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第4話 エピソード4

「だから!なんの用もないのに人を引き止めるなよ。仏の顔も三度までって諺知ってる?」 「君は仏じゃないし、俺は引き止めてない。ほら、さっさと行け」 「くっ、なんなんだよ……このっ、泣き虫眼鏡!」 「なっ、そういうのは、触れないようにするもんじゃないのか?まさか言いふらしたりしてないよな?そこまで低脳じゃないだろ?」 「してませんよ、失恋眼鏡さん」 「ラジオネームみたいなあだ名で呼ぶのはやめてくれないか?匿名希望くん」 最悪だ。 学食に向かう途中の廊下で、また腕を掴まれた。 例のピアニカの号泣眼鏡男の仕業だ。もう二度と合わないだろうと思っていたけれども、翌週にまた合うことになるとは。というか、また腕を掴まれるとは。こいつは俺の腕を見ると掴みたくなる暗示にかけられているのか?パブロフの犬なのか?ていうか匿名希望くんってなんだよ。俺のラジオネームか? 「残念だったな。俺のラジオネームは、『田中係長(たなかかかりちょう)』だ」 「あ、そう」 奴は眼鏡を人差し指でクイっとあげると、回れ右をして、スタスタと歩いて行ってしまった。 「誰だよあいつ」 「知らうっ」 「飯いくぞ」 後ろから、チョークスリーパーよろしくホールドされ、引きずられる。一生懸命上を見上げようとしても俺の首を絞める男の顔が見えない。しかし、視界の隅に赤いものがちらりと見えた。 最悪だ。 苦しくてため息もつけない。 そのまま、学生塩谷は不良江藤に連れられて食堂へとやって来た。 「食え」 「いや、食えと言われましても」 初めて使用する二人用のテーブルの上には、お弁当がふたつ並べられていた。 男の子らしい四角くて大きなお弁当。がふたつ。 これ、江藤の手作りなんだろうか。 俺の前に座る男と弁当を見比べた。 「いらないなら、捨てる」 「それは、どうかと思うよ!」 食うのは嫌だが捨てられるぐらいなら食う。俺はお弁当を引き寄せて、蓋を開けた。 白米。卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、唐揚げにトマト、といちご。 「不良のくせに!」 「不良は関係ねーだろ!さっさと食え」 「どういうつもりか知らねーけど、食べ物に罪はないから食います。いただきます」 好きなものと嫌いなもの、どっちから食べる?俺はもちろん、好きなものからだ。 ということで、いちごからいただく。 「それはどうかと思うぜ」 「……腹一杯の時に食べるいちごと、空腹の時に食べるいちごはどっちがうまいと思う?俺は好きなものはよりおいしく食べたいんだ」 「へぇ。好きなものはよりおいしくねぇ。覚えとくぜ」 「……なんか、お前に覚えられるのはやだな」 一番好きなものを食べたら、あとはもうどうでもいい。白米をベースに、おかずをバランスよく食べていく。江藤の料理の腕前はかなり良い方だ。弁当を食いつつ、ちらりと江藤を盗み見ると、江藤は俺のことをガン見していた。 「なんだよ、見てんじゃねーよ」 「うまいとか、まずいとか、なんとか言えよ」 「うまいよ、ありがとう」 「お、おう……。お、お前が好きな食いもん教えろ!次はそれつくる」 「なんで」 「餌付け。食いもんで釣れるってのがわかったからな」 なんだそれ。 まさかランチビュッフェのことを言ってるんじゃないだろうな?あれは餌付けなんかじゃないし、江藤の知り得ない出来事のはず。しかし、その『知り得ない』出来事を知っていたから、寮の部屋であんなことに……。俺は首を振った。いかんいかん。これは忘れる約束だ。 その時、江藤の手がテーブルを超えて、俺の頭を掴んだ。あまりにもがっしりと掴むものだから、そのまま頭をもがれるのかと思った。江藤の顔が近づく。 「何考えてんだよ」 「な、なにも」 「まさか、言いふらしたりなんかしてないだろうな」 「何のことですか?俺そろそろいかなきゃ」 「おい、そろそろとか言うな……」 「え?あぁ、そうろいてててててててててて頭が割れるやめてくれ記憶があ、いって」 江藤は俺の頭を離した直後に脳天にチョップをした。脳細胞が死んでしまう。一度死んだらもう元にはもどらないんだからな。俺は、両手で頭をガードして、江藤の手が届かないところまで仰け反った。 「よし。今ので忘れただろ」 「あなたは誰ですか」 「俺まで忘れんな」 「はぁ、記憶飛ばねーかなぁ……」 「ぶっ飛んでみるか?」 俺は再び頭をブンブン横に振った。 江藤は俺が最後まで残していたトマトを摘み上げ、己の口の中に放り込んだ。江藤の弁当はいつのまにか空っぽだった。そして俺の弁当もたった今空っぽになった。 「ごちそうさまでした」 俺は手を合わせて、弁当に、江藤に、頭を下げると、立ち上がった。 「まだ昼休みはおわんねーだろ」 「次は体育なんでね」 「おい、ちょっとまて」 「好きな食べ物は、たまごかけごはんです。んじゃ」 ヒョイと、伸びてきた江藤の手を交わす。逃げるように俺は教室へと戻った。 教室に入る時、すれ違いに早川が出てきた。早川は俺を見て立ち止まると、なにも言わずににやりと笑い、すぐに歩き始めた。 なにあれきもちわるい。 自分の席に辿り着いて、体操着に着替えようとシャツを脱いだ時、すでに体操着に着替え終えた山本くんが俺の目の前に立った。何か言いたそうに身体を揺らしているが、なかなか発言しない。着替えようにも着替え辛い。なんなんだ。さっきの早川といい、この山本くんといい。俺はハッとして、社会の窓を確認したがそこはちゃんと閉じられていた。 「放課後、話があるから、待ってて」 これは何のフラグなんだろうか。 山本くんを待ち続け五十六分経過した。そろそろ俺は帰っても許されるだろうか。もう充分、居残ってる奴らも俺が誰かを待ち続ける姿をその目に刻んだだろう。あと四分待って来なければ帰ろう。俺は時計の秒針を追った。 「ごめんね、塩谷くん。待ったよね」 山本くんは、息を切らし、頬を赤らめて、制服の第二ボタンを開けて、小さな手で仰ぎながらやってきた。マニアならたまらない光景だ。マニアなら。 「まっ、てないよ。うん。話って何」 「実は、塩谷くんにお願いがあって……」 山本くんは隣の席の椅子を引っ張ってきて、ストンと腰を下ろした。俺も山本くんに向かい合うように、椅子を動かした。 「僕、映画研究会に所属してるんだけど、今度先輩がコンクールに出す作品に出演するんだ。それで、塩谷くんにも手伝って貰いたくて……」 「それって……スタッフとして?それともエキストラ的な?」 「ううん。主演で」 「なるほど主演で……え!?主演!?」 「あ、主役は僕なんだけど、その……僕の相手役を、塩谷くんにお願いしたくて」 山本くんは上目遣いで俺を見つめた。 そんな目をしたって、それは無理な相談だ。 エキストラならまだしも、主演って……。演技もしたことがなければ邦画もそんなに見ないし、何より、向いてない。俺という存在が、映画とか、演技とか、役者とか、そう言う類のものと相反している。 「ごめん、俺、できないよ。ていうか、俺なんかより、早川に頼めばいいじゃん。あいつなら、それらしくなると思うし、その方が、山本くんだって」 「早川くんにも、声をかけたんだけど、無理なんだって。モデル事務所の契約で、学校の部活動であっても映像作品に出ることはできないって……。それで、早川くんが、ま……塩谷くんはどうかって。塩谷くんなら、やってくれるって……あと壺がどうとか言ってたけど、それはよくわかんなくて」 「あー壺ね!つぼ!つぼのことは置いといて!映画とか恥ずかしいし、俺演技できないし」 「大丈夫!顔が映ることはないから!セリフもないし、後ろ姿とか、足とか、手とかだけで。出番も少ないし」 「え、そうなの……じゃあ、なおさら俺でなくてもよくない?」 「帰宅部の人たちに声をかけたんだけど、断られて……。先輩達にとっては、最後の作品になるんだ。だから、お願い、塩谷くん!」 山本くんが手を合わせて俺を拝む。1年から3年までの帰宅部が全員山本くんのお願いを断るとは思えないけど……。後ろ姿とか、足とか、手とか、だけなら、断る方がむしろ、自意識過剰……か……? 「わかった、山本くん」 「やってくれるの?」 「う、うん。それで、いつ撮影」 「今から。来て、塩谷くん」 山本くんはその小さな手で俺の手を掴むと、俺に鞄を持たせる隙も与えず走り出した。 「ごめんね、時間がなくて、できれば夕日が沈む前に撮りたいから」 連れてこられたのは、3年の教室だった。中には5人の生徒が待機していた。 「先輩!塩谷くんがやってくれることになりました!」 「おお!まってましたぞ、塩谷くん!ありがとう、塩谷くん!僕は監督の如月(きさらぎ)シモンだ。よろしくたのむ」 「塩谷まといです。よろしく、お願いします」 「それじゃあ、さっそく山本くんはコレに着替えて」 頭の右側は金髪、左側は黒髪のファンキーな頭をした人(監督)が山本くんに着替えを渡した。山本くんが抱えるものを見て、俺は度肝を抜かれた。それはセーラー服だった。 「え、セーラー服?着るの?」 「女生徒役だから。映画はラブストーリーだよ」 山本くんは何食わぬ顔で言った。体操服に着替える時みたいに、何の疑問も躊躇いも持たず、制服を脱いだ。 「じゃあ、山本くんの相手ってことは、俺」 山本くんの彼氏役かよ…! なるほど、なるほどなるほどなるほど。そうか。そうだよな。それなら、俺のような、山本くんに興味を持ってない人間じゃないと、山本くんが辛いよな。こんな普通な奴だとしても。キャスティングはベターだ。よく考えられてる。考えられてるか? 「はい、君はコレに着替えて」 「え、俺もです……か。あの、これ、間違えてますよ」 「え?君はそんなに大きくないから、Mサイズで事足りるだろ?はやく着替えて」 「いやいや、サイズじゃなくて!!」 「じゃあ問題ないな」 「問題しかないでしょう!コレを俺が着るとなると!!」 俺と監督の間で、Mサイズのセーラー服の押し付け合いが始まった。 聞いてない。ラブストーリーなのも、山本くんがセーラー服なのも、そして俺がセーラー服なのも、聞いてない。 「塩谷くん、はやく着替えて!大丈夫!塩谷くんはタイツ履いていいから!僕は、ハイソックス、だけどねっ」 「ウィッグも用意しているんだ、安心してくれたまえ」 「僕は地毛でやるけどねっ」 「いやいやいやいや、こんなのずるいでしょう!俺は山本くんの相手役って事しか聞いてなくて……ていうかラブストーリーって、え?女生徒同士の!?」 それは。 嫌いじゃない。 しかし!自分がやるとなると別だ。 監督は、セーラー服を持って一歩後ろに下がった。その横に立っている山本くんは、完全に少女へと変身していた。 「斬新だろう!?今年こそ優勝する。僕たちは真剣にやっているんだよ、塩谷くん。たのむ!!君なら、僕のイメージに近い()が撮れそうな気がするんだ。お願いだ!!この通り!!」 監督はセーラー服を掲げながら土下座した。はたから見れば変態だ。俺は助けを求めて周りを見渡したが、スタッフ全員が頭を下げていた。山本くんも。その熱量が、重い。 「ふざけているように見えるかもしれない。だけど、僕らは本気なんだ」 青春は、はたから見ている方がいい。 ……青春している奴らは嫌いじゃないからだ。 「きゃくほん。脚本を見せてくれ。全部見て、あと出しはもうなしだ」 頭を下げていた学生の一人が、手に持っている脚本を俺の目の前に持ってきた。 脚本の内容が、至極ふざけたものであったなら、俺は今こんな格好でいるはずがなかったのだろう。鏡は見ない。かつらはブロンドヘアのおかっぱだった。 「ぷっ」 「おい、照明。今俺のこと見て笑っただろ」 「わ、笑ってない」 「ちがぶふぅ、違うよ、塩谷くん、わら、笑ってないよ、ねぇ、監督!」 「最高だ!最高のシルエットだよ、塩谷くん!」 照明器具を担いでいる男は明らかに笑ってたし、その照明をかばう山本くんも明らかに吹き出していた。監督だけは、俺を正面から見ることなく後ろから俺に話しかけた。俺が監督と向かい合おうとすると、監督は俺の後ろにまわる。なに、この仕打ち。俺なんかした? 「よし、早速撮り始めるぞ。シーン5の2カットめからいくぞ。用意しろ。塩谷くんは絵コンテと山本くんを見ながら察してくれ」 ポンと丸められた絵コンテを渡されて、俺は邪魔にならないように教室の隅に座り込んだ。息を殺して、絵コンテと、山本くんを見比べる。演技が上手いとか下手とかはわからないけど、カメラのモニターに映る山本くんは、映画の中の人っぽかった。()えるな。撮りながら、もうちょっと影がとか、角度がとか、そんなことを言い合いながら、何度もリテイクを重ねる。その間、同じ表情で居続ける山本くんも立派なもんだ。 「次は、5カットめいくぞ。塩谷くん、教室の外で待機してくれ。黒板側のドアの後ろらへんな。山本くんが、倒れるから、その音が聞こえたら、そこからゆっくり、歩いてきて、教室後方のドアを開けてくれ。ロングカットになるから、気抜くなよ。とにかくやってみる」 「はい」 テキパキと、監督は監督らしく、指示を出していく。指示を出している最中も、俺を真正面から見ることがなかったが。 俺はゆっくりと、忍者のごとく、まず顔だけを廊下に出して、誰もいないことを確認し、教室を出た。 指定された場所に着いて待機する。 ……が、待てども待てども、山本くんが倒れる気配がない。倒れ方とか!カメラの動線とか!どうでもいいから!いやどうでもよくないけれども!はやくしてくれ!こんな姿、他の生徒達に見られたくない。もしも中島くん(唯一の後輩)に見られでもしたら、俺は、俺は!俺は両手で顔を覆った。その場に座り込む。スカートとか気にしない。どうせこの学校には男子しかいない。恥ずかしいものが見えたってセクハラにはならないし、第一ここには誰もいない。 「あの、大丈夫ですか?」 「だ、」 声につられて思わず顔を上げたけど、それがここ一番最悪の選択だった。すぐに顔を伏せる。ついでに股も閉じる。顔、見られた?一瞬。こんなパツキンのセーラー服がイコール俺だなんて方程式、一瞬じゃ解けないよな!?俺はドキドキしながら、中島くんの次の言葉をまった。ジャージ姿の中島くんは、俺に合わせて一緒にしゃがみ込んだ。 「どうして、女子がここに?迷ったとか……?」 セーフ!セーフだ!しかし、俺は答えない。答えられない。顔を上げて、やだナンパ?撮影中なのー!ぐらい言えるノリの良い先輩に生まれてきたかった。 「……えっと、この学園に家族がいるの?ここ、男子校だから、君みたいな……えっと、女子がいると、危ないし、職員室に連れて行ってもいい?」 ヤダ!そうやって体育館倉庫とかに連れていっちゃうんでしょ!?残念!俺でしたー! って、言え。言え。 俺は立ち上がった。 「俺に着いてきて……ちょっと、君!」 俺はヅラがズレないように頭を抑えながらとにかく走った。当然追いかけてきた中島くんを、足の速さでまくことはできないだろうから、隠れるしかない。廊下の角を曲がった、すぐそばの部屋。俺はそこに入り中から鍵をかけた。しゃがみ込んで、息をひそめる。 「あれ…、消えた……?」 社会科準備室の外で俺を探す中島くん声が聞こえた。耳をすませ。中島くんの息遣いと足音を感知するんだ。 「……彼女、大丈夫かな」 大丈夫です!むしろ君がいると大丈夫じゃなくなるんです!はやく行ってくれ!!心の中でそう叫んだのが通じたのか、中島くんの足音は、静かに、遠くなっていった。それから2分ぐらい、俺は目を閉じて神経を研ぎ澄ませた。よし、誰もいない。 社会科準備室の扉を開こうとした。 その時。 「田中」 後ろから腕を掴まれ、驚愕してその手を振り払おうとしたが、それはできなかった。 振り返ると、案の定、眼鏡のついた見知った顔がそこにあった。 「はぁ?たなか?人違いだ、失恋眼鏡。まったく、びっく……り………」 「その格好。君の趣味か?」 掴まれたままの腕を引っ張られた。 とれそうなくらい首を左右に振る。 「よくみせてくれ」 「やだよ」 と言って、腕を振り払い前を向こうとしたが、腕を振り払うことも、前を向くこともできなかった。眼鏡は腕を掴んでいない方の手で、おれの両頬を掴んだ。 「やえお!あなへ!」 奴は顔を近づけ、まじまじと俺を見た。なんだよ。こいつ。何がしたいんだよ。仕方なく、俺は目を閉じて、眼鏡から解放されるのを待った。 「……君を見ると捕まえたくなる理由がわかった」 彼は俺の腕と頬を離すと、一歩後ろに下がり斜め下を向いた。さっきまで俺のことを穴があくほど見ていたのに、どうやらもう目にはいれたくないらしい。嫌がらせで、斜め下から覗き込む。 「何だよ、言ってみろよ」 「初恋の人に似ているんだ」 「………………………………は?」 初恋の人?俺が?眼鏡の?失恋眼鏡の?失恋眼鏡の初恋の相手って、先日結婚した従姉妹じゃないのか?似てたか?くそ、顔なんて思い出せねーよ。どちらにしろ。 「そ、それは、お前の従姉妹に、失礼じゃないか……!?」 悲しいかな、俺に似ているってかなり残念なことだぞ。いや、もしかして、カツラとセーラー服の効果で俺美しくなってるとか…!? ………そんなわけがないか。 「いや、従姉妹じゃない。幼稚園児の頃に好きだった子ににている。ていうか、君じゃないのか」 「はあ!?幼稚園児って……俺、ここの幼稚舎には通ってなかったし」 「俺もだ」 「ていうか日本にいなかったし……!」 「!……俺もだ」 「…………だいいち男だし」 「まいちゃんは、女の子だった。たぶん。髪がちょうど、それぐらいの」 名前まで似ているのかよ。しかも俺も小さい頃は母親のカットでいつもおかっぱだった。しかし、やはり決定的な差がある。まといは男で、まいは女。名前も似てるけど違う。 「俺のわけがないだろ!ていうか、俺だとしたら、事故だぞ?そんな過去」 「それで、たしか、名字は……しおや。君の名字は、田中だろ?」 「タナカデス」 「田中、なんというんだ?」 「タナカトーマデス」 「そう、だよな。ごめん、忘れてくれ」 俺が初恋の相手ではなく、田中とうまだとわかった今、失恋眼鏡は、顔を赤くして、三歩下がった。 「オレ、モウ、イカナキャ」 「俺は、東雲(しののめ)桐羽(きりは)だ。もう掴んだりしない。悪かったな」 「イーヨ。サヨナラ」 俺は、別れの言葉を述べて駆けだした。 走る。走る。 何人かの生徒に見られた。関係ない。 山本くんたちがいる教室へと駆け込んだ。 東雲桐羽の初恋の相手、俺だ。 「カ〜〜〜ット!!」 監督の大きな声で、俺は我に返った。 やば、怒られる! 「ちがうんです!事故が!事故が起きたんです!」 「塩谷くん、君!!!いいじゃん!いいじゃん!!走ってくるの、全然アリだね!最高だね!はい!いただきました!OKです!映画はね、こういう、予定しなかった出来事が、事故が、『その瞬間』を作り出すんだよ〜!さいっこーだよ、きみぃ」 監督に肩を組まれて、横に揺さぶられる。 「表情も良かったよ〜〜!君、役者に向いてるんじゃない?」 「本当だよ、塩谷くん!緊張感あって、最高だったよ!!天才だよ!」 山本くんも駆け寄ってきて、俺の両手を掴んだ。 「え、そ、そんな、あれは、何も考えてなかったっていうか」 「計算しないで、アレをやったのか!?やはり君は天才だ……。いや、神、なのか!?そーなんだろー!え?神様なんとか言えって!」 監督の脳内に、なにやら何やらものすごくハイになる物質がドバドバでているらしい。複雑だが、生まれてはじめて他人からこんなに褒められた。たぶん一生分ぐらい。俺、俳優になろうかな。 「ぶっ!!!はははははは!!!!やー、やばいっしょ!まといちゃん、それ、ヒィッ、全然似合ってねぇ!やばっ!ウケる!!金髪!!にっ、ひひっ、にあわねー!!!ははは!似合ってないのに!!可愛すぎ!!腹いてえ!ぶっ、はは」 開けっ放しのドアの向こう側、廊下で、早川ヒカルが笑い転げていた。 俺は監督と山本くんの手から逃れると、自分が開けたドアの前まで行き、無言で早川を見下ろして、ドアを閉めた。鍵もかける。 「さぁ、監督!みんな!次のカットの撮影に参りましょう!山本くん、がんばろうね!」 山本くんは、しどろもどろしながら頷いた。 ーーピンポーン 深夜になるチャイムほど、碌なもんはない。宅配では絶対にないし。変な男が入ってくるに50万賭ける。50万も持ってないけど。もちろん、同室の南雲が出てくるはずもなく、廊下にいる奴の事は放置だ。 ーーピンポーン もういちど、チャイムがなった。 気にするな。変な男に決まってる。でも、もし違う人だったら……。例えば、映画研究会の人。連絡先知らないから、ここに訪ねてくるしかないし。早朝の撮影があったとしたら。 ーーピンポーン 三度目のチャイムが鳴って、俺は完全に迷った。早川なら、こんないかにもあやしい方法で部屋を訪ねて来るだろうか。 俺は右手にフライパンを持って、ドアを開けた。 開いた口がふさがらない。ドアの前に立っていたのは、美少女だった。 フライパンを落とす。 「だからさー、何度も言うけど、そんなに簡単にドアを開けたらダメだよー。変な男が入ってきちゃうから」 大きな美少女、じゃなくて、早川ヒカルだ。ていうか、信じられない。俺は早川だとわかったのに、すぐに抵抗できなかった。玄関先でまた押し倒された。 「あれ、抵抗しないの?俺だよ?早川ヒカルだよ。可愛すぎてわかんない?」 「わ、わかってるよ!くそ、どけ!!」 「あれれー、そんな抵抗じゃあ、玄関先がまといちゃんのはじめての場所になってしまいますよ〜?」 抵抗しなきゃとわかっているのに、身体が鈍い。力が入りにくい。くそ、こんな、女装野郎に!てか、これ、俺が着てたやつ!ヅラも!!くっそ〜、こんな変態に……! 「は、やめ、くび、なめんな。はぁ、ん」 ブロンドの毛先が、顔や首、鎖骨を掠める。なんだこれ。俺の視界に飛び込んできたもの。 セーラー服の女の子が俺の上で。 ちがう!これは、男だ!早川だ! 「はは、まといちゃん、女の子に押し倒されて、興奮してる」 「し、してない!やめろ!ぬがすな!」 スウェットを捲られて、上半身が露わになる。俺はどうにか逃げようと腕を動かそうとするが、俺の両手は早川の片手一本に押さえ込まれていた。 「本気出さなきゃ、マジで、ね?」 「ひゃ、え、や、乳首、やめて」 早川が、俺の乳首を舌先で弄ぶ。江藤に触られてもくすぐったいだけだったそこも、今日は気持ち良い。気持ちよすぎて、首をふる。 「ねぇ、まといちゃん、勃ってる」 早川の手が、俺の股間を優しく抑えた。 「た、たってない!」 「完勃ちだよ。気持ち良いんだ。女の子にされてるから?可愛い。でもね、俺、男なんだ」 早川が、俺の片手を掴んで、スカートの中に持っていった。 「さわって」 「いやだ」 俺は解放されたもう一方の手で、早川を押し返そうとするも、どんどん力が抜けていく。だって早川の手が、俺のいっちゃん気持ち良いところをずっと、触ってくるからだ。 「気持ちいい?」 「はや、か、やめっあっ、やだ、やだ」 「じゃあ、触って」 「さわる、さわるからっ、んん」 スカートの中の、凶悪なそれに触れて驚いた。 最悪だ。 「ノーパン」 「ちゃんと、触って」 俺の大事なところを人質にとられているため、俺は言われた通りゆっくりと、早川のモノを掴んだ。 「ん、良い子。かわいい、まといちゃん、かわいいよ。かわいかったけど、俺の方が似合ってるね」 「うあ、はなすって、やめっ、こする、の」 「俺、はなすって言ってないよ。いかせて。俺をいかせたら、終わるから」 こわいからか、情けないからか、気持ち良いからか、涙が止まらなかった。俺は手を動かした。 「気持ちいいよ、まといちゃん。最高。最高!ね、大丈夫!はじめては、ちゃんと、海の、見える、スイート、ルームでね」 いつのまにか、早川の手は俺のパンツの中に潜り込んでいた。完全にアウトだ。はじめての感覚に、初めての快感に、なんかもう、ぶっ飛びそう。 「ヒカ、る、感じ、ちゃ、俺、だめ」 魔法の言葉も通用しない。早川は手を止めることはなかった。 「いいね、いいね!感じちゃうんだね!感じて、いいんだよ、俺もすっげぇ、感じてる。ヒカルって、呼びなよ、いつも」 「はや、かわ…もう、や、だ、やだよお」 「イク?いって。みせて。ヒカルって」 「や、おねがい、やだ、やだ」 「まといちゃん、まとい、ほら、いって」 「ぁ、ひか、あ、あ、ひっ、あぁぁあんっっ」 「えっろ!はぁ、くっ、う、あぁ」 その絶頂はまるで夢みたいに気持ちよくて。 悪夢みたいに最悪で。 「………ていう夢を見たんだ」 洗ったばかりの髪をタオルで拭き取る全裸の早川に、昨夜見た夢の概要を伝える。いや、ほんと、夢でよかったよ。やけにリアルな夢だったけど、夢でよかった。夢!全部夢! 「夢じゃないよ」 「夢だよな?」 「夢じゃないよ、まといちゃん。いやぁ、女装した男にちんこいじられていっちゃう系男子、もう、やばいね。俺とうぶんそれでイケる」 「うわあああやめろ、死ね!お前は死ね!!!」 俺は早川の丸出しのケツを、フライパンで思いっきり叩いた。このフライパンは捨てる。 弱った早川を引っ張る。勝手に風呂入ってんじゃねーよ。 「いってぇ、でも、いい、いいよ。もっと殴っても。そういうプレイがお好みなら、俺は耐えるよ!」 「キッモ!きえろ!今すぐ地球の裏側へ行ってくれ」 「そんなに怒んないでよ。抜き合いっこなんかさ、誰だってやってるよ。ちゅーこーせいは!」 「やってねーだろ……もう、俺はダメだ」 「まといちゃん……俺、責任とって、最後までシテあげるからね」 「死ね」 全裸の早川を、廊下に放り出した。 そうだ。江藤に頼もう。 俺の記憶を消してくれ!

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