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Year 10 / Spring Term 「オフィーリア・コンテスト」

「――ああもう、動くなって! ほら目ぇ瞑って、瞼も眼球も動かさないで。そうそう……はい、今度こっち」  瞼の(きわ)に器用にアイラインを引く手をじっと見つめ、興味深げに周りを囲んでいたうちのひとりが感心したように云った。 「すげえな、なんでそんなに化粧すんの巧いんだよ」 「演劇部なめんなよ。こちとらもっといけてない素材だってお姫さまに見えるようにしなくちゃいけないんだ……。ヴァレンタインは素材としては満点だよ。眼が大きいし睫毛は長いし、色白で整ってるし……はい、今度リップな」  クレイトンはそう云うと年季の入ったメイクボックスのなかを覗きこみ、そのなかから淡いローズ色の口紅を選んで取りだした。  ドラマの授業として、隣のクラスと合同で〈ハムレット〉を演ることになり、総勢二十九名の生徒たちはその配役に頭を悩ませていた。  今のところ、主役のハムレットはルカ、クローディアスはマコーミック、レアティーズはハマーストランドに決定していたが、オフィーリアがどうしても決まらない。女装しなければいけないことと、その女装がある程度違和感なく映らなければあの有名な『尼僧院へ行け(Go thy ways to a nunnery)!』という台詞のところで笑いが起こり、かのシェイクスピアの四大悲劇のひとつである〈ハムレット〉がコメディと化してしまうからだ。  そこで、まずは女装コンテストをしたらどうかという案が出された。それは過去にも前例があるアイデアだったらしく、生徒たち皆がおもしろがって賛成し、配役を決めるはずだった議題がコンテストのエントリーに変わってしまっても、モースタンはなにも云わず進行役の生徒に任せていた。  そしてクラスで特に整った容姿の持ち主が何人か推薦され、そのなかからマーフィーとヴォルコフスキー、そしてテディの三人に候補が絞られた。名前を挙げられたほうは嫌がって異を唱えたが、立候補する者がおらず、こうでもしなければいつまで経っても決まらないのでしょうがない。  斯くして退屈なシェイクスピアを演劇で学ぶという面倒な授業――これはおよそ半数の生徒が評するところである――は思いがけぬイベントを要することになり、オフィーリア候補の三人を除いて、クラスは沸きたっていた。テディは冗談じゃない、本当に勘弁してほしいと頭を抱え、いっそのこと逃げだしてやろうかと思っていたが、ルカまでが期待に満ちた表情を自分に向けているのを見て諦めた。  オフィーリア候補はそれぞれ演劇部の部室で完璧なメイクを施し、ウィッグもつけて衣装に着替えた状態で教室に戻り、他の生徒たちが投票、最も多く票を得た者がオフィーリア役を得る――というより押しつけられる、という段取りであった。推薦した何人かと、メイクに慣れた演劇部員が鏡の前に坐らされた候補を取り囲んでから、既に四十分近くが経っていた。ようやくテディのメイクアップも終わり、部室にあった生成りのドレスに袖を通させると、誰かが用意して待ち構えていた赤みがかったブラウンのウィッグを被せた。それをずれないようにピンで留め、目の粗いコームでウェーブを整え長い髪を一房胸許に垂らすと、クレイトンは「よっしゃ! これで完璧だ」と満足げに云った。  はぁ、と深く溜息をついて立ちあがったテディを、取り囲んでいた者たちは一歩下がってあらためて眺め――  一様に言葉を失い、見蕩れた。  左から、小柄でおとなしく可愛い顔をしたマーフィー、色白で華奢なヴォルコフスキー、そしてテディという順に教壇の前に並ぶと、席についている生徒たちはその想像以上の可憐さにどよめいた。  三人とも美しく仕上がっていたが、なかでもテディは段違いだった――まず、男子生徒の女装にはまったく見えない。まるっきりの美女であった。それも、そこいらの女優やモデルにもこんなに非の打ち所のない顔はないのではないかと思えるほどの、完璧な美しさ。おまけに、恥ずかしいうえに厭で堪らないといった様子で俯いているところへ顔をあげて、と云われ応じる緩慢な仕種とその表情が妖艶で、まるで上目遣いに男を誘っているように見えるのだ。  ルカは信じられない、といった様子で顔を両手で覆い、他の生徒たちもぽかんと口を開けっぱなしになっていたり赤面したりで、教室は異様な雰囲気に包まれていた。  そして、結果はといえばほとんどの票がテディに集まっていた。大差をつけてオフィーリアはテディに決定――かと思いきや、それまでは生徒たちの自主性に任せていたモースタンが、念を押すように一言確認をした。 「君たちが考えた方法で進めてこういう結果になったのだから、それはかまわないのだが……君たちは投票するとき、ちゃんとオフィーリアにふさわしいのは誰かと考えたか? 単に、女装コンテストでいちばん美しいのは誰かと思い違いをしてはいなかったか?」  それを聞いて教室内はざわめいた。隣の席の生徒となにやら話す者や、うーんと顎に手をやり候補の三人を改めて眺める者もいた。その様子を見まわしルカは肩を竦めてテディに笑いかけ、テディもひょっとしたらオフィーリアを演らなくて済むかもしれないと微笑んだ。  その笑顔を見て顔を赤らめたマコーミックの横で、オニールが挙手し発言した。 「モースタン先生の云うとおりだと僕は思う。確かにヴァレンタインの女装姿はびっくりするほど綺麗だけれど、綺麗すぎるというか色っぽくて……オフィーリアというよりもグルーシェニカか、ミレディ・ド・ウィンターだ」 「……僕もオニールの意見に賛成です。ヴァレンタインの顔はオフィーリアには強すぎる。僕はヴォルコフスキーのほうがミレイの〈オフィーリア〉に似ていて、いいと思います」 「僕もヴォルコフスキーがいいと思います。マーフィーも悪くはないけれど、どっちかっていうと若草物語のエイミーとか、そっちの感じだし」 「うん、ではもう一度決を採ってみようか……挙手でいいかな?」  そして今度はほぼ全員一致でヴォルコフスキーに決まった。テディはこれで窮屈なドレスとウィッグやメイクから解放されると思い、ほっと息をついた。        * * * 「いやでも、ほんとにすごく綺麗だったよ……みんな見蕩れてたな」 「勘弁してよ……先生がああ云ってくれて助かったよ。女装じゃなくたって人前に出て演技するなんてやったことないし、向いてないってのに」  (ハウス)の自室でルカとテディはいつものように音楽をかけ、話しながら勉強をしていた。それぞれのデスクの上にはコーヒーとカフェオレ、そしてルカのお土産のサロンツコルがあった。控えめな音で流れているクイーンの〝Seaside Rendezvous(シーサイド ランデヴー)〟を口遊みながら、ルカは突然くすっと笑って「写真くらい撮っておけばよかったのに」と云い、テディに睨まれた。 「ロミオとジュリエットなら演った?」 「ルカがロミオだったらってこと?」 「そう」  テディは少し考えてから、こう答えた。 「俺以外のジュリエットの死に嘆き悲しんで後追いするルカなんか観たくないし、演ったかもね」 「安心しろよ。俺もおまえ以外のジュリエットなら、一晩だけ泣いたら新しい彼女作るから。……あ、でもジュリエットって、仮死状態だっただけなんだっけ。殺されるなきっと……」 「その前にシェイクスピアが怒るよ」  ふふっと笑って、テディは数学のプリントに視線を戻した。  ルカは理数系が得意なようだが、テディはどちらかというと不得手だった。不得手だからこそ重点的にやっておかなければいけないのだが、それがわかっているからといって捗るわけではない。苦手な因数分解にてこずってすっかりやる気が削がれてしまい、テディはデスクに肘をついて頭を抱え、溜息をついた。 「ん? 解けないのか」  すぐ後ろで声がして、テディは驚いて振り返った。いつの間にこっちへ来たのか、ルカはテディの椅子の背に片手を掛けて、まだ半分ほどしか解答の欄が埋まっていないプリントを覗きこんでいた。 「ああ、この問題はここだけ展開して置き換えるんだよ」と云いながら、ルカはデスクの上に転がっていたペンを取り、テディが躓いていたところをさらさらとわかりやすい式に直した。 「あ……なるほど。っていうかこれ難しいよ……ルカ、こんなのよくすらすらと解けるね」 「数学は任せとけ。でも俺は、歴史なんかは何度読んでも聞いても頭に入ってこないけどな」  語学と音楽を除けば、得意な教科も苦手な科目もふたりはほぼ正反対といっていいほど違っていた。こんなふうで本当に同じ大学へ進んだりできるのだろうかと、まだ先のことなのにふと不安に襲われテディが顔を曇らせる。それに気づいてか、ルカは「大丈夫さ」とテディの頭に手を置いた。テディが顔をあげて振り向くと、間近にルカの顔があった。  いつものように軽く触れるだけのキスをし、ルカがそのまま両腕をまわしてテディを閉じこめるように抱きしめると――凍りついたかのように、テディが躰を強張らせた。 「どうかしたのか?」 「え……ううん。なんでも……」  そうか、とルカはたいして気にしていない様子でテディから離れた。なので、テディが動揺し唇を震わせていることに気づけなかった。  自分のデスクのほうへ向きながら、ルカはぽんとテディの肩を叩いた。 「あとの問題は解けそうか? またわからなくなったら訊けよ」 「うん、ありがとう」  ルカが自分のデスクに戻ると、テディは落ち着こうとするかのようにほーっと息を吐いた。  ルカとはもう何度もキスをし、ハグもしている。もう習慣になっている、儀式のようなそれは愛情を注がれているのだと安堵こそすれ、こんなふうに身を竦ませることはなかった。  ――ルカなのに。ルカに触れられることさえ悍ましい記憶を呼び起こし、こんなふうになるなんて――テディはふと浮かんだ厭な想像を振り払おうと首を振った。  ルカに知られてはいけない。サマーキャンプのとき、自分は間違ってしまったのだ。もしもを知られたら、ルカはきっと今度こそ自分から離れていってしまうだろう。テディは思った――ルカの前では、抱擁されたくらいで動揺したりしないように、いつもどおりでいられるようにしなければ。  ちら、とこっちに背を向けているルカに目をやり、テディは抽斗を開けた。  小さな瓶を取りだして、そっと蓋を開け白い錠剤を三つ、手の上に振りだす。音がしないように包装シートから移しておいたコデイン配合の鎮痛剤だ――テディはそれを口のなかに放りこみ、残っていたカフェオレを呷って飲み下した。

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