4 / 5
第4話
「ジュシュ様……」
従者の男に声をかけられるまで、白犀の青年――ジュシュは、額の傷痕から見えるその痛みの記憶に、自身の身体さえもが痺れたように動けなかった。
ハッとして、何か恐ろしい夢魔にでも取り付かれたような顔で、フィルの手を蹴り飛ばす。
「つ、角のないものが、私に触れようとするとは、なんたる無礼……!」
彼はフィルの額の角痕を、まるで直視することを恐れているふうだった。青ざめた顔に濁った白い目が不安げに揺れている。落ち着きのなく掌を拭うジュシュの姿に、卑賤まがいのフィルに触れてしまったことがよほど気に食わないのだと、彼は思った。
無礼、か。
唇の端に笑みを浮かべて、彼の口走った悲鳴を反芻する。
引き攣った顔が目の前に浮かぶような声色である。ジュシュは痛々しい傷を目にしてすっかり気概を挫いたらしい。戦慄く唇で指先を噛みつつ、ちらちらと背後を気にしている。
「ジュシュ様、こちらへ。ご案内いたします」
傍らで伏せていたフェースが咄嗟にジュシュの前に伸び上がる。手綱を引きながら、フィルを小突いて口早に告げた。
「おまえは今日からジュシュ様のお世話をなさるんだ」
ジュシュは気を取り直して鼻を鳴らし、フィルへと蔑視を送る。
引き締まった黒馬の脚が菊の間を掻き分けて進むたび、リリ……、と虫の群れが飛びたった。
リリ……、リリ……、
その羽音が、薄く漂う靄の中に消えかかる。
朝露の飛沫を纏った虫の羽が、銀色に輝く波がしらのように飛ぶのを見とれながら、フィルの顔色は曇っていく。
「若君は、しっておいでか?」
忽然と、腰に結ばれた金の装飾の冷たさに気付いた。腹部に垂れる烏犀の角細工が、普段は慣れてしまって気にもならないのに、やけに肌に触れて仕方が無かった。
魂をも縛る番の契約である。
契約は交わされたままなのだ。死を待たず契約を破れば、カロンもフィルもただではすまない。それを、カロンが知らないはずがない。
フィルはフェースの背を捕らえると力強く引き寄せた。怒鳴ろうとするフェースの衣を引っ張って、フィルは開けた衣を放そうともせずに追求した。
「フェース、若君は勿論、知っておいでなのだろう」
それを鬱陶しく振り返りながら、フェースは舌打ちをする。
「角のない男よりも、ある方が良いということだ」
「ほんとうに、そうおっしゃったのか」
吐き捨てるような言葉に声をかぶせて、フィルは食い入るようにフェースを見つめる。
縋るようだった。まさか、そんなはずがないと言って欲しかったのだ。
でなければ、カロンがフィルを生かしておく理由がなくなってしまう。
「ジュシュ様の世話役をおまえにと、私は確かに承ったがね。カロン様が嘘をついているとでもいうのか?」
何を当たり前のことを。とでもいいたげな顔色である。
カロンが嘘を吐くはずがない。では、白犀の青年は本当にカロンの番としてやってきたのだ。
途端に、霧に濡れたからだが震えだす。
心が裂けるほどの痛みが、全身を焼きつくすよう。
薄くはれていく靄の中を、菊の踏み折れる音がいつまでも響いていた。
早く来いとフェースの目に睨まれて、フィルは呆然と足を動かして進む。その背に、虫の音も、鳥の声もすでにきこえてはいなかった。
ともだちにシェアしよう!