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第9話 吊り橋の魔物3

「……痛った」  地面に這いつくばったまま顔を上げると、自分が薄暗い森の中に倒れていることに気がついた。 (まさか、あの吊り橋の下の渓谷か?)  浮遊の加護と防御の加護のおかげで衝撃はだいぶ和らげられたものの、二、三十メートルは落下したに違いない。しかもおそらく巨大な手にはたき落とされた勢いで。慌てて立ち上がると、数メートル先に茶色い毛皮で覆われた怪物の足が天に向かって伸びているのが見えた。おそらく怪物はジアを狙ったわけではなく、たまたまジアが自分で怪物の間合に入ってしまい、運悪く振り回した怪物の手に当たって勝手に地面に叩きつけられたようだ。 (間抜けなことこの上ない。早くヒカの所へ戻らないと……)  試しに地面を蹴って飛び上がってみたが、思う様に宙へ浮き上がらない。さっきはヒカが引っ張ってくれて上手く浮くことができたが、一人だとどうやって浮けばいいかさっぱりわからなかった。 (え、ちょっとどうしよう。困ったことになったんだが)  怪物はその辺の木々を足で薙ぎ倒しながら暴れ回っている。怪物にその気がなくても、さっきみたいにうっかりジアを踏み潰しかねない。  ちょうどその時、頭上から吊り橋の残骸がジアめがけて降ってくるのが見えた。防御の加護で防げるだろうと分かってはいたが、実際目に入ってしまうと恐ろしい光景で、ジアは思わず悲鳴を上げた。 「ぎゃーーーーー!」  バラバラと木や蔓の破片が降り注ぎ、ジアは手で頭を庇いながら地面にうずくまった。吊り橋の残骸は先ほどの石や木の幹と同じように、防御の加護に弾かれてジアの左右に散らばった。  やがて、破片が地面に落ちる音や衝撃を感じなくなったため、ジアは恐る恐る腕を下ろして顔を上げた。 「あ……」  顔を上げた瞬間、こちらを見ている巨大な目玉と目が合ってしまった。 「……こ、こんにちは……」  怪物が黙って巨大な手のひらをジアに向かって振り下ろしてきた。逃げなければ、と思ったが、恐怖で足がすくんで全く身動きが取れない。 (死ぬ……!)  ザクッ! 「ギャアアアアアアア!!!」  ドサリ、と巨大な手が目の前に落ちて、怪物の世にも恐ろしい叫び声が渓谷中に響き渡った。背の高い金髪の後ろ姿がジアの目の前に一瞬降り立ったかと思うと、すぐにひらりと飛び上がって閃く様に大剣を振るった。三十メートルの巨体から一瞬で首が離れ、遠くの方に落ちるドサッという音が聞こえた後、胴体が倒れて地震が起こったかの様に地面が揺れ、轟音と共に土煙が舞い上がった。 「ごほっ! ごほっ!」  土煙が目と喉に入り、ジアは体を丸めて盛大に咳き込んだ。目の端から涙を流しながら薄く目を開けると、さっきの金髪の後ろ姿が再び同じところに立っているのが見えた。風が彼のマントと髪を揺らし、土煙がまるで彼を避けるように風に乗って左右に流れていく。広い背中は力に満ち溢れて頼り甲斐があり、半分振り返った顔は白磁のように色白で、鼻筋が綺麗に通って美しかった。 「……怪我はないか?」  ボーっとしていたジアはそう声をかけられ、はっと我に返って慌てて立ち上がった。 「お、俺は大丈夫です」 「殿下!」  シンがどこからともなく降りてきて、ウィリアムの側に駆け寄った。 「何も殿下がお手を汚さずとも……」 「こいつが危なかったんだ」 「ジア様!」  地面に座り込んでいるジアに気づいたシンが慌てて助け起こしてくれた。 「大丈夫ですか? ヒカはどうしたんです?」 「ご、ごめんなさい。俺の不注意ではぐれちゃって……」 「あの程度の魔物だ。特に問題ないだろう」  ウィリアムはこともなげにそう言うと、ヒカの様子を見るためにひらりと地面を蹴って渓谷の上へ移動した。 「私は魔物の遺体を確認しますので、ジア様は殿下についていってください」 「……あの、すみません。装備の使い方がいまいちよく分からなくて、上手く浮遊できないんです」 「魔法の加護はイメージが具現化されるものです。確かに普段普通の人間は宙を浮いたりしませんから、イメージしづらいかもしれませんね。自分が宙を浮いている様を想像してみてください」  シンの言う通りに宙を浮く自分をイメージしながら地面を蹴ると、さっきとは打って変わって上手に浮遊することができた。 「……あの、あの魔物って本当に殿下が仰るように、大したことのない部類に入るんですか? あんなに大きくて、そこら辺めちゃくちゃなのに?」  ジアが遠慮がちにそう尋ねると、シンは少し考えるような素振りを見せた。 「そうですね、魔物の格付けは我々本位となっていますから、一般の方々の感覚とは少しずれるかもしれません。さっきの魔物は図体ばかり大きいだけで、知能も低ければ特殊能力も持っていませんでした。何より現時点まで誰一人傷つけたり殺したりしていなかったでしょう? この程度の魔物なら、装備を普通に使いこなせる騎士団員なら誰でも倒せます。知恵や何らかの特殊能力を持った魔物は厄介なので、体の大きさに関係なく危険度は上がります。一番恐ろしいのは、正体が不明でどんな能力を持っているか分からないのに、沢山殺して長く生きている類の魔物ですね。こういった類の魔物は特別な訓練を受けた、殿下率いる精鋭の騎士団員でしか対応できません」  シンの説明を受けて、ジアはようやく皆がさっきの魔物は大したことがないと口を揃えて言う理由を理解することができた。 「とはいえやはり殿下がいらっしゃると討伐が早く片付きますね。小物は誰でも倒せるとは言いましたが、ここまで素早くスマートに倒せるのはエドワード殿下かウィリアム殿下くらいです。あの巨体の首を一撃で落とすには相当な技術と訓練が必要ですから」 「すでに吊り橋修理の人手をこちらに向かわせております。幸い手の空いている魔法使いが待機していましたから、修繕には一日とかからないでしょう」  ジアが慣れない浮遊の加護を使ってようやく元いた渓谷の上の藪のあたりに戻った時、ヒカがそうウィリアムと老人に説明していた。 「ありがとうございます。第二王子殿下にまで御足労いただきまして、なんとお礼申し上げて良いか」  老人は深々と頭を下げた後、ヒカの背中に掴まって浮遊しながら壊れた吊り橋の向こうの村に帰って行った。 「……この渓谷には魔物が住み着きやすいんじゃないかって、さっき騎士の方が仰っていましたよね。だったらあの村人はここから離れるべきじゃないんですか?」  ジアの問いかけに、ウィリアムは森の奥にあるはずの村を眺めながら答えた。 「お前の言うことも一理ある。村人もそれはよく分かっているはずだ。それでもあの村を離れないのは、何か離れられない理由があるからなのか、それとも長く住み慣れた土地に愛着があるからか……いずれにせよ、我々は我が民が住みたい場所で安心して暮らせるよう、全力を尽くすまでだ。そのために彼らは高い税金を納めているのだから」  ウィリアムはジアを振り返ってちらっと笑った。まだ少し青臭いにも関わらず、王家の人間特有の威厳と品格を持ち合わせた笑顔に、ジアは心臓が微かに高鳴るのを感じた。

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