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Year 10 / Spring Term 「ジェレミーとロブ」

 肌の上をゆっくりと滑る指はまるで芋虫が這いまわっているようだった。胸の辺りに吸いついてくる舌は醜い(ヒル)で、躰中を撫でまわす乾いた手は絡みつく蛇だ。  蛇はちろちろと醜悪な舌を覗かせ、身につけているものを剥ぎ取りながら全身を(まさぐ)る。躰は泥のなかに沈み、泥は少しずつ浸食してくる。その悍ましさに呼吸ができず、ほとんど無意識に腕を伸ばしてもがくとその手首に蛇が絡みつき、強い力で締めあげられた。蛇は人形のように投げだされた脚へと這いずりまわり、膝を立てさせ足首を高く引きあげた。  四肢をちぎられそうな恐怖を感じ、やがてそれに近い身を裂かれる痛みがやってくる。ぬるりと不快な温度を持った泥の重みを感じながらテディは目を閉じ、この悪夢のような時間が過ぎ去るのをただ待った。嫌だという感情も、痛みも、痛みの陰から自分を呑みこもうとする奇妙な感覚からも目を逸らし、なにも考えずからっぽになるのがいちばんましな方法だった。  だから揺さぶり、腰を打ちつけてくるその動きが突然止まっても、テディはすぐにはなにが起こっているのか気づかなかった。 「アンナ……、どうしてこんな時間に――」  耳に届いた言葉の意味も、すぐには理解できなかった。が、スイッチをオフにしていた感情や意識がゆっくりと浮上してきてふとドアのほうを向くと、そこに赤いハイヒールを履いた脚が見えた。 「なにを、してるの……あなたたち……?」と声がして、テディはその脚の主を――母親のアンナの顔を見上げた。アンナは信じられないというように目を見開き、片手でその美しい顔の半分を覆っていた。赤く染められた爪が艶やかな黒髪の陰から覗き、まるで血を流しているようだった。  テディはどこかへ置き去りにしていた感情が一気に戻ってきたように、泣きそうに顔を歪めた。男が慌てて楔を抜き離れると、その所為で一糸も纏わぬ淫らな姿が顕になった。慌ててベッドから転がるように降り、隠れるように身を縮める。  思いがけない事態に混乱しながらも、テディはずっと云えないままだった救けを求める言葉を吐きだしてしまおうと、縋るような目でアンナを見た。しかし――テディが声を発する前にアンナはこつ、と一歩後退り、そのまま踵を返して部屋から出ていった。  翻ったドレスの裾、ビーズの飾りのついたレース編みのショールにさらりと流れた黒く長い髪――足早に遠ざかっていくヒールの音とその後ろ姿は、テディに絶望を与えた。  たすけて、というたった一言の言葉は発する機会を永遠に失い、澱となってテディの心の奥深くに沈んだ。目を瞠り、母親とよく似たその面差しを歪め、テディは手を伸ばして叫んだ―― 「――ママ……!」  悲痛に響いた自分の声に、テディはゆっくりと目を開けた。目に映る天井は以前住んでいたヴロツワフのフラットでもラングフォード家のものでもなく、(ハウス)の古めかしい最近見慣れたそれだった。はっとして起きあがり、身を乗りだしてルカのベッドのほうを見たが、そこは既にもぬけの殻だった。  そういえばバスルームのほうから水音がするなと気づき、魘されて発した声を聞かれなかったことにほっとする。悪夢を振りほどこうとするように頭を振り、テディは時計を確かめながらベッドを出た。  着替えを取って身支度のための準備をしながら、ふとガラスキャビネットのなかに見えるミントグリーンに目を止める。ルカはプレゼントしたマグをとても喜んでくれた――割れていたのは藍色の、自分のマグのほうだった。お揃いではなくなってしまったが、ルカにわたそうと思っていたほうが無事だったことにテディは安堵した。真っ二つに割れてしまった藍色のマグのほうは箱に入ったまま、ルカに色違いであったことも知らせず、そっとしまってある。 「お、起きたか。おはよう。早く着替えちまえよ」 「うん、おはよ……」  自分の脇を通り過ぎ、ルカは背を向け着替えを始めた。それを見やり、テディは着替える前にバスルームへ向かおうとして――デスクの抽斗の奥からきらりと銀色に光るシートをひとつ出し、手の陰に隠し持った。 「セオドア・ヴァレンタイン、そんなに眠いなら教室にいなくて結構。他の生徒の邪魔になるので出ていきなさい!」  モースタンにぴしりと扉を指してそう云われ、テディはゆらりと立ちあがると無言のままクラスメイトたちの後ろを歩いた。隣の席のルカが小声で「テディ」と呟きこっちを見たが振り返りもせず、無表情に扉を開ける。エッジワースとオニールも顔を見合わせつつ心配そうにその様子を見ていたが、テディは友人たちと一度も視線を交わすことなく、そのまま教室を出ていった。  厳しい表情でそれを見送ったモースタンは「静かに!」とざわつく教室内を一喝し、ドラマの授業を続けた。 「えーとそれじゃ、〈ハムレット〉を演るにあたっての配役を、まずは決めていきましょう――」  まだ微かに耳に届くざわめきを背に、テディは廊下をひとり歩いた。いくつも並ぶ扉の前を通り過ぎるたび、壁の向う側では大勢の生徒たちが授業を受けているのだと思い、なんだか妙な心地がした。  階段を下りていき校舎を出て、一月の身を切る寒さに思わず肩を窄める。ひんやりとした空気の所為か、何歩も歩かないうちにぼんやりとした頭も少しすっきりと目覚めてきた気がした。ポケットに手を突っこんで芝生を横切り、真っ直ぐ寮に戻る気もせず食堂の前を通り過ぎる。どうせ追いだされたのなら外に出てどこかへ行ってやろうと思いつき、テディはシックスフォームの校舎の裏手へと向かった。  楡の木の下まで来て辺りを見まわし、テディは煉瓦塀に沿って伸びている太い幹に足を掛けた。木登りなどしたことはなかったが、その幹はほとんど揺れもせず頭上の枝や塀に手を掛けていれば簡単に渡っていけた。外が見える位置まできて、煉瓦塀の上にいったん跨がって外の舗道を見下ろしたときはその高さに少々怯んだが、そこに両手を掛けてぶら下がり、思いきって飛ぶと難無く着地することができた。  ほっと息をつき、ぱんぱんと服を払いながら煉瓦塀を見上げると、ちょうどいい案配に煉瓦が欠けてできた窪みがいくつかあった。外から塀を登るとき、手や足を掛けるのにどれもうってつけの位置だった。戻り方も確認し、さて、どこへ行こうと車もあまり通らない郊外の道に目をやると――少し離れたところで煙草を吹かしている、ふたつの人影があった。  どうやらテディが気づく前からこっちを見ていたらしく、同じ制服に身を包んだそのふたりはなんだかおもしろいものでもみつけたかのように、にやにやと笑みを浮かべている。 「おい、そこのおまえ。何年だ」  そのふたりはバーガンディ色のタイをしていた。つまり、オークス寮の生徒なのだろう。テディは少し迷ったが、ここで反対方向へ行ったりしてもことがややこしくなるだけだと思い、そのふたりのほうを向いた。 「ひとりでサボりか? なかなかいい度胸してるじゃないか」 「ウィロウズの奴か。アッパースクールの生徒だな」  その云い方や見た目からおそらくふたりは上級生(シックスフォーマー)なのだろうと、テディは見当を付けた。黒っぽい髪を短くした眉の太い、がっちりとした体格の青年はまるで値踏みでもしているかのように不躾な視線をテディに注ぎ、明るい金髪を長めに伸ばしているもうひとりのほうは楽しげに笑みを浮かべている。  煙草を足許に棄てて踏み消し、ふたりがこっちに近づいてくるのを見て、テディはしょうがなく答えた。 「……うとうとしていて授業を追いだされたんです。それで、なんとなく――」 「どこへ行くつもりだったんだ?」 「別に……なにも考えてなかったです。ほんとになんとなく、出られそうなんで出てきただけで」 「危ないなあ」  金髪のほうが呆れたように笑った。 「ストレス溜まってるんじゃないのか? まあ、こんなところにずっと閉じこめられていれば溜まらないほうがおかしいけどね。……一本吸うか?」 「え……」  煙草とブックマッチを差しだされ、テディは一瞬途惑った。何年か前に興味本位で火をつけてみたことはあったが、噎せて苦しい思いをしただけでそれきり吸おうとは思わなかった。綺麗な水色のパッケージを暫し見つめ、テディはそこから一本を抜き取り、不思議そうに見つめた。 「これ……両切りってやつですか」 「そうだよ。ゴロワーズ・カポラルっていうフランスの黒煙草だ。俺はこいつの味を知ってから他のが吸えなくなってね。そんなにきつくはないよ、まあ吸ってみな」 「はあ……」  しげしげと眺めてからテディが煙草を口にすると、金髪の青年がレトロなイラストのついたブックマッチを一本ちぎり、側薬の部分に挟んでこっちに向けた。ブックマッチなど、テディは見るのも初めてだったがなんとなく意味はわかり、その端を持って勢いよく引いた。しゅっと音がして小さな紙の切れ端が燃えあがり、風で消えないように手を翳しながら煙草を火に近づけ深く吸う。途端に咳きこみ、涙目になって噎せるテディにふたりは声をあげて笑った。 「ははっ、こいつは黒煙草だと云っただろ。そんなに無理して吸わなくていいんだよ、口のなかで煙を溜めて味わうだけでいいんだ」  咳が治まり、口に入ってしまった煙草の細かい葉をぷっと吐きだすと、テディはもう一度吸ってみた。云われたとおり、吸った煙は口のなかに溜めて息を止め、そのままゆっくりと吐きだしてみる。  確かに噎せはしなかったが、苦い味が舌に残っただけで別に美味しいともなんとも思わなかった。テディのその表情を見て、ふたりがまた可笑しそうに笑う。 「だめか。まだガキだな……ああ、そうだ」  もう吸わないと思ったのかテディの手の煙草を取りあげ咥えると、金髪の青年はごそごそとポケットを探り、さっきの煙草と似たような水色の箱を出し、ブックマッチを添えてテディに渡した。 「これ、間違って買ったやつなんだけどよかったらやるよ。いま吸ったやつと同じ黒煙草だけどレジェール、つまり軽いのなんだ。こっちはフィルターもついてるし、多少吸いやすいはずさ」  もらうともなんとも云っていないのに手のなかに押しつけられたかたちになり、テディは当惑した。 「え、でも……」 「もらっとけ。そのかわり、今日はもう戻る。おまえもな」 「戻る?」  短髪のほうにそう云われ、テディは首を傾げた。自分がそうするつもりだったのと同じく、彼らもてっきりこれからどこかへ行くのだと思っていたのだ。どこへも行かずにもう戻るのなら、このふたりはいったい何故授業をサボってこんなところにいたのだろう。  すると、金髪のほうがテディの表情を読んでか、説明を始めた。 「俺ら、いつもはこんな時間にサボったりしちゃいないんだ。今日は偶々さ……こいつが昨夜のうちに煙草切らしたって云ってさ。俺も何本かしか残ってなかったから、朝一番に出てきて買いに走ったんだ。まったく、喫煙室があるくらいなんだから購買店(タックショップ)に煙草も置いといてくれればいいのにな」 「ひとっ走り煙草をまとめ買いしてきたはいいが、途中でジェレミーが一個違ってるのに気づいてな。交換してもらおうと戻ったら店員が変わってて、ついさっきここで買ったんだって云っても聞いてもらえなかった。しょうがないんで諦めて帰ってきたら、もう授業が始まってる時間だったんで――」 「まさか堂々と授業中に喫煙室ってわけにもいかないだろ。で、ここで一服してたのさ。そこへおまえが出てきたってわけ」  イギリスでは二〇〇七年に法が改正されて十八歳に引き上げられるまで、喫煙は十六歳から認められていた。十六歳といえば通常、義務教育が終了する年齢でもあり、下級生の前では吸わないなどのルールは設けてあったりはするものの、学校内にも喫煙するためのスペースがちゃんとある場合が多い。  ここセント・ローレンス・ウィンスタンリー・カレッジの場合はシックスフォーム校舎の各階に喫煙室と、出入り口の傍にスタンド型の灰皿が設置されていた。 「――さて、戻るか」  明るく陽が差している場所ではあったが、じっと動かずにいるとさすがに寒さが応えてきた。まず短髪のほうがさっきテディのみつけた煉瓦の窪みに足先を掛け、塀の上に両手を伸ばしてあっという間に登っていった。  慣れたものだなと感心して見ていると、金髪の――ジェレミーと呼ばれていた青年が、先に行けとテディの背中を押した。同じように足を掛け、塀に手を掛けたはいいものの、そこから先は思っていたほど容易ではなかった。上から腕を引っ張られ、下からは靴底を押しあげてもらいやっとのことで塀を越える。太い幹を下りるのも登ったときと違いどうしても目線が下に行くので、高さに身震いしてなかなか足が進まなかった。  結局先に地面に下りた短髪の青年が両手を広げて掴まらせてくれ、そういえばいつかのミルズもこんなふうにしてデートの相手を受けとめていたなと思いだす。 「やれやれ。無事に戻れてよかったな……おまえひとりだったらどうするつもりだったんだ」 「……すみません……」  本当にひとりでは戻れなかったかもしれないと思い、テディはきまりの悪い表情で俯いた。 「ラッキーだったな、俺たちがいて。あのままどこかへ行ってて、戻れないまま夜にでもなったら大騒ぎになってるぜ」 「騒ぎで済めばいいけど、外でなんか危ない目に遭ったらどうするんだ。これからはサボるにしたってひとりはやめとけよ、な?」  自分の行動が思うようにならず少し落ちこんでいるところへ思いがけず優しい言葉をかけられ、テディは神妙な態度でふたりの顔を交互に見た。  マコーミックとコネリーの件があったうえに、最初に構内を案内されたときオークス寮は他の寮と仲が悪いとか、いい家柄の気取った奴ばかりだとか聞いていたのに、いま眼の前にいるこのふたりはまったく想像と違っていて少し途惑う。 「あの……ほんとに、ありがとうございました。先輩たち……は、オークス寮の?」 「ああ、そうだよ。気取った鬱陶しい奴ばかりいるあの、オークス寮の住人さ。おまえはウィロウズだろ? いいよなあ、俺もウィロウズに入りたかったよ」 「俺たちはオークスではちょっとはみだし者でな。どうもあの連中とは気が合わない」 「おまえもはみだし者なのか? ひとりでふらふら外に出ようとするなんてさ。友達いないのか」 「いえ……、そういうわけじゃ……」  そういえば――あんなふうに授業を追いだされて、ルカはきっと自分のことを心配しているだろうなとテディは思った。次の授業にはちゃんと戻らないと本当にまずいことになるかもしれない。やっとそのあたりのことまで考えられるようになって、テディがぐっと唇を噛みしめてまた俯いたとき――ちょうど鐘の音が鳴り響き、三人は同時に校舎のほうを向いて顔をあげた。 「やばい、早く戻らんと」 「うん、行こう。――おまえ、名前は?」  ジェレミーにそう訊かれ、テディは素直に答えた。 「ヴァレンタイン……セオドア・ヴァレンタイン、です」 「セオドアか。じゃあ、セオ?」  姓で呼ばないのか、と思いながらテディは首を横に振り、すぐに訂正した。 「いえ、テディでいいです」 「オッケー、テディ。俺はジェレミー。ジェレマイア・ドナヒューだ」 「俺はロブ・ウィルミントン」 「テディ、ちゃんと授業に戻って、目をつけられないようにしとけ。今度、夜遊ぶときに誘ってやるから」  じゃあな、と手をあげてジェレミーとロブはシックスフォームの校舎のなかへと消えていった。それを見送り、テディも少し急ぎ足で芝生を横切り、アッパースクールのほうへと向かった。

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