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Year 10 / Autumn Term 「ジェシとピアノ」

 ジェシ・デイヴィス・オブライエンは、ふと聞こえてきたピアノの音に足を止め、古めかしい校舎の壁を見上げた。  ここセント・ローレンス・ウィンスタンリー・カレッジに入学してから初めての土曜日。ルームメイトたちと一緒に購買店(タックショップ)でネームタグやお菓子などの買い物をして、(ハウス)に戻る途中だった。アッパースクールの校舎の脇で立ち止まり、そういえば階上(うえ)に音楽室があったっけと思いながら暫し耳を傾ける。なかなか達者な弾き手が奏でているらしいそのベートーヴェンに刺激されたのかジェシは、弾きたいな、と思い――そんな自分に驚いた。 「どうしたの、オブライエン。おいていくよ」 「あ、ごめん!」  ボストンタイプの眼鏡を人好きのする丸顔にかけ直し、ジェシは急ぎ足でルームメイトに追いついた。  幼い頃から祖母にピアノを教わり、レッスンの所為で友達と遊ぶこともままならなかったジェシは、ピアノなんかもうやめたいと何度思ったかわからないのに、と苦笑した。  今よりもっと子供の頃は、厳しい祖母に叱られるのも人前で無理遣り弾かされるのも、嫌で嫌でしょうがなかったのだ。それなのに――寮制学校(ボーディングスクール)に入って生まれて初めて両親や祖母から離れ、やっとピアノからも解放されたというのに、ほんの僅かのあいだ触れていないだけでもう鍵盤が恋しくなるとは。  趣味はと訊かれれば写真と迷わず答えるし、ここにカメラもしっかり持ってきていたが、どうやらピアノは知らないうちにすっかり自分に欠かせないものになってしまっていたらしい。  嫌だったのはピアノではなく、強制され自由を奪われることだったのだ。 「どうかしたの? オブライエン」 「え、えーっと……さっき、ピアノの音が聞こえたものだから、ちょっと気になって」  ルームメイトのロドニー・グリフィスに訊かれそう答えると、一歩前を歩いていたイーサン・ダルトリーがくるりと振り向いた。 「ああ、あれたぶん寮の先輩だよ。いつも土曜のこの時間って聞いたから」 「先輩? ウィロウズ寮の? へえ、あんなに弾ける先輩が同じ寮にいるんだ……今からでも行ってこようかなあ」 「あーっ、やめとけやめとけ」  振り返って、今にも来た道を戻りそうなジェシを、ダルトリーは慌てたように止めた。 「俺はピアノのことを聞いたわけじゃなくって、その時間は音楽室に近づくなって忠告を聞いたんだ」 「近づくなって……どうして?」  ジェシが首を傾げて訊く。グリフィスも不思議そうな顔をして話を聞いていた。その反応を見て、何故か少し云いにくそうにダルトリーが答える。 「音楽室にいるのはひとりじゃないんだってさ。見た奴がいるらしいんだけど……その、キス、してたって」 「キ……!」  グリフィスは仰天して十字を切り、ジェシは目を丸くして聞き直した。 「キス……って、え、その……生徒同士でってこと?」 「生徒同士……ってか、同じ寮の先輩ふたりだってば。なんか、結構有名らしいよ? ひとりは入学早々監督生(プリフェクト)とやりあった強者(つわもの)で、もうひとりは学年でいちばんでかい奴に喧嘩で勝ったとか、オーヴァードーズで死にかけたとか、なんかやばい人みたい」 「えええっ」 「なにそれ、そんな怖そうな先輩ふたりが、その……つきあってるってこと?」  ダルトリーはうーんと首を傾げた。 「聞いた話ではなんか、そういうことなんだけど……自分で云ってみるとすごく違和感あるね」 「え、単なる噂話ってこと?」 「ピアノとキスの話が置き去りになって、ただの近づいちゃいけない不良の話みたいになってるし」 「え、でもそれって同じ人の話なんだよね?」 「どっちにしても、あんまり関わらないほうがいいんじゃないかな」  寮の前まで来ると三人は話すのをやめ、静かに自分たちの部屋に戻った。  上部がロフトベッドになっているデスクでネームタグに名前を書き、私物に付けながらジェシは、音楽室のピアノを使わせてもらうことはできそうだから、今度先生にでも訊いてみようと考えていた。  祖母から離れて、自由に、好きな曲を弾くということをしてみたい。クラシック以外というのもありかもしれない――とはいうものの、今まではピアノのために勉強したクラシックしか聴いておらず、他のジャンルはほとんど知らないのだが――そう考えているともう指がうずうずしてきて、じっとしていられない気分になった。  デスクの縁をたんたんと指で叩き、今日聴いた〝テンペスト〟を頭のなかで奏でる。ありがとう先輩、と顔もわからないのに礼まで云いたい気分だった。自分がこんなにピアノが好きだなどと、今の今までまったく気づいていなかったのだから。怖い人でもソドムの住人でもかまうものか―― 「――あ」  不意にジェシは、入寮した日に間違って入った部屋で見た光景を思いだした。  ベッドの上で抱きあっていたあのふたり。一瞬見ただけだがどっちも整った綺麗な顔をしていて、男同士なのにちっとも変な感じはしなかった。それどころか、あまりにも絵になっていたので、カメラを持っていたら撮ってしまったのではないかと思ったほどだ。聞いた話から思い浮かべたイメージとはかなり違うけれど、ひょっとして有名な怖い先輩というのは、あのふたりのことなのだろうか。  ジェシは何故か目に焼きついていた柔らかなライトブラウンの髪と、ダークブロンドのカップルがピアノの傍に佇み、見つめあっているところを頭のなかに思い浮かべた。  それはまるで映画のワンシーンのようで、やはりまったく嫌悪感などは湧いてはこなかったし、怖い感じもしなかった。 「オブライエン、ダルトリー、もうちょっとしたらさっき買ってきたお菓子を持って、コモンルームへ行こうよ。お茶にしよう」 「うん、そうだね。ちょうど喉が渇いてきたところだった」  グリフィスに答えて、ジェシは思った。  同じ寮にいるのだから、焦らなくてもそのうちまた会えて、話したりすることもあるだろう。まだ音楽室にいたのが彼らかどうかわからないけれど、あの場所でピアノを弾いていればそのうち、なにかしらの繋がりができるような気がした。  PEキットの袋にネームタグを付けるのを終え、後ろを向いてグリフィスとダルトリーがまだ作業をしているのを確認すると、ジェシはまた頭のなかで〝テンペスト〟を鳴らし、デスクの端で指を躍らせた。
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