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第16話 深海のセイレーン4
(これは大変なことになった!)
アルガが蒼白な表情で狼狽えているのを横目で見ながら、しかしジアは何も考えていなかった。耳栓はきちんとつけたままだったが、体が勝手に動いてジアもすぐにウィリアムの後を追って海に飛び込んだ。
(この感じ……久しぶりだな)
海に入るのは本当に久しぶりだった。もっと幼い頃は、その日の食糧を得るために雨が降ろうが雪が降ろうがしょっちゅう潜っていたものだが、少し大きくなると日雇いや他の方法でお金を得る手段を選べるようになったため、昔ほど海に入る必要がなくなったのだ。それでもジアは水に潜った時の、陸地では味わえない宙に浮き上がるような感覚が好きで、大人になった今でも季節のいい時期にはよく海へ行って魚を獲っていた。
(やっぱり慣れない浮遊の加護の装備とは違うな。水の中で感じる浮遊感は俺にとって慣れ親しんだ故郷みたいなもんだ)
とはいえやはり装備を付けているので勝手が違う部分もあった。服やマントが体にまとわりついて重かったが、靴に付与されている素早さの加護のおかげで、裸で潜った時よりずっと速く泳げる。チョーカーに付与された水中で呼吸ができる加護のおかげで、息の続く時間を計算しながら潜る必要もない。水中でも目を開けていられる加護の付与されたコンタクトレンズをつけているおかげで、水中眼鏡無しでも視界良好だ。
(すごい。水中に暮らす生物ってのは、水の中でこんな感じなんだろうか)
しかし感心している余裕は無かった。この広い海原で一旦見失ったら最後、二度とウィリアムを見つけることはできないだろう。ジアは躊躇なく海底へと進んでいく輝く金髪の後ろ姿から目を離さないように気をつけながら、必死に足を動かした。ウィリアムが泳ぎがあまり得意でないせいか、追いつくまではいかないものの、幸いなことに引き離されることはなくジアは怪物に導かれるまま泳ぎ続けるウィリアムについていくことができた。
(殿下が向かっているのはおそらく魔物の巣だろうが、普通の人間がこんな調子で海に潜ったら死んでしまう。一体どういうつもりなのだろう?)
ジアはまだきちんと耳飾りをつけていたが、海中捜索に出たはずのどの騎士の声も届かない。
(まさか、全滅したんじゃ……)
ジアは慌てて首を振って恐ろしい考えを追い払った。おそらくこの魔法の加護は、一定の距離を保っていないと効果を発動しないのだ。それで仲間と離れすぎているジアの耳には誰の声も聞こえないし、ジアの声も誰にも届いていないのだろう。
やがて、ジアの目の前に巨大な海底の岩場が現れた。どうもウィリアムはそこを目指してまっすぐ進んでいるらしい。一見普通の岩場だったが、よく見ると美しい貝や珊瑚、真珠などで所々飾り立てられている。明らかに女性好みのデザインだった。
(これがセイレーンの棲家か)
ウィリアムは美しい赤や緑の海藻で縁取られた洞窟の入り口のようなところから、岩場の内部に滑るように入っていった。入り口に扉はなく、誰でも自由に出入りできそうだった。それはつまり、怪物が侵入者に対して全く恐れを抱いていないことを意味していた。
(それも当然か。こんなところまで来れる人間は普通いないし、装備を使って来れたとしても海中は彼女の方が断然有利だ。さらに彼女のテリトリーとなれば、どう考えても招かれざる客では袋の鼠だろう)
ジアはそんな事を考えながらも、ウィリアムを追ってセイレーンの棲家らしき岩場の内部に侵入した。
岩場の中は思っていた以上に明るかった。むしろ太陽の光が届きにくい外の方がよっぽど暗いくらいだ。天井や壁にはたくさんの光る珊瑚や貝、それに宝石がはめ込まれ、灯取りのような役割を果たしている。一見不規則にはめ込まれているようで、よく見ると波のうねりを表していたり、満点の星空を表現しているようにも見える。奥に進めば進むほど輝く装飾の数は増し、奥の広い空間にたどり着く頃にはその明るさはほとんど地上と変わらないほどにまでなっていた。
「!!!」
その空間には巨大な二枚貝でできた寝台のようなものがあり、半人半魚の怪物が満面の笑みを浮かべてそこに腰掛けていた。その青い魚の下半身を枕にして、ウィリアムがまるで眠っているかのように目を閉じて横になっている。セイレーンは彼の金髪を、まるで子猫の背中を撫でるかのように愛しげな指使いでなぞっている。
(殿下!)
チョーカーに付与された加護で水中で息はできるものの、水の中で言葉を発することはできなかった。ウィリアムは目を瞑ったまま恍惚とした表情をしており、耳飾りでいくら呼びかけても全く反応がない。
(どうしよう。ついてきたのはいいけど、魔物と戦ったことなんて一度も無い。小物と言われた吊り橋の魔物の前ですら無力だったのに、こいつはより上級者向けだろ? 俺にどうにかできる相手じゃないだろ!)
セイレーンは面白がっているような表情でウィリアムの髪を撫でながらジアを見ていたが、不意に美しい指をウィリアムの右耳にかけた。そのまま優雅な仕草で青い石のはまった耳飾りを外すと、何の邪気もない自然な動きで自分の右耳につけた。
(あっ!)
慌ててジアは自分の両耳に手を伸ばしたが、時すでに遅く、綺麗な女性の声が頭の右側に響いてきた。
(そんなに慌てないで。あんたに術をかける気はさらさらないから。あんたじゃあたしの相手にならないことぐらい見ればわかるし、そもそもこの方法じゃ気持ちよくしてあげられないの。あたしの声は水の中でも響くけど、その耳栓を取らなきゃ聴かせてあげられないわ)
水の中ににも関わらず、ジアは冷や汗がびっしょりと背中を濡らすような錯覚を覚えた。この怪物はジアが素人である事を一目で見抜き、耳飾りに加護が付与されている事、さらにはその使い方までも正確に把握している。
(騎士団員にとってはそこまで危険な相手じゃないって評価だったはずだけど、本当にそうなのか?)
(そうなの?)
(しまった! また心の声が……)
セイレーンはケラケラと笑っているような表情をした。ジアは一度大きく息を吐き、思考に集中して聞きたいことだけセイレーンに伝わるよう気を張り詰めた。
(二十人ほどの漁師を海に引き込んだと聞いた。彼らをどこへやった?)
(ここにはいないわよ。あたしの娘たちが可愛がってあげてるわ。すぐにここに連れてきちゃったら普通の人間はちっとももたないから、飽きたらここに連れてくるの。でもこの綺麗な人は水中でも息ができるみたいだったから、すぐにあたしのところに呼んだのよ)
ということは、現時点ではまだ村の漁師たちは生きている可能性が高いということである。これは迅速な解決が求められた。
(どうする? どうすればこいつを倒せるんだ?)
常識的に考えて、ジアがこの怪物と戦ったところで勝ち目はない。とすれば選択肢は二つ、ウィリアムを正気に戻すか、応援を呼ぶかのどちらかだ。
(しまったな、何か自分の居場所がわかるような道具でも借りとくんだった……)
この怪物の余裕たっぷりの様子からして、ジアがウィリアムを起こすのもここから逃げ出すのもおそらくほぼ不可能なのだろう。万事休すとはまさにこのことだった。
(あたしの娘たちは綺麗な容姿と歌声で人間をうっとりさせられるんだけど、あたしはもっと凄いの。あたしの歌でうっとりしてる人好みの姿に変身できるのよ。今はこの子の好みに合わせてあげてるけど、あんたもその耳栓を取るなら今度はあんたの好きな顔に変身してあげる。どう? 報われない恋とかしてない? 人生の最後にあたしがその恋を叶えてあげるわよ)
セイレーンの甘い言葉にぞっとしつつも、ジアは気になって彼女を観察してみた。よく見ると、何となくどこかでみたことのあるような顔をしている。
(この女は誰だ? ウィリアム殿下に似ている気もするが……あ!)
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