4 / 7

第4章

 緩慢に瞼を持ち上げる。  ここは王宮一階端の倉庫だ。裏庭に面した小さな格子窓から、夕陽が射し込む。半ばサブドロップで気を失っていたらしい。  倉庫といっても、シャムスの寝室くらいの広さしかない。式典の道具や冬に蒔く穀類の種などが入った木箱の間に、十数人が詰め込まれている。空気はどんよりと重い。  昨夜王宮にいたうち、サブミッシブは「人質」として留め置かれた。昼には父が国境から引き返してきただろうが、下手に手出しできない。周到なことだ。 (それにしても、ブーム派は思ったより多くいたな……)  国の隅々までは食糧が行き渡っていないのかもしれない。  それと父は強制でない共生を願って、公共の場でパートナー以外にコマンドを使う罰則をなくした。それが裏目に出て、排他的なドミナントを増長させたのもあるとみた。  シャムスは白大理石の床で、膝を抱え直した。立ち襟の長衣も下衣も没収され、身に着けているのは透けた薄布(オーガンジー)一枚きり。心許ないし、羞恥心にかられる。  木箱の蓋の陰で翼を寄せる侍雌(じじょ)たちも、同じ恰好だ。下士官は腰布一枚で、貸してやれる服はない。 『後宮(ハレム)をつくる。おまえたちは俺の妾だ』  今朝方、ライルはそう(のたま)った。カラーも与えずとっかえひっかえする気だ。そこも一途な父とは意見が合わない。  出し抜けに、頭の高さにある格子窓がガシャガシャ鳴った。 「おっ、起きたか王太子サマ。俺たちの相手もしてくれよ。ライルの旦那が気に入るほど美味いんだろ?」  王立公園で退けた隼人族三人組だ。あの日の仕返しとばかりに囃し立てられる。  ライルの後宮は娼館の機能もあるのか。「復古の王国」とは、弱肉強食を掲げたドミナント至上主義国らしい。 『俺が王権を取り次第、サブミッシブにはサブドロップ税を課して、軍事予算に充てる。後宮にいれば免除してやるぞ。いつでもプレイできるし、一石二鳥だろう?』  ライルの蔑むような声がよみがえる。  彼の言うとおり、サブドロップの防止やケアにはドミナントの手を借りねばならないのを考えると、強く言い返せないのがもどかしい。  侍雌がおびえている。シャムスはせめてと立ち上がり、艶をなくした金茶色の羽を広げた。 (公園で対決したときと似てるな。あのときはドミナントみたいにうまくできたと思ってた)  三人組は、シャムスを人質としていち早く攫おうとした。  シャムスが王太子と判明した後もコマンドを使ったのは、ダイナミクスを知っていたから。  侍雌たちのほうは、縋るようにシャムスを見上げている。国の未来を担う王太子がサブミッシブのはずがない、ブーム派に囚われたのは何か考えがあると信じている様子だ。  でも実際は、シャムスが「去れ」と睨んでも、三人組には効かない。足がかたかた震え出す。 (他人にばらされるんじゃなくて、オレの口で話したかった……)  サーディクの顔が浮かぶ。もう守ってはくれないのに。  王立公園でサーディクがしばらく趨勢を窺っていたのは、シャムスの立場を気遣ったからではなく、三人組の仲間だったから。捕らえず逃がす形にしたのも、足がつかないようにだろう。  サーディクがブーム派の鳥人だという前提に立てば、すべて説明がつく。  ひと晩考えたが、その事実を覆せなかった。それもまたシャムスの気力を奪う。  膝を突く直前、 「休憩ですか? 王権要求交渉が始まるまで、国軍を警戒し続けよとの指示でしたが」  凛とした声が割り込んできた。三人組がうんざりした顔で飛び去る。  厭味を言ったのは――白い長衣の上に瑠璃色の掛布を重ねた、サーディクだ。何の用だと思ったら、シャムスの傍の木箱に置かれた皿を見て、碧眼を細める。 「昼食に手をつけていませんね。身体が持たないでしょう」  運んできた夕食と、冷めて萎びたシウ肉片とを取り替えながら、小言を言ってくる。 (いくら好物でも、喉通るわけないだろ)  シャムスは唇を引き結んだ。  ブーム派におけるサーディクの肩書きは、「後宮管理官」だという。ただしサブミッシブの管理とは名ばかりで、実態は不当な支配だ。  サブミッシブの意思は無視されている。それぞれ仕事があり、好きな相手もいるのに。 (頑張っても、誰かを好きになっても、サブミッシブじゃ叶わない……?)  向き不向きはあれど、サブミッシブだから諦めねばならないことなどないと、考えてきた。羽先をもたげ、サーディクの似合っていない掛布を(はた)く。 「これがサーディクの望む、ドミナントとサブミッシブの形なんだね」  振り向いたサーディクは、正体を明かした後も変わらず無表情だ。 「……ここは仮の部屋です。衣食住を整えれば過ごしやすく、パートナーを探す手間も娼館に通う手間もかからなくなります」  などと絵空事を言いながら、シャムスが纏う青い薄布を摘まむ。なるべく肌を覆う面積が増えるよう結び直した。もう世話係ではないくせに。 「サーディク殿、殿下から離れるである」  下士官や侍雌(じじょ)の、裏切り者への視線は厳しい。  シャムスに限っては、サーディクに当て擦る権利などないかもしれない。でも、彼の気の済むようにしたのだから、満足そうに笑ってみせてほしい。  ……そうしたら、すっぱり恋を諦められる。  サーディクは無言でシャムスから離れた。だがなかなか立ち去らないでいる間に、扉側の人質が次々膝を突き、足の爪を隠す。  今度はライルがやってきたのだ。王宮の寝室でたっぷり睡眠を取ったのだろう、気分が良さそうだ。長衣でなく瑠璃色の布を巻き、二の腕に銀の装飾具を垂らしている。  王宮を占拠した張本人。  それでもサブドロップの兆候のある者は、彼の気を引こうか迷う素振りを見せた。  プレイ不足によってドミナントが他者を攻撃するのに対し、サブミッシブは自傷する。血の匂いでドミナントの本能をくすぐるのだ。初期は軽傷で済むものの、悪化すると命を落としかねない。  人質たちの命を握ったライルが、[Kneel]やら[Roll]やらコマンドを乱用しながら近づいてくる。木箱を蹴ってどかし、数歩でシャムスの前に辿り着いた。  ライルの黒い双眸が、壁沿いに佇むサーディクを捉える。にやにや笑みを浮かべた。王のもとでは少将を務めていたサーディクに「妾」の世話をさせるのは、意地が悪いとも言える。 「さぁて、シャムス。プレイするか。[Strip(脱げ)]」  ライルが向き直り、コマンドを口にした。命令し慣れていて、強制力が強い。近くの侍雌がいそいそ薄布を脱ぎ始めるくらいだ。  シャムスもサブミッシブの本能で薄布に手が伸びたものの、固く結ばれた結び目のおかげで踏みとどまる。  他の人質たちは、まだシャムスを頼りにしてくれている。 「セーフワードについて調べて、出直せ」  きっぱり言い放った。信頼の欠片もないドミナントとプレイするものか。「真逆の価値観を持つ王の妃や仔」を支配したいのだろうが、させない。  シャムスだって、サーディクの旧友への償いとして仮の後宮に収まった。ライルを悦に浸らせてやる義理はない。  他のサブミッシブにも手出しできないよう、改めて羽を広げる。 「ぴぎっ!?」  ライルはたちまち不機嫌になり、シャムスの羽を掴んで捻った。鋭い痛みに悲鳴が出る。 「仕置きが必要だな。俺に従わないとどうなるかわからないなら」  膝を蹴られて転ぶ。足の爪でぐりぐり踏みつけられ、床をのたうち回った。 (こんなの、お仕置きでも何でもない、単なる暴力だ……っ)  侍雌がすすり泣く。下士官が[Kneel]させられたまま歯ぎしりする。ライルだけ楽しそうだ。  お仕置きに耐えたサブミッシブは、労われる。だがライルはしゃがみ込んで、労うどころかシャムスの耳を強く引っ張った。 「[Listen(聴け)]。おまえは出来損ないの鷲人だ。ナスラーン家の血を引きながらサブミッシブと知れたら、民は落胆し、次代の王とは認めまい。おまえを愛するドミナントも、いない」  抑揚がないのに説得力のある囁き。シャムスは夏なのに寒気を催した。  サブミッシブが王になった前例はない。自分ならなれると信じてきたが、根拠はない。いつも少しだけ疑念があった。それを的確に摘まみ出され、増幅される。 「だが、俺はおまえを拾ってやろう。従順にすれば、こうして服も食べ物も与えるし、プレイもしてやる。それ以外は野垂れ死にしか道はない。俺はおまえをそんな目に遭わせたくない」  ライルが一転、猫撫で声になる。  洗脳に耳を貸すな。立派な王になるんだ。ドミナントの王と同じに? 誰か――。 「……サー、ディ……」  恩人のミドハトではなくサーディクの名を呼びそうになって、唇を強く噛む。歯が食い込んで血が出た。 「わかったら[Kiss(キスしろ)]」  サーディクとの訓練の甲斐なく、ぐぎぎ、と首が動く。  ライルの足の鉤状の爪に、口づけさせられる。三度目の[Kiss]のコマンドは苦い。  信頼も尊敬もしていない相手に従うのは悔しかった。一方で、ダイナミクスが勝手に被支配を悦びに変換する。皮肉にもサーディクとのプレイによってその回路が開いたようだ。  当のサーディクは無表情で、顔を背けている。  公園のときとは状況が違う。サーディクはシャムスを恨んでいる。  でも――でも、サブミッシブが目の前で苦しんでいたら、守るのがサーディクという(おとこ)ではないのか? シャムスの惹かれた鳥人(ひと)ではないのか。八つ当たりめいた気持ちにも苛まれ、目に涙が溜まる。 「ははは、いいぞ。少しずつ味わおう。明日また来る」  ライルは気まぐれに笑って翼を翻した。  いっそひと思いに喰い殺してくれたほうが――と、シャムスらしくない考えがよぎる。 「……きちんとコマンドに応えましたね」  まだ居座るサーディクが、とってつけたような褒美の言葉を吐いた。  ライルはコマンドを乱用して自分が満足したら、褒めもせず去る。そのままではサブドロップに陥る「妾」が続出する。だから後始末も後宮管理官の仕事というわけか。 「オレにかまうな」  シャムスを抱き起こそうとする手を払う。事務作業なら要らない。  ナスラーン国王太子たるもの、ただ人質に甘んじはしない。  ライルが眠っている日中、仮後宮から自力で脱出する作戦会議を始めた。王宮で働く鳥人たちも、気持ちを切り替えて参加する。  まず耳のいい種族の侍雌が、格子窓からかすかな声を拾って情報収集する。閉じ込められたのが地下などでなくてよかった……サーディクの働き掛けかは知らないが。 「民の会話によると、国王陛下と国軍が王宮を包囲しています。ライルは陛下との話し合いで不利な条件を吹っ掛けているとか。ブーム家前当主には、連絡がつかないようです」  ライルの父ならライルを窘められると思ったが、やはり体調が思わしくないようだ。 「ありがと。話し合いじゃなく国軍を突入させても、オレたちが足枷になるのは変わりない。二日だけ待ってほしいな。てわけでルシュディー、オレたちの状況を伝える役割を頼む」 「ナスラーン家のためなら、耄碌爺を演じましょうぞ」  ルシュディーは高齢ながら、政務の間では気丈にも他の者を先に脱出させていた。それがブーム派の(おとこ)たちの前で、プレイの役に立たず、ろくに話せもしないとひと芝居打つ。  食糧と引き換えに単独解放を取りつけた。夏なのもあり王宮といえど食糧の備蓄が少ないのが、作戦に味方した。 「この格子窓、嵌め込み式だ。外せば小柄なオレなら通れる。鍵を取ってきて、倉庫の扉を開けてあげる」 「鍵は侍雌の控え室にございます」 「倉庫を出た後、ここをこう飛べば、最短で宮壁を越えられるである」 「よし。もしブーム派に気づかれたら、この陣形(フォーメーション)で振り切ろう」  床に人数分の足の爪の欠片――脱出の際に廊下を走る音を聞きつけられないよう切った――を並べて動かし、悪友の下士官と作戦を確認する。空蹴球で連携を培っているので話が早い。  ライルはすでに王気取りで、父の私室を拠点としているというのも聞いた。王宮最上部に位置するゆえ、シャムスたちが作戦決行してもすぐ()つけてはこれまい。  ただ、シャムスは償いとしてライルの支配下に入ったとも言える。みなと一緒に逃げてよいものかと、躊躇いもよぎる。 (ミドハトに謝るだけじゃ、許してはもらえないだろうし……)  サーディクの気が済めばと、その夜もライルのコマンド乱発を耐えた。  性的なコマンドを使われるのも時間の問題だ。ライルに従いたくない。でもサーディクに許されたい。許された先に何もなくても……。  明日の夜明けとともに作戦決行である。恋の未練に悩む猶予はない。  他の人質たちは、常に緊張状態の疲れから眠り込んでいる。相談もできないし、朝が来たら王太子として振る舞うべく体力を回復しなければと、シャムスも目を瞑る。  しかし眠るに眠れず床に丸まったまま、どのくらい経っただろう。何かなめらかなものが頬に触れた。どこか懐かしくて、心地いい。  父の羽の幻をつくりだしてしまったか。ひとり立ちを期したくせに情けない。これでは、おまえには王太子の資質がないと言われても仕方ない。  なんて嘆いたら、さらさらとした髪の感触もして、飛び起きる。  サーディクが跪いてシャムスの顔を覗き込んでいた。一瞬瞠目し、身を引く。銀髪も離れていく。手で口もとを覆う。 (何、してるの? 後宮管理官として巡回とか?)  それにしては、昨日は来ていない。ああそうか、と閃く。 「オレがちゃんと報いを受けてるか、確かめにきたの」  疎まれるのは辛いから、サーディクの意図を先回りして言葉にする。そうすれば胸の痛みを少しでも減らせる気がした。  今夜、彼はライルのプレイに同席しなかった。ならばと手足の生傷を、痛めつけられた証拠を見せてやる。  サーディクは、古く固い肉を飲み込むような顔をした。かと思うと、 「隠し通路へお連れします」  と、まったく予想外の台詞を吐く。 「はあ? 隠し……って、今、脱出するのか?」 「声が大きい。他の者を連れてはいけません。気づかれぬよう黙ってついてきてください」  シャムスは頷かなかった。公園で守ってくれたときみたいな安心感はない。むしろ、むくむくと不信が大きくなる。知ることが信頼の一飛(いっぽ)目なら、隠すことは不信の一飛目だ。  サーディクの気持ちが癒えればと、管理下に入った。なのにどうして連れ出そうとするのか。  他の人質たちを見捨てていくのも、違う。そもそも王太子のシャムスですら隠し通路なんて知らない。 「サーディクが何を考えてるのか、ぜんぜんわかんない。だから一緒には行けない」  扉や格子窓に目を配っていた碧眼が、シャムスのほうを向く。ひそやかに切り出した。 「おっしゃるとおり、私は友から夢を奪った母仔(おやこ)に報いを与えると決意しました。一度だけ見舞いにきて金を置いていきましたが、金で時は戻りません。八年間、彼らを忘れたことはない。ライルにも私から接触しました。ですが」  一度、言葉を切る。こんな饒舌なサーディクは見慣れない。まるで彼自身も自分の考えがわからないかのようだ。  というか、母は恩人がミドハトだと突き止めていたらしい。なぜ会わせてくれなかったのだろう。シャムスの本当のダイナミクスがばれてしまうかもしれないから?  ずっと、死ぬまで、隠し続けるのか――? 根源的な問いが浮かび上がる。  八年間、母の心労を考慮して口を閉ざしてきた。その選択を間違いだとは思わない。でも今、自分を隠さずにいたい。  民に失望されても、騙すよりいい。次代の王になれなくとも……。  補翼する、とサーディクが言ってくれたのが、遠い昔に感じた。夢が消えかけると、シャムスも輪郭をうまく保てない。  その間にサーディクが話を再開する。 「ですがライルと王宮に入ってみて、彼の理想と私の理想は乖離していると判明しました。サブミッシブに不可欠なのは自由ではなく適切な管理です。が、ここはプレイ後のケアもなく、適切とは言えません。よって、殿下には脱出してもらいます。ご理解いただけましたか」  彼の説明はどうも独りよがりだ。ライルとの考えの違いが発覚したから、恨んでいるはずのシャムスを逃がす? 「なんでオレだけなのさ」 「……大人数では見つかりやすい」 「じゃあ、オレより弱ってる侍雌を先に逃がしてあげてよ。自傷しちゃいそうなんだ。オレは覚悟してここにいるし」 「きみという鳥人(ひと)は……本当に……」  言い合いのさなか、サーディクが苦しげに眉を顰める。  手が掛かると言いたいのか。シャムスはまたむっとした。けれど、明日には自分たちで脱出する、と打ち明けるのも憚られる。  サーディクは躾係ではなく裏切り者だから。裏切り者だよな? 本当は裏切っていない? (いや。隠し通路を知ってるなら、オレを利用して宮門の閂を抜く必要はなかったよな。やっぱり、嘘なんだ)  矛盾に気づいたシャムスは、生傷よりひりひり痛む胸を押さえた。二度もまんまと恋心を利用されたりしない。 「だったら、後で行くから、倉庫の鍵を貸してよ」  逆に揺さぶりを掛ける。案の定、サーディクは「それはできません」と真顔で首を振った。  胸の痛みを振り切るみたいに床を蹴り、サーディクの脇をすり抜ける。掛布を留める腰紐につないである鍵に、手を伸ばす。すばしこさならシャムスが上だ。 「[Stop(止まれ)]」  だが、背中にコマンドを投げつけられ、硬直を余儀なくされた。シャムスを、みんなを自由にできる鍵が目の前にあるのに、手が届かない。 (空蹴球でも、後ろからのタックルは反則って教えたでしょ……)  歯を食いしばって抗うも、動けない。ライルとのプレイで疲弊したのもあるが、サーディクからのコマンドはとりわけよく効く。  まだ、彼への信頼が残っているから。サーディクのほうは管理という名目の下、シャムスを思いどおりにしようとしているのに。  それはシャムスがいちばんされたくないことだ。ナスラーン王国において、あってはならないことだ。  サーディクはシャムスの意志もプレイの好みも、知っているではないか。  好きな気持ちが反転して、恨みがふくれ上がる。 「……、『死んじゃえ』」  セーフワードで拒絶した。途端、シャムスの手足を戒めていた強制力が消える。  サーディクは項垂れ、暗い廊下に消えていった。セーフワードを使う状況に置かれたサブミッシブを――シャムスを甘やかす、ケアはしてくれないらしい。  かすかすの羽先が、サーディクの影を追う。すぐ手で押さえ込んだ。  期待したり、反抗したり、気持ちが定まらない。サーディクが矛盾しているように感じるのは、シャムスの受け取り方が一定でないからかもしれない。 (死んじゃえなんて、はじめて言った。こんな気持ちになるのもサーディクに対してだけだ)  唯一確かなのは、好きになってもらえる可能性はこれっぽっちもないのに、大嫌いになれないことだ。  泣いても笑っても、太陽は昇る。  日の出直前の一時(いっとき)、世界はサーディクの瞳と同じ色に染まる。それを眺めながら、窓枠と壁の隙間に短い足の爪を捻じ込み、十字の格子を外した。 (みんな、あとちょっと頑張って)  他の人質たちに目で合図して、腕と翼を畳み、裏庭にぽとりと落ちるように着地する。  出来損ないの王太子でも、民を守ることはできる。  ブーム派の梟人族も虎人族も、少数の当直以外は寝静まる中、段取りどおりに倉庫の鍵――サーディクが持っているのとは別――を入手し、扉の前に回り込む。  みな足音を忍ばせて倉庫を脱出した。白大理石の廊下から半屋外の回廊に出て、今度は極力羽音を立てないように飛び立つ。  足や翼に枷を課せられなかったおかげで、滞りなく朝風に乗れた。  ルシュディーの伝言によって国軍部隊が保護体勢を整えている地点までの道筋が、しっかり見えている。 「おい、人質が逃げたぞ! 取っ捕まえろ!」  身を隠さず一団となって宮壁を飛び越える強行突破は、さすがに見逃されない。地上では虎人族が、空では隼人族が追ってくるも、最後尾につくシャムスは冷静に指示を出す。 「陣形(フォーメーション)、一!」  高く飛べる種族の者が、他の者の腕を引き上げる。 「陣形(フォーメーション)、二!」  速く飛べるシャムスが単独で梟人族の前を横切り、どちらを追うか迷わせる。  寝不足と空腹ときちんとしたプレイ不足で息が上がるものの、敷地内に残っているのはあと数人だ。生傷から染み出た血をれろりと舐め、自分を奮い立たせる。 「シャムス! 貴殿もこちらに来るである」  王宮壁面の窓に掴まっていたシャムスを、悪友が呼んだ。このまま飛び立てば脱出作戦大成功だ。両親も、ルシュディーも護衛も、シャムスの頑張りを褒めてくれるだろう。  しかし、どうしてか、昨夜のサーディクの顔が思い浮かぶ。  シャムスが飛び起きた直後は、誰よりも心配げで、労わりに満ち、後悔さえ滲む表情だった。それでいて、誰にも心を開けない、温め合えない、さみしい表情。 「……オレ、サーディクも連れていきたい。あいつだって人質だ」  シャムスは宮壁の向こうの街並みでなく、王宮内部を見据えた。 「はっ? 無謀である、」 「大丈夫、オレなら速く飛べるから」  ライルの暴虐ぶりを間近で見たゆえ血相を変える悪友に、親指を立ててみせる。次の瞬間には透かし窓の隙間に身体を押し込んだ。  突発の単独行動。これが正解かはわからない。  ただ脱出できたら、ミドハトを含むすべての民に、自分の口でダイナミクスを明かすつもりだ。それをサーディクに傍で見ていてほしい。  償った上で、知り合い直すことができたら、と思う。 (けど、サーディクはどの部屋にいるかな。贅沢はしなそうだし、軍の当直室とか?)  数日分の砂汚れが溜まった廊下を、きょろきょろしながら進む。人質脱出騒ぎで起き出しているかもしれない。広い王宮内で行き違いにならず見つけられるか――。  窓から射し込む青い光が、不意に黒く翳った。 「美味そうな血の匂いがするな」  曲がり角からライルが姿を現す。シャムスは慌てて飛び止まった。いちばん鉢合わせたくなかったが、梟人族はこうも羽音がしないらしい。 「その翼を麻縄で縛って、露台(バルコニー)で喰らうのはどうだ?」  ライルが口角を片側だけ上げて笑う。薄布を腰に巻きつけたのみのシャムスなど、簡単に思いのままにできると言いたげだ。それより逃げた人質を気にするべきではないか。 「あのさ。なんでオレにそこまでこだわるわけ?」  つい訊いてしまった。理由を知ったとて彼とは相容れないのに。  まあ、シャムスとの話に注意が割かれる間に、人質たちが安全な場所まで逃げられればよしとしよう。サーディクの居場所の手掛かりを聞き出せたら、もっとよし。  そうと知らないライルは、低く羽ばたき、シャムスの腹の生傷に唇を寄せてきた。 「俺は鷲人族が好みなんだ」  嫌悪感が湧き、血の滲む傷を羽先で覆う。  確かに政務の間では、母を狙うような口ぶりだった。サーディクにシャムスのダイナミクスを聞いてほんの半月で、シャムスも手に入れたくなったのか? 母のような美雌(びじょ)ではないのだが。 「王妃に目をつけていたが、八年前、もっと好みの鷲人を見つけた。涙目になりながらも俺を睨んでみせる気の強さ、元草食種族のサブミッシブにはいない」  シャムスは羽根をもたげた。八年前、と言ったか――? 「おまえだよ、シャムス。誇り高いおまえを従わせたら、さぞ愉しいだろう。ただし仔どもに興味はないから、食べ頃を待っていた」  ライルの笑みにひそむ昏い情欲が俄かにわかるようになり、ぞわりと総毛立つ。  シャムスのダイナミクスを、サーディクが彼に教えたのではなかった。八年前から知っていたのだ。新月の夜、「だいぶ美味そうになった」という一言には含みがあった。  しかし、あの件の犯人は捕らえたはず。一味だったライルの罪を被ったのか?   記憶がみるみる更新される。「仔鳥が威嚇するか」という声。やや若い響きだが、目の前の(おとこ)の声と重なる。  ライルはシャムスと母にいきなりコマンドを浴びせた上、止めに入ったミドハトの翼を片方ちぎるほどの乱暴を働いた……。  サーディクは、旧友の仇の正体を知っているのだろうか。知ってもなお原因となった――強ければ助けは要らなかった――シャムスに報いを受けさせるため、ライルに与したのか? (それほど、恨まれてる?)  足がぐらつく。明後日なことを言い返す。 「そんなにオレを食べたかったのに、サーディクにプレイの相手させてよかったのかよ」  はじめから敵として出会っていたら、ここまで胸が痛まないのに、などと思う。ライルと相対していても、サーディクのことを考えてしまう。 「最後に俺が支配すればいい。あの鷹人も俺の支配下だ」  ライルは尊大に羽を広げた。これは……サーディクも利用されたんじゃないか。  サブミッシブもドミナントもニュートラルも丸ごと民を守るためには、そしてシャムスとサーディクの間のわだかまりを解くためには、ライルと決着をつけないといけないようだ。  ライルが、ブーム派が、自分のことしか考えないままでは、共生できない。  いつか自分が王になったら、と考えていた。違う。今、彼を退け、サーディクを守るのだ。 「オレは高圧的なドミナントは、ぜんぜん好みじゃない」  ひと蹴り喰らわせようと足を振り上げた。空蹴球仕込みの足さばきだが、 「[Stop]」  ライルは避けもしない。コマンドひとつで充分とばかりに、シャムスを見下す。  シャムスは動きを止めた。深呼吸して、力を入れ直す。再び上がった足が、ライルの鋭角な頬に迫る。 「俺のコマンドを聞かないってことは、仕置きされたいのか?」 「……っ」  しかしもう少しというところで、身体が縮こまった。仕置きの怖さと痛みに浸食される。自分の非力さに打ちひしがれる。 「サブミッシブはドミナントに飼われるのが合理的だ。弱肉強食の歴史がそれを証明してる。俺の指揮のもとドミナントの支配力を増強すれば、国は大いに栄えるだろう。今のうちに俺のものになるのが利口ってもんだ」  ここぞと追い打ちを掛けられた。長い腕に翼の付け根を掴まれ、廊下を引き摺られる。 「ぴ、ぃ」  痛いし悔しいのに、振り払えない。金茶色の羽根が何本も抜けて落ちる。サーディクの居場所の手掛かりどころではない。  辿り着いたのは両親の寝室――だったが、ライルの好みらしき華美な織物、濃い香、麻縄や鞭など悪趣味な小物で埋め尽くされていた。 (まさか、いやだ、プレイも何もしたくない、っ)  シャムスは蒼褪め、寝室から這い出ようとするも、叶わない。鉢合わせざまにライルが唱えたとおり、翼を麻縄で縛られてしまう。 「何、すんだよ……っ!」  涙まじりに睨み上げたのが、逆効果になった。ライルはにやにや笑い、シャムスを露台(バルコニー)の足掛け柵際へと追い詰める。 「妾の務めをさせてやってるんだが? 翼を縛ると、地に落ちるのを怖れて鼓動が速まり、快感が増すというぞ。さあ、[Kiss]」  シャムスは背を反らし、ライルと距離を取ろうとした。だが白大理石の柵に薄布が滑って、ひやりとする。抜けた羽根が風に撒かれた。王宮最上部から地面に落ちたら無事では済むまい。  かと言って露台はふたり並べばいっぱいで、逃げ場はない……。  間近でライルが喉を鳴らす。彼は鳥人らしい「信頼されたい」という欲は持ち合わせておらず、ひたすら喰い散らかす猛禽だ。シャムスがサブドロップになっても構わず喰らうだろう。 「おまえは俺に支配されて、快楽を味わってればいい。[Lick(俺のを舐めろ)]」  コマンドを重ねられ、身震いした。  ライルは、信頼と愛情がなければ痛くて辱めでしかない行為を拒めず、それどころか悦びさえするサブミッシブを、ドミナントの玩具と思っているふうだ。  ドミナントに何を命じられても受け入れ実行しようとするのは、サブミッシブの恥ずべき欠点ではなく、称えられるべき美点だ。ドミナントはサブミッシブを弄ぶのでなく貴ぶものだ、かつてそうやって命をつないできたのだから――と、これまでなら反論するところだが、今のシャムスは自分の考えにいまいち自信を持てない。  結局自分の身を守れず、好きな鳥人(ひと)の大事な友も傷つけた。傷つくべきはシャムスだったのに。  コマンドに抗えず、ライルの股間に手が伸びる。  サブミッシブにも意志が、夢が、恋愛感情がある……でも、サーディクの手引きに従っていれば、悪友の忠告を聞いていれば、こうはならなかったんじゃないか? ライルの支配を受けて、「利口」になろうか。 「シャムス殿下! 飛んでください、私が受け止めます」  誇りを明け渡す直前、聞こえるはずのない声がした。  首を捻れば、いつの間に飛んできたのか、サーディクが宙で腕を差し伸べているではないか。起き抜けなのか白い長衣のみで、銀髪も括っていない。  助けに来てくれた。  それだけで指先が体温を取り戻す。羽根が戦慄く。気持ちが、弾む。 「サーディク、なんで、オレがここにいるって、わかったの」 「殿下のことならわかります」  サーディクが口早に言う。はじめて見る、切羽詰まった表情だ。声には怒気も漂う。  その怒りはライルに向けたものか、それともシャムスに向けたものか――昨夜喧嘩別れしたきりなのを思い出し、委縮する。また手を煩わせてしまう。 「ほんとに、ほんとに受け止めてくれる?」  確固とした信頼がなければ、命は預けられない。逡巡するシャムスを、サーディクは「早く」とか「私を信じて」と急かすが、コマンドは口にしない。昨夜拒絶したからだろう。  単純だが、それだけで、サーディクを信じられる。 「おいサーディク、どういうつもりだ。おまえが人質を閉じ込める場所も枷も甘くしたせいで逃げられて……倉庫の鍵もおまえが渡したんじゃないだろうな」  シャムスの頭上で、ライルが忌々しげに追及する。やはり、サーディクのせめてもの計らいだったのだ。  ふたりのドミナントの視線が、交差する。サーディクは手で口もとを覆いかけたが、その手を下ろして、静かに言う。 「私は、私の信念に従ったまでです」  サーディクはブーム派に染まりきってはいない。シャムスは「よし」と足の爪を握り込んだ。 「はあ。王の下なんかで働くからだ」  ライルは興ざめという顏だ。プレイの邪魔はさせないとばかりに、シャムスの喉笛を足の爪で押さえ込もうとする。  だが、それを掻いくぐれるくらいには回復できた。  サーディクに向かってまっすぐ、飛び立った。とはいえ羽ばたけないので、落ちていく、が正しい。心臓が口から出そうな感覚は、恋に落ちていくみたいだ、なんて思う。  時間の流れがひどく遅くなる。サーディクが、しっかりとシャムスを抱き留める。 (ああ、オレの好きな腕だ) 「……こんなはずでは、なかったのですが。趣味も友も愛も、捨てたのに」  サーディクの降参めいたつぶやきは、空を切る音に紛れた。  さしものサーディクも高度を保つ限界だったようで、ふたりまとめて大きく沈む。回廊沿いに植わったオリーブの木にザザザッと突っ込み、何とか落下を免れる。  太い幹に寄り掛かったまま、サーディクがまずシャムスの翼の麻縄を解いてくれた。  自由になってほっとする。改めて腕と羽両方でサーディクに抱き着こうとして、 「サーディク、ありが……ぴいい、血が出てる!」  悲鳴を上げた。サーディクのこめかみから鮮血が伝っている。尖った枝に引っ掻かれたのだ。黒銀の羽に包まれたシャムスは無傷なのが申し訳ない。腰の薄布をちぎって傷に押し当てるも、血は止まらない。  サーディクは血が入らないよう片目を瞑り、宮壁を指差した。 「たいした傷ではありません。安全な場所まで飛ぶのです」 「サーディクも来て。ナスラーン派の人質は全員守るんだ」  守られどおしで説得力がないかもしれないが、そのためにひとり残った。名残惜しくもサーディクの上から退き、早速羽を広げる。  頼もしく温かい腕に包まれて確信した。サーディクはシャムスが惹かれた雄のままだと。  サーディクのほうは、「きみはいつも羽を広げて、変わらない」と開き直ったみたいに笑う。かと思うと、キッと上空を睨み上げた。グレアだ。 「シャムスを渡せ」 「……渡しません」  憤り露わに急降下してきたライルが、グレアに中てられたのか、いったん逸れる。  サーディクのグレアは、王立公園で放ったのよりもさらに強い。シャムスは陶酔しかけた。サブミッシブにとっては被支配欲を増幅する麻薬にもなり得る。 「殿下。私は軍人ですしドミナントです。簡単にはやられません。王宮に残って……、国軍を突入しやすいようにしておきますから」  シャムスの反応を知ってか知らずか、サーディクはライルから目を離さず、ひとりで行けと暗に言う。空蹴球で垣間見せた負けず嫌いぶりを取り繕えていない。  シャムスは足手まといか? いや、連携の相性は抜群だ。 「オレも、」 「きみは次代のサブミッシブの王となる方です。そのために頑張ってきたのでしょう」  途端、指先がちりりと痺れた。サーディクはやっぱりシャムスのいちばん欲しい言葉がわかる。これまで隠されていたぶん、威力が大きい。  でも、今言うのは反則だ。  やっと本心を聞けて、行き違いを解けると思ったのに、話したいことがたくさんあるのに。 「ここを切り抜けなければ。臣下に守られるのも、王太子の務めのひとつです」  勇む気持ちと裏腹に、木枝からずるりと滑り落ちかける。無理やりプレイされたせいで、サブドロップになりかけているのだ。なんとままならない。 「……わかった、絶対約束だよ、またね」  サーディクの決死の助けを無下にしないため、シャムスはひとりで羽ばたくしかなかった。以前にも、こんなふうにサーディクの言葉に頷いて飛び立ったことがある気がする……。  後ろ羽根を引かれて振り返れば、サーディクは晴れ晴れとした顔で笑っていた。これが彼の素の笑顔か。かっこよくて、優しくて、誇り高くて、シャムスの瞳に焼きつく。  サーディクはすぐライルに向き直り、シャムスが逃げ切るまで足止めすべく、足の爪を剥き出しにした。  離れ離れは、哀しい。やっぱり引き返したい。必ず迎えに来る。  相反する気持ちを抱え、宮壁を越える。黒い軍服に濃赤の徽章の、サーディク……ではなく、近衛部隊長の羽に収まった。  周りの隊員が、わっと歓声を上げる。当のシャムスは、精鋭の彼らならサーディクを助けられるのでは、という計算が先に立った。 「おまえ……たち、壁の、向こうに……ぴっ」 「お話は後です、殿下。治療しなければ」  だが、近衛部隊長は問答無用で飛び上がった。がっちり抱えられているシャムスは「待っ、て」ともがくも、ますます手足の力が抜けてしまう。 「まだ、サーディクが……、サー、ディク……」  王宮が遠ざかる。最後に愛しい鳥人(ひと)の名を呼んだ。

ともだちにシェアしよう!