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Year 11 / Autumn Half Term Holidays 「張りぼての幸せ」
迎えに来たのがクレアだったことに安堵し、テディは車に乗りこんだ。
いつものように買い物に付き合い、昼過ぎに家に着くとテディはショッピングバッグをキッチンに運びこんでから、自分の荷物を持ち階段を上がった。
ハーフターム休暇 でこの家に来る日曜の午後、デニスはいつもダニエルをスイミング教室へ送っていき、そのまま待ち時間を同じ建物内にあるジムで過ごすため、夕方まで不在である。デニスが帰宅してからは、テディはリビングでダニエルとゲームをしたり、食事の支度を手伝ったりして、クレアの目の届くところから離れないようにして過ごした。
ステーキ& エールパイとマッシュポテト、グリンピースにグレイズド・キャロット――クレアが腕を振るった料理は、時折感じるデニスの視線の所為でちゃんと味わえる気分ではなかったが、それでもテディは擬い物の笑顔を貼りつけ、たわいも無い会話を自分も楽しんでいる振りをして相槌をうった。
きびきびとして快活な、さっぱりした気性だが優しいクレア、年齢よりも幼めで甘えん坊なダニエル。このふたりの前では非の打ち所のない良き夫、子煩悩な父親であるデニス――その正体に怖気が走るほどの嫌悪感を持っていても、クレアとダニエルのことを思うかぎり、この完璧な『家族の食卓』を壊すようなことをテディができるはずもなかった。
食事を終え、穏やかな理想の家庭の一員を演じつつも自分の身を守るため、後片付けをするクレアを手伝う。皿を拭き終えたあとは、子供向けのアニメーションを視て笑っているダニエルの隣に坐り、一緒にTVを眺める。とにかくダニエルかクレアと一緒にいさえすれば、デニスが自分になにかしてくることはない。
ビデオゲームを楽しんだあと、テディはダニエルと一緒にファーストフロア に上がった。ひとりで部屋に引っこんでからしばらくして、ダニエルがシャワー空いたよと呼びに来ると、テディはすぐに着替えを持ってバスルームへ行き、手早くシャワーを済ませた。
時刻は十時過ぎ。この時間ならまだデニスはクレアとリビングでTVでも視ながら、ウイスキーかなにかを飲んでいるはずだ。しかしテディはバスルームで脱いだ服を部屋に放りこむと、急いでダニエルの部屋へ向かい、そっとドアをノックした。
「ダニー、入ってもいい?」
「どうしたの? テディ」
ダニエルは不思議そうに首を傾げながらも、なんだかちょっと嬉しそうだった。テディはしーっと人差し指を唇に押しあて、後ろ手で静かにドアを閉めた。
「ダニー。今夜、ここで一緒に寝てもいい?」
「ここで? 僕の部屋でテディが寝るの?」
ダニエルはぱぁっと顔を輝かせて嬉しそうに笑ったあと、なにかに気がついたようにテディの顔をじっと見た。
「……わかった。なにか怖い映画を観たんだ。ひとりじゃ寝れないんだ、当たってる?」
適当に嘘をついて言い繕うことなど考えてはいなかったが、テディはダニエルの言葉を否定せず、それを採用することにした。
「うん。実はそうなんだ……恥ずかしいからクレアとデニスには内緒だよ。明るくなったら自分の部屋に戻るから、ここで寝てもいいかな」
「あははっ、テディ、子供みたい。うん、いいよ。怖がりなこと、パパとママには秘密にしておいてあげるよ」
ベッドは寮 のものより広く、ふたりが並んで横になっても充分に余裕があった。部屋の明かりを消して、小声でしばらく雑談をしているうち、ダニエルが欠伸をしたのでおやすみ、と云ってブランケットを掛けなおしてやる。程無く規則正しい寝息をたて始めた可愛らしい寝顔を眺めながら、テディは心のなかで利用してごめん、と謝った。
なにも知らないダニエル。ただ盲目に親を信じ、そこにある幸せが本物で永遠だと、意識することもないまま思えている子供時代――そういえば自分にもこんな時代があったのだと、テディはまるで疲れ果てたおとなのようなことを思った。
偶に掃除や洗濯をする以外、母は家のことをほとんどなにもせず、テディは朝ひとりで起きだしてパンやチーズを自分で切りだし、食べなければならなかった。が、深夜まで働いている母が朝ぐっすりと眠っていることは、テディにとって当たり前のことだった。
朝、優しく起こしてもらい、テーブルには温かいパンケーキやスクランブルエッグとヨーグルト――憧れようにも、そんなものがあることを知ってさえいなかったのだ。だから、別に不満を感じたこともなかった。それどころか、自分が学校に出かけてから起きる母の分をテーブルに用意しておくことが誇らしく、喜びだったくらいだ。
いったいいつ、自分の家庭が普通ではないと知ったのだったろう。
うぅん、と寝返りを打ったダニエルを見て、テディは初めてMDMAを飲まされたときのことを思いだした。あれはプラハに住んでいた頃――ちょうどダニエルくらいの歳の頃のことだ。当時の母の恋人だった男が、ふざけて自分に得体の知れない錠剤を無理遣り飲ませたのだ。
普段は気のいい陽気な男で、自分のことも可愛がってくれたのだが、彼はちょっと傍を通っただけで抱きあげたり膝に坐らせようとしたり、やたらと躰に触れる癖があった。けれど当時は、その行為に他意があるかもしれないなど想像もつかず、ただかまわれすぎることに途惑っていただけだった。
それに結局あの男は、自分に妙な錠剤を飲ませた以外にたいしたことはしてこなかった。まあ、あのまま住まいを移さず、ずっと一緒に暮らしていたならどうだったかわからないが。
そして、何があったのかは知らないが、母がいつもの気まぐれを起こし、男と別れ、突然ヴロツワフに越して――
あそこでのことは、あまり思いだしたくもない。
幸せそうなダニエル。その無垢な寝顔を眺め、規則正しい寝息を聞いているうちに、テディも瞼がとろんとしてきた。
ここにいれば大丈夫……この部屋でなら、安心して眠っても問題ない……。ようやく襲ってきた眠気に任せ、テディはゆっくりと目を閉じた。
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