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終章 光の勇者と神緑の魔術師 第三話 光の勇者ハロルド
光の勇者ハロルドには長年の想い人がいる。
というのは、苦楽を共にした魔王討伐の一行の中では有名な話だった。
聖剣に選ばれたハロルドが魔王を倒すのは女神に定められた理のひとつで、彼女に創られた人の身である以上それに逆らうことは出来ない。
もちろん、ハロルドとて人々を苦しめる魔王を倒すことに異論はなかった。
そのための力を女神に与えられたことを誇りに思っていたし、実際、自分にはその力があると信じていた。
けれども、時折人々を救いたいと願うこの気持ち自体が女神に創られた紛い物なのではないかと思うときもあった。
若さゆえの自我同一性の揺らぎ。
幼い頃から勇者候補として扱われ、世界を救う英雄になるべきという周囲の圧力はハロルドが自分で思っていたよりもずっと重たいものだったらしい。
自分が自分であることの不確かさやそれに伴う苦しみが、思春期を迎えたあたりからハロルドには常に付きまとっていた。けれども、同時にハロルドにはずっと心に根付く確かな愛があった。
そうやって悩み苦しんでいるときに心の支えとなったのが、かつて自分を育て命がけで守ってくれた魔術師ニコだったのだ。
ニコとハロルドが出会ったのは、もう九年も前のことだ。
女神の神託を受け、勇者候補として選ばれたハロルドの元に護衛として派遣されたのが、当時王国軍の魔術師部隊に所属していたニコだ。
初めて会ったときのニコの第一印象はとても綺麗な人。
あの頃のニコは群青の長い髪をいつでも丁寧に結っていて、美しい薄紫の瞳は常に穏やかで理知的だった。
ハロルドが育った辺境の村にそんな綺麗な人はいなかったし、村の男たちはハロルドを見ると怒鳴るか殴るかしかしなかった。
だからハロルドは最初、ニコのことを女の人だと思っていたくらいだった。
そんなニコに対して、ハロルドはひどいものだったと思う。何せ、育ててくれた養父母を亡くして久しく、人というよりも動物に近い生活をしていた。
雨水を啜り、腐りかけた食べ物を食べていた。
もちろん身体なんて洗ったこともなかった。
けれど、そんな野生のハロルドをニコは嫌な顔ひとつせず受け入れてくれて、あまつさえ人として育ててくれたのだ。
垢じみた身体を洗い、温かい食事をくれた。
文字を教えるところから始まった教育は、彼の得意な魔術に進み、剣術は諦めて、また魔術に戻った。
結果ハロルドは得意な魔術を思う存分学ぶことが出来、これは魔王討伐の旅で大きく役に立つことになる。
毎日が温かくて幸せだった。
あの頃のハロルドの世界はニコで満たされていたし、ハロルドはニコさえいればそれで十分だった。
これまで与えられたかった愛や優しさというものを、ハロルドは全てニコから教わった。
しかし、温かくも幸せなハロルドの小さな世界は呆気なく壊れてしまった。
ハロルドとニコの住んでいた村が高位の魔族に襲われたのだ。
幼いハロルドは知らなかったが、ニコは当時最強を誇る植物魔術師だったらしい。
国をひとつ滅ぼせるほどの力を持った黒焔帝をたったひとりで退け、ハロルドを守りきった。
魔族と戦い続け、魔王を討ちとった今だからこそ、ハロルドはそのときのニコの凄まじさが分かる。
ただの人が四天王とひとりで戦い、勝った上に生き残るなど不可能に近いことだ。
現にニコより位階が高かったはずの剣士ランスロットの護衛魔術師は、ランスロットを守りきったものの、そのときに命を落としてしまった。
けれど、ニコは生き残った。
あれほどまでに彼が愛していた魔術は使えなくなったし、身体も不自由になってしまったけれど、確かに彼は生きていた。
そのことをハロルドはこれまで何度も女神に感謝した。
思えば、ハロルドの元にニコが派遣されたのも、ニコが生き延びたのも、その全てが女神の采配だったのかもしれない。
ハロルドにとってニコがその指針となるように、女神はハロルドにニコを与えてくれたのだろう。
旅の目標は確かに魔王を倒すことだったけれど、ハロルドの心の中にはもう一度生きてニコに会いたいという強い気持ちがあった。
命を落としそうな場面で、ハロルドは何度となくニコを思い出したし、間違いなく彼の存在はハロルドを救ってくれた。
――幼い頃にした約束を絶対に果たしに行く。
それが厳しい戦いの中で、ハロルドがたったひとつ大切に握りしめていたものだ。
「嵐みたいだったな……」
ヴィクトリアの残した魔力だけを見つめて、ニコが呆然と言った。
彼女の勢いと有無を言わさぬ力強さは、ハロルドには慣れたものだったが初対面であるニコには強烈だったのだろう。
しかし、このときのハロルドにそんな彼を気遣う余裕はなかった。
――あなた、旅の間中ずっとめそめそとニコ様に会いたいと言っていましたものね。
去り際にヴィクトリアが言い捨てていったその言葉を聞いて、ニコは何を思っただろうか。
ニコには何度も「ニコのおかげで生き残れた」と言い続けていたけれど、それを他人に指摘されると気恥ずかしくて仕方がない。しかも、ヴィクトリアの言い方では、道中のハロルドが始終泣き言を言っていたようではないか。
ずっと年上で余裕のあるニコに、ハロルドは情けないところを見せたくなかった。
ただでさえ子ども扱いされているのだから、少しでもかっこいいと思って欲しかった。いや、もう散々情けないところばかり見られているような気もするけれども。
ニコの反応が気になって視線を向けると、そこにはニコの笑顔があった。
そして、にこにこと笑いながら、残っている左手でハロルドの頭を撫でてくれる。
「がんばったんだな」
よしよし、と宥めるように撫でられて、ハロルドは叫び出したいような気持になった。
たぶんニコは全てを分かっているのだ。魔族と戦い続ける状況の過酷さも、そこで何が大切かも。
やはり、ハロルドが成長し、どれほど強くなってもニコには敵わない。
「いつも、泣き言言ってたわけじゃなくて」
「うん」
「たまに、本当に辛いときに、つい」
「うんうん」
言い訳がましく言えば、ニコは何度も頷いてくれる。
そしてそっと抱き寄せられて、額に口づけてくれた。柔らかい唇の感触に、ハロルドは自分がぶわりと赤面したのが分かった。
「いつものおかえしな。俺のはお前みたいに守護魔術は入ってないけど」
「……気づいてたの?」
「気づいたのは、魔術を使ったときだよ。お前の魔力を感じて、ああ、守ってくれてたんだなって思った」
ニコの言葉にハロルドは驚いた。魔力を失い魔力探知が出来なくなったニコには、絶対に気づかれないと思っていたのだ。
ニコの言うとおり、ハロルドは毎朝ニコと離れるときに彼に小さな魔力を付与していた。
守護魔術、とニコは言ったけれど、そんな大層なものではない。
彼が強い魔力に晒されたときに、ハロルドがそれに気づくように彼の微かな魔力と自分の魔力を繋いでいただけだ。
そうすると、ニコの身に起こった魔力変化や彼の居場所をハロルドは知ることが出来る。
今回も、アラクネの僅かな魔力をそうやって知ったのだった。
秘密にしていたのは、まるで彼を見張っているようで気まずかったから。しかし、どうやらニコはあまり気にしていないようだった。
実を言うと、結界内に侵入して来ようとする魔族には気づいていた。
何度も通り抜けようとして失敗していた魔力は、おそらく元魔王軍四天王の獣王のものだ。
しかし、いくら四天王の生き残りといえども、ハロルドがニコを守るために張った結界は破れなかった。
故に結界を破ることなく侵入が可能な、隠密行動に長けた蟲姫アラクネを差し向けたのだろう。
しかし、ハロルドの結界も魔力の付与も結果として何の役にも立たなかった。
「ちゃんと守れなかった。ごめん、今度こそ俺がニコを守る番だったのに」
ニコのもうすっかり治ってしまった腹を撫でながら、ハロルドは言う。
今回の襲撃は、魔族が近くまで来ていたことを把握していたのに放置していた、ハロルドの責任だ。
決して中に入れないようにと結界を強化するのではなく、そもそもの原因を亡くしておくべきだったのだ。どうしてもそう思ってしまい落ち込むハロルドに、けれどもニコは微笑んでくれた。
「何言ってんだよ。ちゃんと守ってくれたろ。アラクネを一刀両断、かっこよかったぞ」
あいつ、あんなに硬そうだったのに、と笑うその顔はどこまでも優しくて、それがハロルドにはとても悲しかった。
ニコはどうあっても大人しく彼をハロルドに守らせてはくれないのだ。
何故ならば、彼自身が「守る側」だからだ。
彼にとって魔族との戦いで傷ついても、死んでも、それはきっと自らの力不足だということなのだろう。しかし、ハロルドは彼を守りたかった。
かつてニコが自分を守ってくれたように、彼を自らの背で庇いたい。
彼を傷つける全てのものをこの手で退けたいと思ってしまうのだ。
「でも、俺、魔族が結界を破ろうとしてるの分かってたんだ。こんなことになるなら、先に殺しておけばよかった」
そしたら、ニコは怪我をしなかった。そう言えば、ニコが困ったように返した。
「勇者が魔域に足を踏み入れたら、また戦いになるだろう? 相手が何もしていないのにこちらから仕掛けるわけにはいかない。そしたら、あいつらが望む全面戦争再びだ」
「それは、そうだけど」
「それに俺はお前が絶対に来てくれるって信じてた。だから、諦めなかったんだ」
「ニコ……」
ニコの薄紫色瞳に誘われて、ハロルドは吸い寄せられるようにニコに口づけた。
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