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Year 10 / Spring Term 「愚か者の涙」

 夕食時になっても、テディは姿を見せないままだった。  ルカは呆れるやら肚が立つやら、心配で落ち着かないやらで、授業もさっぱり頭に入ってこなかった。それでもルカは半ば意地のようにいつもどおり教室に居続け、劇の稽古にも勤しんだ。  ヴァレンタインはどうした、と各教科の教師にいちいち訊かれ、いいかげんうんざりもしていた。ルカは消化不良のようにもやもやしたものを肚に溜め、顔にも疲労の色を濃く浮かべていた。  時刻はもう九時過ぎ。眉間には深く皺が刻まれ、ペンを持っているその手は苛々と小刻みに揺れ続けている。もしこのまま戻ってこなかったらどうなるのだろうという心配や不安と、もう知ったことじゃない、勝手にすればいいという怒りが自分のなかでせめぎ合って、ますます神経の擦り減る思いだった。  はぁ、ともう何度めかわからない溜息をついて、ルカがデスクに重ねた腕に頭を預けたときだった。かちゃりとドアが開く音にはっとして振り返ると、テディが悪戯(いたずら)のばれた子供のような顔をして、後ろ手にそっとドアを閉めていた。  黙ったまま見つめるルカの前で、テディは悪びれる様子もなくブレザーを脱ぎ、ベッドの上に放った。微かに煙草の匂いが鼻を擽った。服に染み着いてしまうほど、煙が充満した空間に長くいたのだとわかる。テディはベッドの上のスウェットスーツを手に取り、ワードローブから下着の替えを出すと、そのままルカとは一言も口を利かないままバスルームへと入っていった。  ――ルカのなかでずっともやもやしていたものが、すうっと冷えて重い塊になったような気がした。  確かにもう時刻はあと三十分もすれば十時、いつもシャワーを浴びている頃である。今から勉強という時間でもないし、床に就く支度をするのは当然かもしれない。しかし、自分に一言もないというのは――ルカは一日中、テディのことで頭をいっぱいにしていたというのに。テディにとっては、なにか云うほどのことでもなんでもないというのだろうか。  部屋に戻ってきて顔を見たおかげで、心配のほうは消え去っていたからかもしれない――今、ルカがテディに対して感じているのはもう怒りだけだった。ペンを置き椅子から立ち、煙草の匂いがするブレザーを一瞥しながら布張りのチェアの向きを変える。そうしてルカは唇を一文字に結び、そこに腰掛けてテディを待った。  十分ほどで、テディはバスルームから出てきた。スウェットスーツを着て頭からバスタオルを引っ掛け、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取りだすテディを、ルカは黙って見つめていた。それに気づいてテディが「……なに?」と訊いたとき、ルカはなにかが爆発しそうになったのをなんとか堪らえた。  深呼吸をしてテディの顔を見据え、「ちょっと、ここに坐れ」と感情を抑えた声で云う。  ばさばさと髪を拭き、そのままタオルを頸に掛けたテディが素直に眼の前のチェアに腰掛けると、ルカは努めて冷静を装い、静かな声で切りだした。 「遅かったな」 「うん……寝ちゃってたから。なんとかこの時間に戻ってこられてよかったよ」 「寝てた? どこで」 「ジェレミーの部屋」 「ふうん……ずっと?」 「うん」 「メシは? おまえ食堂に来なかっただろ」 「ああ、サンドウィッチやお菓子を食べてたから……腹は減ってないよ」  授業をサボってろくでもない奴の部屋へ行って、そこでだらだらとお菓子やなにかを食べて、眠くなって寝てしまっていたと、そういうことか。ずいぶんとリラックスした一日の過ごし方をしているようだと、ルカはじっとテディの顔を見つめながら、何度も頷くように首を縦にゆっくりと振った。 「最近、授業をよくサボるよな」 「ああ、うん……」 「夜やる勉強も、あんまり進んでないし」 「……」 「試験、もう二ヶ月後なんだぞ? おまえ、わかってる?」 「……なに、説教? どうしたのルカ、なに怒ってるんだよ……」  苦笑いしながら云ったテディに、とうとうルカの堰が切れた。 「なに怒ってるかだって!? わからないってのかテディ、おまえ、今度の試験はなんのために頑張ろうって云ってたのか、もう忘れちまったのか? それとも新しい連れと遊ぶほうが楽しくて、俺のことなんかもういらなくなったのか。俺と同じ大学へ行くとか一緒に暮らすとか、そんなことはもうどうでもいいんだな!」  ばん! とテーブルを叩いて立ちあがり、大きな声でそう一気に云ったルカに、テディは驚いて目を丸くした。 「……そんな……ことない……。ルカと……一緒に行きたいって思ってるよ……」 「思ってるだけかよ! そう思うなら授業にちゃんと出なきゃだめだし、遊んでばかりいないで勉強だってやらなきゃいけないだろ! なのになんだよ、あんな連中と夜遊びして、朝も全然起きないし……! 最近のおまえはおかしいよ、目に余るよ!」  ルカの勢いに圧されてか、テディは肩を窄め神妙な面持ちで聞いていた。が。 「……あんな連中ってなんだよ……。云ったろ、ジェレミーもロブもいい奴なんだ。俺はいいけど、ジェレミーたちを悪く云うのはやめろよ……」  ルカはテディから目を逸らし、ゆるゆると頭を振った。 「わかった。もう勝手にすればいい……俺は今までどおり頑張ってシックスフォームに進んで、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを目指す。おまえはそうやってちゃらちゃら遊んで、FEカレッジに行くなりドロップアウトして皿洗いでもするなり、好きにすればいいさ! ――あ、そうか。じいさんのところへ帰るって手もあるんだっけな!」  吐き棄てるように云って背を向けたルカに、さすがにテディが顔色を変えた。 「待ってルカ……ごめん。俺が悪かったよ、怒らないで……ちゃんと勉強するよ。授業も、明日からはちゃんと出るから……」 「いいって。そんなふうに、俺が怒ってるからって無理する必要なんかない。おまえが本当に俺とずっと一緒にいたいって思ってたのなら、こんなの云わなくたってわかりきってることなんだ。おまえが勉強しないのは、おまえの気持ちがその程度だっていうだけのことだよ。……もういいよ。俺もそのほうが楽だ。これでもうおまえのことなんか考えないで、自分のやるべきことにだけ集中できるよ!」  一気に捲したて、最後にばっと振り返ると柔らかなソフトブラウンの髪といっしょに、襟元のシルバーの細い鎖が揺れた。顔色を失って自分を見ているテディと目を合わせたまま、ルカは両手を頸の後ろにまわしてつけていたペンダントを外し、床に叩きつけるように投げ棄てた。  しゃらんと音を立てた、床の上のTと刻印されたプレートを見つめ、テディががくりと膝を折る。 「……ごめ……、ルカ……お、俺……ほん、……に、ご……っ――」  テディは泣きじゃくっていた。  ぺたんと坐りこんで項垂れ、小さく震える肩を、ルカは無表情に見下ろす。 「ほ、ほんとに……っ、ごめ……、ちゃんと……勉強、るから……ゆるして……、ルカ、おねが……」  しゃくりあげながら、何度も赦しを乞う言葉を吐きだすテディに、胸が痛まないわけはなかった。テディは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげ、縋るようにルカを見つめた。ルカはそんなテディを直視できず、目を逸らして離れ、自分のベッドに腰掛けた。テディは目を瞠ったまま床に視線を落とし、棄てられたペンダントに震える手を伸ばした。それを拾いあげ、抱きしめるように両手ごと抱えこんでまた声を滲ませる。 「……ルカ……、おねが……っ、……俺を……、見棄てな……で……」  耳に届くテディの嗚咽に、ルカは少し云いすぎたかもと思い始めていた。しかしここで今、掌を返したようにもういい、泣くな、明日からはちゃんとしろよと云ってやれるほど、ルカはまだおとなではなかった。  泣く声を聞き続けていることに堪えきれず、再度テディを見たときルカが口にしたのは「もう消灯だ。とっとと泣きやんでベッドに入れよ。明かり消すぞ」という、突き放したような言葉だった。  テディはそれきり、もうなにも云わなかった。云われたとおりベッドに入り、壁のほうを向いてブランケットをかぶって時折しゃくりあげるのを横目に、ルカは部屋を横切りシーリングライトのスイッチをオフにした。そしてまたベッドに戻り、自分も布団のなかに潜りこむ。  微かに聞こえる、テディの啜り泣く声をもう聞きたくなくて、頭までブランケットをかぶる。  ルカは胸がつまるのを感じながら、眠れるはずなどないのにぎゅっと目を閉じた。

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