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第1章

(ふふふん。今日も自習頑張ろっと)  シャムスは(ワシ)人族らしく発達した足の爪と大きな翼を畳み、透かし窓の隙間を抜けた。白大理石の王宮壁面を飛び立つ。 「ごきげんよう、シャムス殿下。本日の予定は、演説術の講義の前に……ほや?」  曾祖父の代から王太子の教育係を務めるルシュディーの目を欺くのは簡単だ。鸚鵡(オウム)人族の彼は眉がふさふさと長く、視界を覆ってしまうほどなのだ。  おかげで三日に一回は中階の執務室を抜け出し、座学ではなく実技に励んでいる。  初夏の陽射しに照らされた、質素な回廊に降り立つ。金茶色の短髪を弾ませて駆け出した。 「シャムス、遅いである」  背の高いオリーブの木で区切られた中庭には、いつもの面子が集まっている。  どっしりとした犀鳥(サイチョウ)人族の彼は、非番の下士官。  眼鏡の紐を頭に結びつけた(ガン)人族の彼は、巡回診療の昼休憩中。  金糸雀(カナリア)人族と(スズメ)人族の混族の彼は、食糧から武器まで扱う商隊の一員だ。  高地に拡がるナスラーン王国では、他にもあらゆる種族の鳥人が共生する。  シャムスは王太子だが、堅苦しい「殿下」はつけるなと言い渡してある。みな歳が近いこともあり、受け入れてくれた。  彼らの輪に加わると、もともと上がっている口角がさらに上がる。 「ごめんって。準備運動はできてるからさ」  濃赤の長衣を脱ぎ、白い絹の下衣(トゥニカ)一枚になった。膝上丈で足さばきを妨げないし、袖がなく脇や首から風が通って気持ちいい。  仕上げにつま先の開いた編み上げ靴の紐をきゅっと結び直し、不敵な笑みを浮かべる。 「シャムスチームの連勝を五に伸ばすぞ」  最近熱中しているのは――空蹴球(フットサル)である。五人ずつに分かれ、向かい合わせで陣形(フォーメーション)を組む。試合開始とともに一斉に飛び上がった。  走るより速く、身長の何倍も高く飛ぶことができるシャムスは、司令塔だ。 「前線、真ん中に張って」  よく通る声で指示を出す。中央を崩すと見せて、左後ろから羽ばたいてきた味方に球を預ける。相手の視線が左を向いた隙に、右サイドの敵陣深くに旋回する。  空を切って球が返ってきた。シャムスの前には、宮下の街並みが開けている。 「()てっ!」  ゴールに見立てた二本の木の間目掛けて、足を振り抜く。ボンッといい音がしたが、球は高く跳ねた。ふかしてしまったのだ。  完璧な流れだったのに。「くそー」と悔しがりつつ着地して、回廊に落ちた球を拾いにいく。  いつから観戦していたのか、円柱の陰にちょうど鳥人(ひと)がいた。 「おーい、球こっちに蹴って、……」  シャムスは、その青年に思わず見惚れた。  銀に数束黒の混じった、肩甲骨に届く長髪を後ろで括っている。シャムスより頭ひとつ分、目線が高い。背には髪と逆で黒に銀が混じった羽が畳まれ、黒を基調とした軍服に映える。鷹人族とみた。  怜悧な面差しと澄んだ碧眼は、ともすると粗野に見える逆三角形の体躯を上品に中和していた。日焼け肌のシャムスと対照的に、色素が薄い。毛並みはなめらかに整えられている。 (すっごくかっこいい)  文句なしの美雄(びなん)だ。シャムスだけでなく居合わせた全員が目を向けている。 「殿下。ルシュディー殿がお探しです」  凛とした声で我に返った。見ない顔だと思ったら、ルシュディーの手先か。  両手を頭の後ろで組み、「さっき会ったけどなあ」としらを切る。すると長身の青年は視線を中庭へ向けた。 「きみたちは、殿下が講義を受ける時間だと知らないはずはあるまい。かくなる上は」  頬を染めていた遊び仲間が一転、縮み上がる。シャムスは反射的に立ちはだかった。 「待ってよ。オレがみんなを集めたんだ。執務室を抜け出したのだってオレだし、こいつらに言いがかりつけるな」  青年は、シャムスが金茶色の羽をめいっぱい――両腕の二倍の幅に広げるのをじっと見下ろしたのち、息を吐く。 「殿下に免じて不問としましょう。執務室に戻りますよ」  シャムスも彼のかっこよさに免じて、後をついていく。心配そうな顔の仲間たちがこれ以上気に病まないよう、親指を立ててみせた。 「わっ。なに?」  角をひとつ曲がるや、青年が振り返る。  真顔でも、見れば見るほどかっこいい。小さく口を開けていたら、いつの間にか回収したらしい濃赤の長衣を、ずぼっと着せかけられた。背部の切れ込みに翼を通せず窮屈だ。 「目に毒ですので」  汗だくで見苦しいと言いたいのか……? 青年のほうは長袖の軍服でも涼しい顔だ。  執務室では、ルシュディーが床の蔓草模様に沿って歩き回っていた。シャムスと青年に気づき、安堵したように両手を擦り合わせる。 「かたじけない。爺の翼では殿下にとても追いつけぬゆえ」 「世話役として当然のことをしたまでです」  シャムスはぴくりと羽根をもたげた。 「……世話役?」  青年が向き直り、慇懃無礼に会釈する。 「改めまして。国軍少将、サーディクと申します。国王陛下より特命を賜りました」 「おまえが、サーディク!?」  ――昨夜のこと。 「『いい仔』だ、余の可愛いシャムス」  父王にご褒美の言葉をもらい、シャムスは肩甲骨の翼の付け根を震わせた。  褒められて悦ぶ[サブミッシブ(Sub)]だから。でも――。 「可愛いはやめてよ。オレ、この夏で十八になったんだよ」  [Hug(ハグ)]のコマンドに従い、父の焦茶色の羽にもふりと埋もれたまま、言い張る。  確かに鷲人族の雄としては小柄だが、手と足は大きめだ。数年後には、尊敬する父のように立派な体格になると信じている。つぶらな琥珀色の瞳も、目じりはきゅっと上がっている。上唇の山がくっきりしていつも笑っているみたいな口もとだって、わざとじゃない。 「ふはは、気をつけよう。いや、気をつけるよう言っておこう」 「言っておくって、誰に?」  シャムスがきょとんと首を傾げると、父は急に真面目な顔をした。 「次代の王として、成年を機に余以外の者と[プレイ(Prey)]し、コマンドに対抗する力をつけよ。そして、最愛の結婚相手を見つけるのだ」  次代の王――。寝室の円窓から草と砂の匂いを乗せた風が吹き込み、シャムスの短髪を撫でていく。王位継承も結婚も、まだまだ先のことだと思っていた。  でも、王太子の務めはしっかり果たしたい。王になるための講義を抜け出すのも考えがあってのことだ。  温暖で肥沃なこの国は、鷲人族のナスラーン家が長く治めてきた。  父含め歴代の王は全員[ドミナント(Dom)]である。  鳥人は、かつて大空を飛翔していた頃の名残で、[ドミナント][サブミッシブ][ニュートラル]という、雌雄とは別の(ダイナミクス)を持つ。  鷲人族のようにもともと肉食だった種族はドミナント、草食・虫食種族はサブミッシブ、雑食種族はニュートラルが多い。混族は両親のダイナミクスの組み合わせに依る。  ただし現在はドミナントといえど他の種族を捕食(Prey)したりしない。代わりに言葉の[コマンド]を使い、サブミッシブの生殺与奪を疑似的に支配すると、本能が満たされる。  対照的にサブミッシブは支配されると満たされる。祖先は食べられる刹那、自身の生を肯定するためか、捕食者に対する畏怖や敬愛の感情が湧いたらしい。  異例のサブミッシブであるシャムスが、父たちのように国を導くには、他のドミナントのコマンドをはね返す力、支配に屈しない力が必須と言えた。  父が思案顏で続ける。 「それと、療養中だったブーム家当主が退き、ライルが新たな当主となった。あやつからは以前より国境視察の要請があり、余は王宮を空けることも増えよう」  (フクロウ)人族のブーム家は、国境沿いの森に居を構える。ドミナントが多く、王家の右翼(みぎうで)として国政に関わってきた。  ただ、シャムスの十歳上のライルは、食糧確保のために、低地の獣人国や水辺の魚人国にも勢力を広げるべきだと主張しているとか。  ナスラーン家は、他国を攻めないことで攻め込まれない、平穏を優先している。  どちらも一理ある。いずれはシャムスも王として、ライルと渡り合わなければならない。  さらに父が不在がちとなれば、[サブドロップ]を防ぐべく、他の誰かとプレイする必要があった。 「ん、わかった。いつまでも父上に甘えてちゃ、一人前の雄になれないもんな」  天蓋付き寝台の真ん中で両腕を突き上げて意気込む。たちまち父が破顔した。 「シャムスならそう言うと思ったぞ。手はじめに、口の堅いドミナントを世話役に選んである。サーディクという名の将官だ。よく励め」  一息に言って立ち上がり、濃赤の長衣を翻す。愛する母の待つ自室に早く帰りたそうだ。 「もう相手決まってるの……? サーディク、って」  シャムスは目をぱちぱちさせて見送った。コマンドに抗う訓練とはいえ、できれば親しいドミナントがよかったのだが。 (まあ、オレのダイナミクスはみんなには秘密だから、自分で探したりはできないか)  流れ星か、夜空がきらりと煌いた。  寝台から降りて窓に歩み寄る。シャムスの寝室は王宮最上部に位置し、中庭や回廊、煉瓦造りの宮壁、そして第二の玄関である露台(バルコニー)を備えた民家まで一望できた。小さな窓ひとつひとつに、ナスラーン家を慕う鳥人たちが暮らしている。  シャムスの言葉も、彼らの心に響くだろうか。  ニュートラルもサブミッシブの因子を少量持っている。コマンドでなくとも演説や号令をドミナントが行えば、みな従う。ゆえに数少ないドミナントの種族が玉座に就いてきた。 (オレがサブミッシブなのは、変えられない。言動は変えられる。尊敬される鳥人(にんげん)になればいいんだ。ドミナントみたいにコマンドに対抗してみせて、結婚もして……)  そこで、むむむ、と腕組みする。シャムスはドミナントの仔を授かる確率を上げるため、ドミナントの雌性(じょせい)を正妃に迎えることが求められる。だが――。 (オレの憧れのドミナントは、(おとこ)なんだよな)  八年前、シャムスと母を助けてくれた強く優しい青年に、思いを馳せる。 『よく頑張りました。母君を安全な場所へお連れしなさい。それまできみを守り抜こう』  母と、「国王陛下には内緒ですよ」とお忍びの冒険に出たときのこと。  シウ(・・)車は使わず宮下街を抜け峠を越え、北の森をなおも進んだ。シャムスは翼も足も疲れていたけれど、手をつなぐ母の横顔が何だか切実で、「帰ろうよ」とは言わないと決めた。  そこに、音もなく風が起こって。『[Kneel(跪け)]』と、いきなりコマンドを使われた。  母がふらりと膝を突く。陽除けの披巾(ショール)から覗く美しい顔が、恐怖に染まる。  食べられるに等しい支配は、本能的な恐怖も伴う。よって、[パートナー]以外がコマンドを乱発するのは許されない。  瑠璃色の長衣姿の雄たちが、水際に下りてきた。にやにやと厭らしい笑みを浮かべている。披巾のせいで母が王妃とわからないのか。  シャムスは、長衣の下の[カラー]を触るのが精一杯な母の前に、(まろ)び出た。 『母上に、ちかづくな』  小さな羽をめいっぱい広げ、目に涙を溜めながらも成年(おとな)の雄を睨み上げる。 『へえ? 仔鳥が威嚇するか』  雄のひとりが片側だけ口角を上げて笑い、シャムスの喉笛に足の爪を伸ばしてきた。  怖い。逃げるものか。誰か――。  へたり込む直前、なめらかな羽先がシャムスの頬を撫でた。まるで労うかのように。 『サブミッシブをみだりに支配するなっ』  偶然通り掛かったらしい長身の青年がふたり、立ちはだかってくれたのだ。  不敬な雄たちと蹴り合いになる。相手のほうが数が多く、シャムスも加勢したかった。でも母を守らねばならない。結局「母君を安全な場所へ」という助言に頷いて、飛び立った。 (頑張ったよ、オレ、頑張った……)  地に降りては飛び上がりを繰り返し、何とか王宮に帰り着くと、サブミッシブの性質が表れ始めていたシャムスは[サブドロップ]で寝込んだ。  そのせいで恩人の姿や声はぼんやりとしか憶えておらず、御礼もできずじまいだ。  ただひとつ、彼らみたいに大事な鳥人(ひと)を守れる(おとこ)になりたい、という憧れを抱え続けている。 (いつかまた会いたいな。オレのパートナーになってくれたりしないかな)  母の要望で、この事件もシャムスのダイナミクスも公には伏せてきた。でも、コマンドに対抗できる力がつけば、また襲われる心配もなく、憧れのドミナントを探せるはずだ。  まずは、世話役のコマンドをはね返すのが第一飛(いっぽ)だ。 (サーディクか。望むところだ!) 「おまえが、サーディク!?」  シャムスはつぶらな瞳を耀かせ、サーディクを見つめた。 「私ではご不満ですか」 「ぴぃ、」  反対だよ、と言いたかったものの、正面から視線を返されて頬が熱くなる。無表情にして破壊力が絶大だ。  彼が、シャムスがコマンドに対抗する力をつけるために選ばれた、ドミナント。 「予定どおり顔合わせできましたな。あとは若いお二方で歓談でも……ふぉふぉ」  両親以外で唯一シャムスのダイナミクスを知るルシュディーが、気を利かせたのかおもしろがっているのか、笑い声を残して退がった。  ふたりきりになる。いざ引き合わされると、どう振る舞っていいかわからない。  今まで仲間と遊ぶほうが楽しくて、親密な関係になった相手はいない。悪友と連れ立って美雌(びじょ)と評判の踊り手を見物に行っても、ピンとこなかった。 (なのに、サーディクはかっこよすぎて、何言われても聞いちゃいそうだよ)  中庭ではちょっと厭味っぽかったけれど、見た目と佇まいはすごく好みだ。  王になるため、そして憧れのドミナントを探すため、サブミッシブの本能に抗ってみせるという気概だったのが、手強い相手が現れた。  胸の高鳴りを紛らわせようと、執務椅子にぼふんと腰を下ろす。  サーディクは直立不動だ。下士官とは空蹴球する仲だが、少将階級とは接点がない。彼には大笑いする瞬間や、熱中するものはあるのか。  いったいどんな(おとこ)だろうと好奇心に駆られ、ぽわぽわした羽先が揺れる。  とりあえず「座れば?」と促すと、サーディクは窓際の籠型椅子に腰掛けた。  立っても座っても姿勢がいい。でも遠い。執務机の目の前にも椅子があるのに……コマンドに対抗させるため、あえて反感を持たせるようとしているのか?  口が堅いと父が評したとおり、顔合わせにもかかわらず、世間話もしない。シャムスは堪えきれず切り出した。 「サーディクって、何歳?」 「殿下の七つ上です」  二十五歳か。オトナだ。 「今、パートナーはいるの?」 「いたら世話役を引き受けません」  冷ややかに返される。それでもシャムスはめげない。むしろ「よし」と足の爪を握り込む。  サーディクに特定の相手がいないなら、コマンドに抗う訓練相手に留まらず、パートナー候補にもなり得る。  実際、曾祖父――先々代の王は、パートナーとして同性のサブミッシブを娶っていた。  シャムスたちは、パートナーを持ち、コマンドを使ったプレイを行わないわけにいかない。  怠ると、サブミッシブは[サブドロップ]で自傷してしまう。ドミナントも[ラプター]という猛禽性の暴走が起こり、日常に支障をきたすのだ。 (って、まだ憧れのドミナントと再会してないだろ。先走るな)  シャムスは逸る気持ちを抑えるべく深呼吸した。これもサーディクがかっこよ過ぎるせいだ。うん。 「最近、何が好き?」 「何も。私は趣味も友もない、仕事鳥人(にんげん)です」 「何もって、ひとつもなくはないでしょ」 「ありません。私には、何かを愛する資格はないのです」  否定は不思議なほどくっきり聞こえた。どうしてそんな哀しいことを言うのだろうと、本人以上にシャムスの胸が軋む。ぺしゃんと執務机に突っ伏した。  さすがのサーディクも気遣ったのか否か、 「殿下は、」  と口を開く。例外としてシャムスに興味を持ってくれたらしい。机から身を乗り出す。 「変わりませんね」  だが続いたのは独り言めいた呟きで、拍子抜けした。  変わらないとはどういう意味だろう。まさか「王太子はサブミッシブだ」と以前から見抜いていたとか? それは困る。いや、そうと決まったわけではない……。  シャムスが頭を悩ませる間に、サーディクは日時計を見て立ち上がった。 「午後より軍の飛行演習がありますので、そろそろ失礼します」 「え、あ、うん」  シャムスはしゅんと肩を落とした。コマンドに抗うのが目的とはいえ、プレイは信頼の下に成り立つ。ちょっとは打ち解けてくれてもいいのに。 「王命は果たしますゆえ。夜にまたプレイに伺います」  最後の一言は声の手触りが違い、心臓が跳ねる。  サーディクのなめらかな羽が扉の向こうに消えるのを見届けたのち、シャムスは「ぴいぃーっ!」と叫んだ。  何でもない一言に、こんなにも左右されてしまう。ままならない。 (サーディクは訓練相手、だけど気になって仕方ないよ)  長身の(おとこ)なのがよくない。憧れのドミナントと重ねてしまう。  そうでなくとも訓練と割り切れないのは、シャムスにとってプレイと結婚が同じ線上にあるせいかもしれない。  歴代の王は、ドミナントの正妃とサブミッシブの側妃(パートナー)を娶っている。ドミナントの仔を授かる、ラプターを回避するという役割がそれぞれある。パートナーとは[カラー]を授受して、結婚と同様の関係を結ぶ。  一方、父は、同じ鷲人族にしてサブミッシブの母を一途に愛し、パートナーかつ正妃とした。読書好きの母のため、外遊に出たら必ず各地の伝承集を土産に持ち帰っている。 『余の妻の喜ぶ姿は、世界でいちばん美しいと思わんか?』  シャムスに惚気るくらい仲睦まじい両親に、憧れている。シャムスも、パートナーも結婚相手も同じひとりを愛せたら、と思うのだ。  コマンドは性的な意図を持つものも少なくない。食欲と性欲は紙一重だから。  つまりプレイを行う中で、特別な感情が生まれてもおかしくない。 (こんな気持ちでプレイして大丈夫か? 抗わなきゃなのに、甘えたいし、褒められたい)  恐怖と表裏一体のコマンドを実行できたら、褒めてもらえる。信頼する者同士のプレイは、甘いものになる。  しかしサーディクのほうは、ただ王命としてシャムスに関わっている様子だ。  訓練とサブドロップ防止以上の関係を期待しても、不毛なだけ。そう自分に言い聞かせる。  午後の講義で使う書物を本棚の上段から取っておこう。……サーディクは背が高かった。  そう言えば昼食を食べ損ねた。……サーディクの好物はなんだろう。  空蹴球で身体が熱いままだし、さっと汗を流すか。 「……今夜の入浴剤は、蜂蜜の匂いのやつにしよっかな」  自戒と裏腹に、午後になってもサーディクの再訪予告が耳から消えず、ルシュディーの講義は上の空だった。  円窓の外には十六夜月。寝室のアーチ型の扉越しに、サーディクの声が聞こえた。 「殿下。準備はよろしいですか」  予告どおり、プレイを行うのだ。  いつもの三倍時間をかけて湯浴みしたし、寝間着である下衣の腰紐も固結びにはなっていない。胡坐の下の敷布は洗い立て。準備万端、だよな? 「うん。入って」  長身の影がすべり込んできた。燭台の灯りに、黒銀の翼と端正な顔が浮かび上がる。  はぁ、と感嘆の溜め息が漏れた。「こんな成年の雄になりたい」という理想そのものな造形だ。軍服ではなく白色の私服なのも、彼の洗練された雰囲気を際立たせている。  ただ、生温い風で蝋燭の火がちらつく度に、翳りめいたものも見え隠れするような――。  溜め息の余韻で口を開けたまま見つめていたら、サーディクが天蓋の紗幕を捲った。 「甘い香りがしますね」 「さっき、湯浴みした、んだ」  間近に見る碧眼の温度が昼間と違って感じられ、口ごもる。 「……。そうですか」  サーディクはふいっと目を逸らした。蜂蜜の催淫効果、なし。 (訓練なのはわかってるけどさ)  サーディクが長衣の裾をさばき、寝台に腰掛けた。父の所作とそう変わらないのに、ひどくそわそわする。  ダイナミクスの性質が表れた仔どもは、家族や親しい別種族の隣人と、[Hug][Kick(鉤爪握手)]など健全なコマンドのみ使い、プレイに慣れていく。  シャムスの場合、はじめて制限なしのプレイをする相手が、一目惚れした鳥人(ひと)になった。  手を伸ばせば触れる距離にある、サーディクの横顔を観察する。「オレがサブミッシブだって聞いてどう思った?」と、喉まで出かかる。  両親にたっぷり愛されたおかげで、自分のダイナミクスを変えたいと願ったことはない。王太子としての障壁も、必ず乗り越えてみせるつもりだ。  それが今、はじめて他人にどう思われるか気になる。もっと言うと、認められたい。 (そのためには、コマンドに抗う? 逆に応えてみせたほうが「いいサブだ」って思われるんじゃないか?)  サーディクはそんなシャムスの逡巡を知る由もなく、「始めましょう」と静かに言った。 「うん。オレ、かっこいい王になりたいから、よろしくね」  ぎくしゃく頷く。彼がシャムスに何の感情も抱いていなくとも、世話役なのは変わらない。 「まず、[セーフワード]を決めてください」  プレイはひとつ間違えれば、サブミッシブの心身に過度の負担が掛かる。捕食でなくコミュニケーションである以上、サブミッシブからの合図の言葉(セーフワード)で以って中止する。  ルールに則ってプレイできるのが、鳥人と猛禽の違いであり、進化の証だ。  特に信頼の厚いパートナー同士だと、セーフワードは絶対的な強制力を持つとか。父もよく母の鉤爪に敷かれている。シャムスは顎に手を当て、悪戯っぽく言う。 「うーん。短くて言いやすいけど普段は使わない言葉ってなると、『死んじゃえ』とか?」 「御意」  冗談が通じなかった。サーディクはシャムスを叱りもせず、指定を受け入れる。事務作業という感じで、またも距離を感じる。 (サーディクにとって、オレとのプレイは何でもないことなのかな?)  期待し過ぎるなと頭の中で五回繰り返し、サーディクを見据えた。いつでも来い。 「では、[Kneel(おすわり)]」  はじめての、家族以外からのコマンド。冷たい声なのに、どこか心地いい。  もぞもぞと、足の爪を隠す座り方に変えた。顎も持ち上げる。喉笛を晒す姿勢だ。  父とのプレイなら、このあと顎下の気持ちいいところを撫でてもらえる。  でも今は、喉を掴まれたら逃れられないという本能的な恐怖が上回り、ごくりと唾を呑む。 「……殿下。少しは抗ってください」  サーディクに指摘され、はっとした。コマンドに従うのではなく抗う訓練だった。  サーディクは期せずして本能が充足してばつが悪いのか、視線を彷徨わせている。 「ごめんごめん。オレ、支配されるより褒められるのが好きだから、もっと高圧的にしてくれたら抗いたくなると思う」  シャムスも未知の気持ちよさをやり過ごし、注文をつけた。 「……。[Roll(腹を見せろ)]」  サーディクは半信半疑の様子ながらも、さらに冷たい声と顏で次のコマンドを放つ。 ([Kneel]ができたご褒美はないんだ。いや、ふつうのプレイじゃないんだってば)  シャムスは気を取り直して、白大理石の床を見た。[Roll]はドミナントの足下で行う。  深呼吸して、耐える。なおも耐える。――耐えきった。  ちゃんと抗ったのを褒めてほしくて、サーディクの顔を見やる。それが間違いだった。 「あ、あれ?」  いつの間にか、白い敷布にころりと寝そべっていた。それも頭をサーディクの腿に載せて。  また抵抗失敗だ。居たたまれず羽で顔を覆う。  サーディクからも叱責が飛んでくると思いきや――無防備な腹に、指先が触れた。  両親との抱擁とも、空蹴球で得点して仲間と抱き合うのとも、違う。でも嫌悪感はない。むしろもう少し触ってくれてもいい。  願望を口に出していないのに、ゆっくりと掌全体が腹に載った。毛繕いみたいに撫でられる。 「ふ、ぅん」  つい甘えるような声が出た。触り方がじれったい。下衣が邪魔にすら感じる。いっそ[Strip(脱げ)]と言ってほしい。  パートナーとのプレイでは、こんなふうに欲が溢れるらしい。 (まだパートナーじゃないけど。サーディクってば、出し抜けにどうしたんだろ。プレイして、オレが気になってきたとか?)  ちらりと羽先を持ち上げれば、サーディクはもう片方の手で口もとを覆った。  もしや笑ったのか? 七つ歳上ならプレイ経験も豊富に違いない。何だかおもしろくなくて、片翼を伸ばして閉じ込めてやる。  蜂蜜の匂いのする金茶色の羽の中で、目が合う。  サーディクの碧眼に、決意と、疑念と、何かの企みと、躊躇いと、シャムスへの苛立ちと慈しみが、一緒くたに浮かんで見える。  しかし瞬きひとつですべて消え去った。かと思うと、低く囁いてくる。 「目的を失念するところでした。[Kiss(味見させろ)]」  ついに、性的な意図を持つコマンドが来た。これに抗えなければ、知らない雄に屈辱を味わわされ兼ねない。 (唇を差し出さない……、ちょっとしたい……)  やはり慣れない。サーディクが「美味そう」とばかりにシャムスの唇を見つめている気がして、揺らぐ。 (されてもだめ……)  自分の内から欲が溢れるのはもちろん、成年(おとな)の欲のこもった視線を浴びるのもはじめてだ。サーディクの色気に中てられる。 「殿下、[Kiss]を」  コマンドを繰り返された。  はね返さないといけないのに、自分の心臓の音が煩い。足先が痺れる。 (ぴぃ……身体に、力が、入らな……)  サーディクの整った顔が、ぐにゃりと歪んだ。いや、変なのはシャムスの視界のほうだ。声が出ない。あれだけやかましかった心音も、聞こえない。呼吸が浅く、遅くなる。  まさか――サブドロップ?  プレイ不足と反対に、意に染まないプレイが行われた場合も、サブドロップに陥る。  後者が原因だと虚脱状態になる。猛禽のほとんどは屍肉を漁らない。その古い記憶を使ってドミナントを遠ざけようとする、防衛反応だ。 (なんで……まだ、訓練できる……。オレ、もっと頑張れる、のに……)  ちゃんと抗える。味見してほしい。気持ちと身体がばらばらで、口惜しい。  サーディクはすぐシャムスの異変を察知した。 「殿下? シャムス殿下! 本日の訓練は終わりとします」  膝に抱え上げられる。はじめて名前を呼んでくれた。腕と羽で二重に抱き締められる。羽先で頬も撫でられ、感覚が少しずつ戻ってくる。 (あれ……?)  サブドロップからの快復には、信頼するドミナントの[ケア]がどんな薬より効く。 (さっきまでの、サーディクと違う)  やっぱり甘やかされ褒められるのがいい、と思う。でも、サーディク以外のドミナントと相対するために、サーディクのコマンドに抗わないといけない……。 (好きなのに、嫌いって言うみたいで、やだな)  せめて今は、サーディクの体温を感じたい。抱き締め返すも、まだ手をうまく動かせず、指が盛大に髪紐に引っ掛かった。  ほどけた銀髪がさらさらと流れる。こめかみの生え際に、小指ほどの傷痕が覗いた。  どうしてこんな傷が?  シャムスはかすかに首を傾げた。当のサーディクは意に介さず――というか他のことに気を取られている様子で、 「……初回にしては充分頑張られました」  シャムスの下衣の切れ込みに指を差し入れ、翼の付け根を撫でてきた。  自分では触れない箇所だ。得も言われぬ感覚が生まれ、身体がとろける。労いの言葉まで掛けられ、不安が癒えていく。 (コマンドに抗う訓練、失敗しちゃったけど、まだがっかりされてない、かな?)  サーディクによく思われたい。もっと言うと、特別に好かれたい。 「ありがと。これに懲りないで、世話役続けてくれる?」 「生半可な気持ちで世話役を賜ってはいません。他の者には譲りません」  淡々とした口調ながら、前向きな返答だ。シャムスの羽先が喜びに揺れ、そよ風を起こす。思いきって尋ねてみる。 「それって王命だから? それともオレが相手だから?」 「……殿下に努力する気がある限りはという意味です。王を目指すなら、補翼します」  こちらは答えになっているようで、なっていない。まあ現時点では、頑張り屋だと思ってもらえているだけでよしとしよう。  サーディクが臣下然とした声と表情に戻ろうと、伝わってくるものはある。いちばんは、シャムスがだいぶ快復しても、「膝から下りろ」とは言わない。 (かっこいいのは見た目だけじゃない。訓練のために冷たくしてるけど、ほんとは優しい感じがする。憧れのドミナントと同じくらい)  いやでも期待してしまう。サーディクの腕は頼もしく、羽の感触は心地いい。こんなふうにシャムスを甘やかせるドミナントに、ずっと会いたかった。 (雌の正妃と生殖しなきゃだけど、それは後で考えよう。まずコマンドに抗えなきゃ王位を継げないし。正妃より先にパートナーをつくってもいい、よな? ひとりだけ愛するって憧れも……後で!)  シャムスのダイナミクスを知らないドミナントには、やすやす好意を伝えられない。  でも、サーディクなら振り向かせる方法があるはず。好みの相手に、秘密を共有した状態で出会えたからにはと、考えをめぐらせる。 「じゃあさ、次の訓練は段階を上げよう。中庭に集合だ」  サーディクの羽に埋もれたまま、提案した。 「……球蹴り遊びですか」 「ふふふん。抗う前提だって、プレイには信頼が必要だよ。じゃないとまたサブドロップになっちゃう」 「そうと言わなくもないですが」  サーディクは事務的関係であるべきと言いたげな顏だが、王命を盾に押し切る。  訓練では抗う。訓練以外では甘える。ひそかに両立して、世話役兼パートナーになってもらおうという作戦だ。  プレイを重ねるうち、好きになってもらえるかもしれない。 「善処します」 「約束だよ」  上目遣いに見上げる。サーディクはシャムスの頭越しに夜空を見据えていた。  めずらしく二夜連続で、流れ星が光った。

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