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Year 10 / Christmas Holidays 「Broken Night」

 クレアとダニエルが車に乗りこみ、走り去っていくのをデニスと一緒に見送ると、テディは逃げるように階段を駆け上がった。部屋に入ってドアを閉め、そしていつも寝る前にするようにドアの前にCDを重ね、キャンディの缶を置く。  今夜はもうシャワーを浴びようなどという気は起こらず、部屋を出たくもなかった。ドアの仕掛けはいちおうしたが、眠ろうとも、眠れるとも思えない。なんとか何事もなく明日の夜、クレアたちが帰ってくるまで――否、せめて朝、朝食を食べ終えるまで、デニスがなにもしてこないことを祈るしかなかった。  朝食を済ませたら、なにか適当に理由をつけて出かけてしまおうか。テディは考えた――クレアがくれた小遣いもあるし、クリスマスで休業の多いロンドンの街でも、半日くらいは時間をつぶすことができるだろう。  とにかく、デニスとふたりっきりで家にいることは避けたかった。――。テディはベッドの上で身を隠すようにブランケットに包まり、警戒するようにドアのほうを見つめた。  しばらくは、なんの物音もしなかった。まだ階下(した)のリビングでTVでも見ているのだろうか。いつもと違い、食事のときモルドワインしか飲んでいなかったので、リビングでビールでも飲み直していてくれれば――そして、そのまま酔い潰れて眠ってくれればいいのにと祈る。ふと襲ってきた既視感に、記憶を再生したくなくて瞼を閉じられず、増幅した恐怖感も相俟って、テディはドアからまったく目を逸らせずにいた。  ここにはルカがいない――ルカは、出逢ってからこれまで何度も何度も自分を救ってくれた。誰かに救けを求めることなどもう考えもしなくなっていたというのに、ルカはちゃんと気づいて、自分の窮地に駆けつけてくれた。困っていたら必ず救けると約束し、彼は本当にそれを守った。自分のことを救けてくれた者など、これまでにたったひとりしかいなかった――母でさえ救けてはくれなかったのだ。ルカはテディにとってまさに救いの神であり、希望の光だった。  しかし、ここは学校ではない。ルカは今、ここから車で二時間ほどかかるブリストルの家にいるはずだ。どんなに必死に名前を呼んだとしても、ルカが救けに来ることなどありえない。  それでもテディはぎゅっとブランケットを握りしめ、ルカ……と名前を呟いた。  早く(ハウス)に戻りたい。戻って、ルカに会ったらミントグリーンのマグを渡すのだ。自分の藍色のマグと揃いだと知られるのは少し照れくさいけれど……と、テディはデスクの上のプレゼントの入った紙袋(ペイパーバッグ)を見た。  早く渡したい、早く休暇なんか終わってしまえばいい。早く、朝がくればいい。そう思ってベッドの脇にあるサイドテーブルの上の時計を見る――まだ九時にもなっていなかった。重く溜息をついて、テディは膝を抱え目を伏せた。  それからどのくらい経ったのか――こんこんというノックの音に、テディははっと顔をあげてドアを見た。眠れるはずがないと思っていたのに、腹が満たされていた所為かいつの間にやらうとうとしていたらしい。「テディ? ちょっといいかい?」とデニスの声が聞こえ、テディは一瞬迷い、ベッドを下りてドアへと駆け寄ると、ノブを握りドアに張りつくようにして、開かないように押さえた。 「テディ? もう眠ったのかい? 開けるよ――」 「すみません! ちょっと……食べ過ぎたみたいで気分が悪くて、もう休んでるんで……」  思いつくままにそう言い繕い、テディはしっかりノブを握りこんだ。 「おや、具合が悪いのかい? 消化剤を持ってきてあげようか」 「いえ、寝れば治ると思うんで、大丈夫です……おやすみなさい」 「そうかい?」  そう云ったきり、ドアの向こうからはもう声がしなくなった。テディは息を詰め、ドアに張りついたままじっと様子を窺った。程無くぱたぱたと足音が遠ざかっていき、テディはほーっと息をつき、緊張を解いてドアに張りつかせていた手から力を抜いた。ふらふらとそこから離れ、よかった……とデスクに手をつく。ふと、ルカにあげるつもりのマグがお守り代わりになったような気がして、テディは紙袋を持ちあげ中を覗きこんだ。  レトロなデザインの包装紙に包まれたふたつの箱の一方にだけ、赤いリボンがついている。テディはそれを眺め、ルカを見つめているときのように微笑んだ。そのとき―― 「テディ、開けるよ」  再び不意に聞こえたノックとデニスの声にびくっと身を竦ませ、テディは紙袋を床に落としてしまった。こん! という音に焦り、それを慌てて拾いあげる。同時にかちゃりとドアが開き、仕掛けのCDと缶がかたん! からからと大きな音をたてた。  弾かれたようにそっちを向く。紙袋をデスクに置き、テディは飛びつくようにしてドアを押さえたがもう既に少し開かれてしまっていて、その隙間からデニスが顔を覗かせた。 「テディ、マジョラムティーを淹れてこようか。消化にいいんだ。食べ過ぎるとダニーもいつも飲んでるんだよ」  その言葉は、いつもダイニングで見せる良き夫であり、優しい父親である貌をしたデニスのものだった。テディは一瞬なにもかも自分の考えすぎで、デニスは本当に自分の腹の具合を心配して云っているのではないかと思った。しかし、どうしても胸許を這った手の感触や、バスルームでのあの目つきが頭から離れない。腕時計をつけたとき、じっと見つめながら手を握られたのも――おそらくほんの数秒だったのだろうが、テディには充分不自然なほど長い時間に思えた。  考えすぎなのではと、まったく思わないわけじゃない。しかし、頭のどこかで本能的に警鐘が鳴るのも確かなのだ。 「テディ? どうしたんだ、どうしてドアを押さえてる? 部屋に入れてくれないのかい?」  ドアの隙間から手が伸びてきて、ドアを押さえているテディの手に触れた。テディははっとその手を引き、なにか云わなければと焦った。が、咄嗟にはもうなにも浮かばず、からからに渇いた口は荒く呼吸をするばかりだった。 「テディ、いったいどうしたんだ……。悲しいよ、僕はこんなにいろいろ君にしてあげてるのに……君は僕のことが嫌いなのかい? なにがそんなに気に入らないんだ」 「そんな……、そういうわけじゃ」  テディは途惑った。  嫌いかと云われれば、そういうわけではないのだ。自分はただ悪夢が甦る予感に慄き、それを回避するために警戒しているだけだ。クレアと同じく、デニスにも感謝はしていた――それが何故、こうなってしまったのか。否、こうなってしまうのか。  混乱してごちゃごちゃと考えているあいだに力が緩んでいたらしい。ぐぐっとドアが押し開かれ、デニスが部屋に入ってきた。  ドアを閉め、「テディ……とりあえず話をしよう」と、デニスは言葉も発せず固まっているテディを促し、ベッドに坐らせ自分も隣に腰掛けた。テディはどうしたらいいかわからず、じっと俯いたままだった。そんなテディを見つめ薄く微笑んで、デニスはそっと肩を抱いた。 「テディ……、僕はね、君のことを自分の息子のように可愛いと思ってるんだよ。預かることになったのが君で、本当によかったよ。君は頭もいいし、とてもいい子だ」  デニスはそう云いながら肩に置いていた手を動かし、腕を撫で摩り始めた。テディは思わず躰を強張らせたが、声もだせないし動くこともできない。 「腕時計、気に入ってくれたみたいでよかった。他にもなにか欲しいものがあったら云ってくれ。君の欲しいものならなんだって買ってあげるよ。まあ、車とか云われても困るがね。ははは……」  手はだんだんと下がっていき、背中から腰の辺りを撫で始めた。 「車はさすがにプレゼントできないけど、一緒にドライブに出かけるのはありだな。どうだい、今度一緒にどこかへ行こうか。ふたりで……」  腰から更に下、そして腿へと手が伸び、デニスはぴたりと躰を密着させてきた。やはり考えすぎでもなんでもないと、テディは悍ましさと恐怖に身を捩ってなんとか離れようとしたが、触れられている手に力を込められ、思うように動けない。 「君は本当に可愛いよ、テディ――」  もう一方の手が膝の上に置かれ、そのまま内腿を伝って股間に向かって伸びてくると、テディはもう頭のなかが真っ白になったようにわけがわからなくなってしまった。いやだ、触らないで、やめて――そう叫びたくても、込みあげてくるなにかに喉が詰まってしまったかのように声がだせない。髪を撫でている手が頸に触れ、頬に息が掛かるのを感じて身を竦ませるとふと正面のデスクの上に置いた紙袋が目に入った。  さっき落としたときに音がしたが、割れたか、ひびでも入ってしまっただろうか。自分とルカの、色違いのマグ――ミントグリーンのそれを手に、コーヒーを飲んでいるルカが脳裏に浮かんだ。不意に目が熱くなって、テディは湧き起こった感情のまま勢いよく立ちあがり、パーカーの裾から忍びこもうとする手から逃れた。 「や……やめてください! いやだ――」  やっとその言葉を云うことができ、テディはベッドから、デニスから離れた。デニスの坐っていたのがドア側だったので部屋を飛びだすことはできず部屋の隅、出窓の脇に立ち尽くす。デニスもゆらりと立ちあがって、テディに一歩近づいた。逃げ場を失い、壁に張りつくようにして立っているテディを一瞥して、デニスは薄く笑うとプレゼントの紙袋を目敏くみつけた。 「おや、プレゼントかい? 誰にあげるのかな」と、デニスが訊いてきた。テディはきゅっと唇を引き結んだ――デニスには答えなくなかった。デニスは中を覗きこみながら紙袋を手に取った。  かしん、と陶器独特の、妙な音がした。 「ん? これ……割れてるんじゃないか?」  デニスが紙袋を振るたびに聞こえるかたかたという音に、テディは一縷の希望が絶たれたような心地になった。割れてしまった――自分のマグか、それともルカのほうだろうか。元の場所にデニスが紙袋を戻すのを茫然と眺め、テディは腰を抱かれ促されるままにまたベッドへと戻った。  今度は腰掛けたあと、ゆっくりと押し倒され、そのまま上に伸し掛かられる。 「本当に可愛いよ、テディ……、悪いようにはしないから。ちゃんと悦くしてあげるから、ね――」  パーカーの前を開けられ、スウェットパンツのなかに手が入ってきても、テディはもうなにも感じない人形のように、ただ天井を見つめていた。

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