてくれたけど、 「大丈夫です。ありがとうございます」 柊くんが答えるより先に、僕が断った。 「こちらこそ、ありがとね、平井くん」 柊くんが持ち場へ戻ると、リュートさんは、氷が溶けて水になったグラスを新しいグラスと取り替えてくれる。 「はい、皐月くんの桃のジュースだけど、ボトルからこっそりサービスするね」 「えっ、皐月くんの?それって、ダメなんじゃ…」 「いいの。皐月くんが再三の僕からの勧誘を断るから、秦野くんを平井くんから取り上げる羽目になっちゃったんだから」 「え、と…、それじゃあ、いただきます」 リュートさんはそんな風にイタズラに言うけど、本当にそう思っている訳じゃないってことは、その微笑みを見ていれば分かる。 だから僕も微笑って、グラスを受け取った。 柊くんの横顔を見つめる。 仕事中の柊くんは、普段よりも大人っぽくてかっこよくて、違う人みたいで少しだけ淋しい。 だけど、僕と目が合えば笑ってくれるんだ。 僕のことを忘れてしまっていた、本当に違う人みたいだった、あの時とは違う。 まろやかで甘い桃のジュースを一口、腕時計をちらりと見れば、柊くんの就業時間終了まであと5分強。 ここから柊くんの家までは電車で2駅、すぐだから、耐えられない距離じゃない。 帰ったら、僕しか見えない距離で、いっぱいいっぱい甘えちゃおう。 視界いっぱい僕で埋め尽くして、他の誰にも目移りできないように。 明日も柊くんが、僕にしか興味がないって、僕だけが好きだって言ってくれますように。 僕も、たくさんたくさん、好きだって言葉にしよう。 もう彼が、二度と僕のことを忘れたりしないように。 僕の幸せは貴方と共にあるのだと伝えるために。  -おしまい-

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