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第3話

「聞いておるのか、そこの――」  突っ立つフィルの鼻先に、汚れた足がずいと押し出される。 「何をぼさっとしているのかと聞いておるのだ! ぬしは自分の主の番が、みすぼらしい姿でいても構わないというのか!」  癇癪を起こした青年の声が、幼い子どものように甲高くうわずった。苛立ちに任せて拳を振り、駄々をこねるように足をばたつかせる。  仰々しく跪き、飾り立てた言葉で褒め称えてくれるのを、彼は待っていたのだ。それなのに、屈服どころか賞賛もしようとしないフィルに、まるで自分の放つ栄光が微塵の価値も持たない泥同然だと、そう突きつけられているようでたまらなく身体中の血が沸騰した。自尊心を傷づけられたことさえ彼は理解していなかった。  白目まで真っ赤に染め、常にムッとした目鼻と、薄い唇を山なりに結んだ、見るからに短気そうな顔のどこに威厳を感じろというのか。そんなフィルの冷ややかな思いをくみ取ったかのように、青年は空を蹴り上げた足を勢いよく振り下ろしかかった。  フィルはすっ、と腰を伸ばし、頭上に振り下ろされた足を捕らえながら青年に迫った。 「私に、足を拭えと」  フィルの主はカロンである。山を越えて遠くからやってきた、どこの誰とも知らない白犀の青年ではない。  それに、仕えるといっても従僕のためではない。Ωとしてのつとめを果たすためにすぎないのだから。  フィルは苦虫を噛み潰したよう顔になる。  日頃から耳にたこができるほど聞かされていた言葉が蘇ったのだ。 「そんな下僕まがいな装いでは、いつか間違いが起こるだろうな」  背を向けた彼が、つまらなそうにいった言葉。それが胸に深く突き刺さっていた。  白と黒の斑の斑犀(はんさい)を優美に飾った幼い侍女たちが、おろおろと手にした碧紗や金羅を抱きしめていたのは、昨日のこと。千夜を夢見るような香を焚きしめた衣は、火熨斗をかけて暖かくしてくれていたのだ。 「せめて、外を散策するときだけでも……」  李のような甘い声と、今にも泣きだしてしまいそうな瞳に縋り付かれてしまえば、フィルも強情にはなりきれない。渋々頷いたが、今朝はまだ星や月が明け方の空に残っていたのだし、少しの間だからと、いつものように麻衣に袖を通し、侍女たちのことも起こさずにそっとでてきてしまった。  澄んだ朝の風に一人であたりたかった。  朝露の輝きの中に身体をしずめて、菊の囁きと言葉をかわしたかったのだ。ほんの少しの間だけ。と、そう思っていたのに。  フィルは唇を結んだ。  これほど迂闊なことはない。言葉なくため息をつくカロンの姿が、ありありと目に浮かぶ。  それも、運悪く、貶めようとするフェースの前でこんなことになろうとは。  フェースの反応を横目にみやるが、彼は頭を垂れたまま、まるで自分には関係がないとでもいいたげであった。 「それで拭えばよい」  鼻息荒く、青年はいう。  それ、とは頭を包んでいる更紗である。  躊躇するフィルに、白犀の青年が口の端を持ち上げた。意味ありげな笑みは、角がなければあざ笑ってやろうと企んでいるようだ。  フィルがもたもたとして更紗を解こうとせず、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にさせれば、なおのこと愉快であっただろう。追い打ちをかけるように早くとれと急かしてやれば、腹の虫もおさまるか――と。  しかしフィルは彼の思惑にはずれて、するりと解いてしまった。  柔らかな短い髪が、更紗の下に露わになる。その額際を目にした従者たちの、微かに息を呑む声が、菊野のざわめきの際に落ちていった。  そこにあるのは生々しい傷痕だった。根こそぎとられてしまって、もう二度と生えてはこない。  奪われるほど価値のある角を、フィルが持っていたということ。その傷痕が示すのは、彼がかつて、白犀であったということのほかならない。  それを一目にして悟った青年の目つきは、驚愕に満ちていた。

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