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Year 10 / Autumn Term 「試験と進路、そして将来」

 イギリスではY10(10年生)になるとジェネラル・サーティフィケイト・(General Certificate )オブ・セカンダリー・エデュケーション(of Secondary Education)――略してGCSEという、中等教育修了試験に向けた授業が始まる。  英語や数学、科学などの基本的な科目は必須だが、それ以外の特定の科目は選択になり、生徒たちは自分の得意分野を伸ばし、将来をも見据えた学習に取り組んでいく。ルカは、普通はY11(11年生)になってから受ける試験のうち、一部の科目をY10のうちに取ってしまおうと早くから計画を立てていた。  土曜の夜、ルカたち四人は部屋着兼寝間着のようなリラックスした恰好でコモンルームのテーブルを囲み、お茶とお菓子を楽しんでいた。  最初のうちはいつものように取り留めのない話をしていたが、ふとオニールが今年度からの選択授業について話を振りGCSE試験にまで話題が及ぶと、ルカはちょっとそこにある棚からビスケットを取ってくるかのような軽い調子で「あ、俺は取れるもんはさっさと取るつもりだよ」と云った。 「だって、取らなきゃいけない残りの科目を減らしておいたほうが楽だろ。少しでも減らしておけば不得意な科目をそのぶんやることもできるしさ。だいいち、そのほうが面倒臭くない」 「そうだね、僕もそのつもりだよ。僕は英語と英文学と数学、あと選択した宗教とフランス語をY10のうちに取りたいと思ってるんだ」 「俺は英語と……体育……くらいしか取れねえ……」 「エッジワース、君は科学の成績はそんなに悪くなかったじゃないか。ちょっと勉強すればCくらいは簡単に取れるよ」  科学かぁーと頭を抱えるエッジワースの向かい側で、テディは俯いたまま、じっとミルクティーのカップを見つめていた。  その様子に気づいてルカは「どうかしたのか? テディ」と声をかけ、顔を覗きこむように首を低く傾けた。はっとしたようにテディが顔をあげ、「あ、ううん……なんでもない」と首を振る。 「ただ……ちょっと考えてたんだけど、この……GCSEって、頑張っていい成績を取るのはシックスフォームに上がって大学を目指したいから……なんだよね?」  ルカははっとした。  裕福な家の子息が多く集まるこの学校では、ほとんどの生徒が当たり前に大学に進むこと――なかでも、理想はオックスブリッジ――を望まれていて、ルカ自身もなんの疑問もなくGCSEで最低でもB以上、できるならたくさんのAを取ってシックスフォームに進んだら、次はAレベル試験だと考えていた。しかしテディは、もう働ける年齢になったならいつまでも祖父の庇護下にいてはいけない――もしくは、いたくないと思っているのかもしれない。  この頃のイギリスの義務教育は十六歳までで、GCSEの結果が出たその後はシックスフォーム課程に進んで大学進学を目指すか、専門的な知識を学び就職のための資格などを取得できるファーザー・エデュケーション・カレッジに進学するか、働きながら専門学校に通えるアパレンティスシップという制度を利用するか、そのままなにもせずに社会に出るかの選択になる。  ルカは思った――年に三万ポンド払って孫を放りだすようなクソじじいだ、見栄だけはあるんだろうから遠慮せずにいい大学へ行ってやればいい。しかし、思ったままを言葉にするわけにもいかない。さて、なんと云えばいいかと悩んでいると―― 「ヴァレンタイン、それは違うよ」  ルカが考えているあいだに、先にオニールが答えた。「確かに、GCSEでいい成績をたくさん取ればそのあと有利だけれど、それは大学進学に限ったことじゃないんだ。就職するときもこれの記録はしっかり参考にされるし、得意な分野でいい成績を収めてFEカレッジで資格を取ったりすれば、専門職に就いて安定した収入を得ることにも繋がる。僕たちにとっては、今はまだ机に齧りついてやっとな難しい科目もあるけれど、GCSEなんて所詮は一般的な中等教育の修了証だからね」 「だよなあ。俺はFEカレッジに進んで早く働くのが目標だけど、それでもやっぱ勉強はしないといけないんだよなあ」  エッジワースがそう云うのを聞いて、ルカは少し驚いた。 「え、トビーおまえ、大学には行かないのか?」 「おう、行かねえ。俺は早く自分で金を稼いで、誰にもなんにも云われないで好き勝手にやっていきたいんだ」  エッジワースの言葉を聞いて、オニールが苦虫を噛み潰したような顔をした。そしてテーブルの陰でなにやら膝が動くのが見え、程無く「痛っ!」とエッジワースが声をあげた。どうやらオニールがエッジワースの脚を蹴ったらしい。  何食わぬ顔でオニールはカップを手に取り、ミルクティーを一口飲むとまた話しだした。 「まあでも、シックスフォームに進むにしてもFEカレッジに行くにしても、GCSEでいい成績を取っておくに越したことはないね。人生をカードゲームに喩えるなら、これは最初に配られる手札のようなものだからね」 「なんで蹴……って、カードゲーム? へえ、めずらしいな、デックスがそういう喩えすんの。手札かあ、そりゃいいカードが多いほうがいいわな」 「先輩の受け売りだよ」  そうかー、手札か、やっぱもうちっと真面目に勉強しないとなーと独り言のように呟くエッジワースにくすりと笑って、テディはテーブルの上に広げられたGCSEについて書かれたリーフレットに視線を落とした。 「そうだなあ……、得意っていうわけでもないけど、俺が取るとしたら英文学と、あとドイツ語と地理かなあ……」  テディのその言葉になんとなくほっとして、ルカは何気無くオニールの顔を見た。するとオニールもちら、とルカを見、目が合った一瞬にっと口許に笑みを浮かべた。やはりオニールは、テディの置かれている状況をある程度わかっていて、さりげなくフォローしてくれているのだ。  オニールは大学へ行くべきだとまでは云っていないが、とりあえず今の話を聞いて、テディはGCSEには真剣に取り組む気になったようだ。まだ二年あるのだから、進学か就職かについてはまだ考えなくても、まずは可能性を広げてさえおけばいい。ルカはオニールに心のなかで感謝しながら云った。 「ああ、ドイツ語は俺も楽勝だな。あとは音楽か」 「ブランデンブルクもヴァレンタインも、かなり成績はいいほうだもんね。今年度中に半分はいけるんじゃない」 「半分取れればあとかなり楽だよな」 「ってかよー、ドラマは? みんなドラマの授業おもしろいって云ってたのに、なんで試験では取らねえんだ」  イギリスにはドラマという、ちょっとめずらしい授業がある。簡単に云えば演劇教育のことなのだが、学ぶのは演劇やシェイクスピアについてばかりではない。  ドラマの授業では演劇を通して想像力や表現力を高め、実際に自分たちで劇をすることで複雑な人間関係の疑似体験をし、表舞台には出ない仕事の重要性を学び、大勢でひとつのことに取り組むことにより協調性を身につける。 「確かに授業はおもしろいけど、芸術のブロックからは俺、音楽選んだもん」 「あ……ごめんトビー。俺も音楽……」  ルカとテディがそう云うのを聞いてまじかよ、と口先を尖らせたエッジワースに、オニールはまた的確なフォローをした。 「君は美術を取ればいいんじゃないか? 確か前に、大胆な色使いと荒々しいタッチがなかなかいいって先生に褒められてただろう」 「おー、あの絵な。ただやる気なくて適当に描いただけなのがわりとよかったんだよな。芸術なんていいかげんなもんだぜ」 「いいかげんではないけどね。ジャクソン・ポロックだって無雑作に散らしてるようにも見えるけれど、実際はものすごく集中してコントロールしながら絵の具を垂らしてたし」  その後、話題はアートから街の落書き、次の外出日についてと移り変わり、持ち寄ったお菓子がなくなると四人はコモンルームを後にし、それぞれ部屋へと戻った。  あとから入ったテディがドアを閉めると、ルカは振り向きなんとなく合った視線を絡め取るように顔を近づけ、軽く触れるだけのキスをした。  微笑みかけ、それだけで離れて自分のデスクに向かおうとしたルカを、テディが袖を掴んで引き留める。 「ん? どうした」  テディはとん、と躰をぶつけるようにしてルカに凭れ掛かり、背中にまわした手に力を込めた。あやすように肩を抱き、ルカは少し心配そうにテディに訊いた。 「どうしたんだよ。また誰かになにか云われたのか?」 「ううん」  訊いておきながら、ルカは違うだろうとわかっていた。無口でおとなしく見える所為かついつい庇いたくなるテディだが、陰口などを気にして落ちこんだりはしないし、なかなか人に助けを求めたりもしない。となると――こんなふうに甘えてくるのは、なにか自分に云いたいことがあるのだろうか。  ルカは肩を抱いたまま、「とりあえず坐ろう。なんでも聞くから。な?」とテディのベッドのほうへ促した。  並んで腰掛け、テディが話しだすのをじっと待つ。夜の森を切り取ったような窓がかたかたと揺れ、微かに風の鳴る音が聞こえた。そっちに目をやり、ふと夜中に散歩をしたときのことを思いだす。ほんの三ヶ月ちょっと前のことなのに、何故だかずっと昔のことだったような気がして、ルカはおとなびた表情で目を細めた。 「……ルカは」 「うん?」  テディは俯いたまま、ぐっとベッドスプレッドを握りしめていた。 「ルカは、やっぱりこのままここのシックスフォームへ進むんだね……」 「ああ、うん。もちろん、そのつもりだけど……」  シックスフォームには独立したカレッジもあるが、ここセント・ローレンス・ウィンスタンリー・カレッジの生徒のほとんどは併設されているシックスフォーム課程へ進むので、通う校舎が変わるだけである。ここを出るのはFEカレッジへ進むなど大学進学を諦めた場合か、アッパーシックスでAレベル試験をパスし、受け入れてくれた大学へ移るときだ。 「お――外野は、オックスフォードに行けたらとか勝手なこと云ったりするけど、俺はもうちょっと現実的に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに行けたらなって思ってるんだ。立地的に最高で、評価も評判もいい」 「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス? なんか、聞いたことがあるかも……有名?」 「ミック・ジャガーが通ってた」  ルカの答えにテディはぷっと吹きだした。 「まさかそんな理由で?」 「まさか。そんなきっかけで調べてみたらなんか良さそうだったってだけだよ」 「でもきっかけなんだ」  くすくすと笑うテディを見て、ルカはほっとした。が。 「経済か……俺の得意な方面じゃないな……」 「え?」  まだ笑みは浮かべていたが、少し目に昏い色を乗せてテディが呟く。 「やっぱり、ずっと一緒にいるのは無理……なんだね」 「え――」  予想もしなかった言葉に、ルカは目を瞠って躰ごとテディに向いた。 「ひょっとしておまえ、大学に行くかどうか悩んでたんじゃなくて、ここを出たら俺と離ればなれになるって――」  ここにいるあいだだけのことじゃない、卒業してもずっとだ――自分はそう誓ったではないか。ルカはそれを思いだして、なんで気づかなかったのかと額に手を当て頭を振った。 「テディ、もううんざりするほどわかってると思うけど、俺は物事を深く考えるほうじゃないんだ。だから、なにか思うことがあったらすぐにはっきり云ってくれ。云われなくてもわかるように努力もするけど、大抵は云われたら、あっそうだったってなるから。……テディは、できれば俺と同じ大学に行きたいって、そう思ってくれてるんだな?」  両肩を掴み、正面から目を見てルカがそう確かめると、テディは恥ずかしそうに視線を泳がせ、俯いてしまった。 「だって……当たり前だろ。ほんとは俺、大学どころかシックスフォームにだって進んでいいのかどうかわからないし、どうしようかと思ってたけど……そしたら、もうルカと一緒にいられなくなるんだなって……」  ルカはたまらなくなって掴んだ肩を引き寄せ、そのまま腕のなかに閉じこめるようにテディをしっかりと抱きしめた。  込みあげてくる愛しさのまま撫で摩るようにかき抱き、柔らかな髪を指で梳くようにして頭を撫で、そこに唇を押しつける。 「……テディ、安心しろ。俺たちはずっと一緒だよ。大学なんてどこだっていいんだ、ちゃんと一緒に行けるところへ行こう。GCSEでできるだけいい成績を取っておいて、一緒にシックスフォームに進んでAレベルにパスして、同じ大学へ行って同じ寮に入ろう。で、大学を出たら一緒に――」  云いながら、ルカは自分がどういうことを口にしているのか、やっと気づいた。が、そこに迷いはなく、そうか、そういうことなんだと自覚をしただけで、すぐに続きを言葉にする。 「一緒に暮らそう、テディ」  腕のなかの躰が震えるのを感じた。以前、片膝をついて告白したのはただの偶然の出来事だったが、今ははっきりと、これはプロポーズのようなものだと理解していた。十五の誕生日もまだなうえ、キスまでしかしていない関係でプロポーズ――まったくいかれてるなと内心で苦笑しながらルカは、しかしどんなにまともで順風満帆な、幸せな人生が用意されていたとしても、そこにテディがいないなら自分は選ばないだろうとも思った。 「……一緒に……」 「うん。一緒に」 「ずっと……?」 「ずっと」 「ほんとに……?」 「ほんとだとも」 「じゃあ……勉強しなきゃ」 「うん。一緒にやろう」 「ルカ……」 「うん?」  少し身を離して顔を見る。テディはじっとルカを見つめていて、ルカはその大きな灰色の瞳を暫し見つめ返したあと、ゆっくりと顔を傾け口吻けた。  いつもよりほんの少しセクシュアルな深いキスにうっとりと身を任せ、テディがルカの腕に凭れる。もっと深く探ろうと舌を進めているとつい躰ごと前に出てしまっていたらしく、とさっとベッドに押し倒したかたちになった。ああやばい、と思いながらもまだ青い本能は止める術を知らず、ルカは覆い被さったまま息を奪い続けた。  さすがに苦しくなったのかテディが胸を押すと、ルカは腕を突っ張って離れ、その紅を差したような顔を見下ろした。間近に見るテディの瞳は潤んでいて、肩を揺らしながら空気を求める唇は血の色を透かして薄く開かれている。その扇情的な美しさは、ルカの雄としての衝動を呼び起こした。  再び躰を密着させ、ルカはテディの額にかかる髪を掻きあげて(まなじり)から頬、頬から頸筋へとキスを浴びせた。零れた微かな吐息が耳を擽り、ルカはそれに煽られるように耳朶を喰み、テディの着ているプルオーバーの裾から手を差し入れた。 「ルカ――」  唇で頸筋を辿り喉のあたりに吸いつくと、顔を仰け反らせてテディが制止するように名前を呼んだ。が、ルカはその手を止めず、捲りあげた服の下で胸許に手を這わせた。びくりと身じろぎ、テディはその手を布越しに掴んでルカの下から逃れようと動き、顔を逸らす。 「やっ……、ルカ、やめ――」 「あ……」  肌の感触を確かめていた手に、それを押し止めようとする力を感じ、ルカははっと我に返った。慌てて躰を起こしテディから離れ、その困惑したような表情を見て、いま自分がなにをしようとしていたのかに気づくと、そのショックが夏の記憶を甦らせた。  頬が熱いのは興奮の余波か羞恥のためか、それともあのとき()たれた痛みの再生か――とにかく今は後悔も自己嫌悪も脇へ置いておいて、早く謝らないと……と、ルカは焦った。プロポーズのような言葉を口にしたばかりで軽蔑されては、笑い話にもならない。 「ご……ごめんテディ! 俺……こんな、こんなことするつもりじゃ……」  テディは半身を起こし、なにやら考えこむように俯いていた。またやらかしてしまった、怒っているだろうか、それとも泣くだろうかとルカは不安に慄き、ルカなんかもう信じられない、二度と触らないでと罵られるのを想像した。  ああもう、なんでこんなことをしてしまったんだろうとぐっと拳を握りしめ、自分を殴りつけたいのを堪らえるように目を閉じると――ぼそりと、独り言のようなテディの声が聞こえた。はっと顔をあげ、ルカはテディを見た。 「ちょっとびっくりしただけ……、怒ってないよ。俺のほうこそごめん……」 「もうほんとに……俺、なんでこうなんだろう。悪かったテディ、ほんとにごめん! もう絶対しないから」  必死で謝るルカを見て、テディは少し首を傾げ、そして笑った。 「ねえ……ちゃんと、俺の云ってること聞いてた? 怒ってないってば。それに、もう絶対しないって……それはそれで、問題あるような気がするんだけど……」 「え」  ルカは黙りこくり、云われた言葉を一瞬遅れて理解すると――目を見開き頬を紅潮させながら、テディの顔を見つめた。テディはそんなルカを見てくすくすと笑っている。その表情にルカはようやく安堵し、肩の力を抜いた。 「ほんとに――怒ってないのか。それにその……じゃあ、もし、えっと、その……」  しどろもどろになるルカにまた笑って、テディはちら、と時計に目をやって云った。 「……もうじき点呼の時間だよ。シャワーとか済ませて、寝る準備しないと」 「えっ、もうそんな時間――」  テディに倣ってサイドテーブルの上の時計を見ると、もう九時をとっくに過ぎていた。「ルカはシャワーは?」と訊くテディに片手をあげてお先にどうぞ、とジェスチャーだけで応え、ルカはいつも寛ぐときに坐る布張りのチェアに腰掛けた。  テーブルに肘をつき、ふぅ、と息をついて思わず緩んでしまう頬に手を当てると、テディはもうバスルームに入ったのか、ぱたん、という音が耳に届いた。 「……やばい。テディ……好きだ。ほんとに好きだ……もう、どうしよう」  部屋にひとりになったと思った途端、ルカはもう堪えられなくなってそう小声で呟くと、火照ったままの顔を隠すようにテーブルに突っ伏した。

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