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第5章

 南の離宮は、空路なら王宮から半日の距離にある。  王不在時の忠告を軽く受け止めていたのはひとまず置いておき、父がたっぷり[ケア]してくれた。寝室には質素ながらおろしたてで肌当たりのいい下衣、シウのテールスープなんかも用意されていた。  母も心痛で倒れずに済んだ。でも、よかった――と息つくことはできない。  サーディクが「裏切り者」と決めつけられていた。それで置き去りにしたのか。サブドロップのせいでサーディクと別れてから一日半経ってしまっていて、気が気でない。  再会すると、約束した。 「サーディクは囮になってくれたんだ。助けなきゃ。オレも突入作戦に加わりたい」  シャムスは寝台にうつ伏せになったまま、父に訴える。父が「獣人国王は容赦なくと言うが、ブーム派の者たちも余の民だ」と厳しい処遇を渋るおかげで、まだ国軍は動いていない。今のうちだ。 「しかし、あやつの手引きで囚われたのではないのか?」  父がシャムスの短髪を撫でつつ尋ねてくる。  経緯としては否定できない。ただ思い返してみると、王宮占拠の時点でサーディクは思うところがある様子だった。八年間温めた作戦をいざ決行してみたら想定と違う、みたいな。  とはいえこの事態を招いた一員なので引くに引けない。それで細々と、人質の待遇改善やシャムスのケアを試みた。シャムスを脱出させようともした。  そして、ライルのものにされそうだったシャムスを守り、抱き締めた。  その腕の温もりを思い起こしながら、言い募る。 「オレの意思で残ったんだよ。ライルたちがサブミッシブを適切に管理するっていうから、どんなもんか見てやろうと思った。で、適切じゃないって判断して、世話役のサーディクがオレの脱出を助けてくれたってわけ」  サーディクはむしろこの八年間の彼自身を裏切ったのだと思うが――説明が難しい。  なので、占拠された王宮内での出来事を掻い摘んで伝える。ちょっと美化しているが、事実だ。誤解を解く一飛(いっぽ)目になればいい。  「友の仇と手を組むはずがない」とは、父にはまだ明かさないでおく。  父は大きな顎に手を当てる。 「ふむ。サーディクを世話役に任じたのは、口が堅いのと、『サブミッシブでも資質があれば王になれる』という余の考えに同調したゆえだ。余やそなたに取り入るためだったのか否か」 「本心だよ」  サーディクの嫌疑を晴らしたくて、食い気味に言う。別れ際の言葉が耳によみがえった。 『きみは次代のサブミッシブの王となる方です。そのために頑張ってきたのでしょう』  あの一刻を争う場で、シャムスの頑張りを肯定してくれた。自信が少し回復する。 「そうか。そうとも。余と妻の愛の結晶たるそなたになら務まる」  父まで得意げに笑う。  昔はサブミッシブの正妃しか持たないことに批判もあっただろう。母への愛を貫いたときから、ダイナミクス問わず仔に王位を継がせる心づもりだったのだ。  両親に憧れるからこそ、期待に応えたい。この国が、民が好きだから、誠実でありたい。そして、愛するサーディクの孤独を癒せる存在になりたい。 「そのためにも、サーディクを助けて、オレのダイナミクスをみんなに話さなきゃ」 「なりません。八年前のあの日を忘れましたか」  決意表明は早くも挫かれた。母が寝室にやってきたのだ。母ほどの美雌(びじょ)だと、真顔で話すだけで有無を言わさぬ迫力がある。  父が取り成そうとするのを、シャムスは手に手を重ねて制した。むしろ八年前の事件の詳細を聞きたくて、シャムスが呼んだ。 「陛下。将官たちが、執務室で最後のおひとりを待っていますよ」  母が父に席を外すよう促す。父は逆らわず立ち上がった。どちらがドミナントかわからない。  父と入れ替わりに、母が傍らの籠型椅子(ソファ)に着く。シャムスは上体を起こし、彼雌(かのじょ)をまっすぐ見つめた。 「その日のことだけど。母上は、オレたちの恩人のミドハトが今どうしてるか知ってる?」  ひとつめ。八年前助けてくれたふたりのことを訊く。  ミドハトの名を挙げると、母の金赤色の翼がぴくっと持ち上がった。シャムスがもう何も知らない仔どもではないと観念したのか、粛々と話し出す。 「いいえ。一度見舞ったきりです。あなたがサブミッシブだと勘づかれていないか確かめられた以上、頻繁に会って接点を探られたくありません。彼のことは陛下にも伏せています」 「片翼失ったのに、薄情じゃない?」  ダイナミクスを隠すのがそんなに大事かと、つい刺々しくなる。だが母は愕然とした様子で細腰を浮かせた。 「なんですって。実は見舞ったとき、入院中で直接は会えなかったの。居合わせたもうひとりに見舞金を渡したのですが……。すぐ探させます」  怪我の状態を具体的に知らなかったらしい。八年越しではあるが償い始められそうだ。  そう言えばもうひとりの恩人は無事だろうか。サーディクと再会したら、探してみよう。 「それと。あの日、ごろつきの中にライルもいたよね」  ふたつめ。犯人のことを訊く。 「……何を言っているのかしら? 不敬を働いたごろつきは捕らえて罰したでしょう」  しらじらしい。この調子だと、父に隠しているのは恩人の存在だけではないとみた。  否が応でも、三つめの疑問が浮かぶ。ずっと、距離の長い散歩だと思っていた。 「ふうん。じゃ、母上は父上に内緒で、何をしようとしてたの? まさか浮気」 「違います。わたくしのパートナーは生涯、陛下のみです」  反射のような断言。これで母は言い逃れできなくなった。何度も口を開いては閉じる。 「何を聞いてもオレは母上が大好きだから、教えて」  シャムスは狼狽する母を、羽で抱き寄せた。サーディクがしてくれたみたいに、優しく。  母は申し訳なさげな顔で切り出した。 「わたくしは、愛息子にサブミッシブの性質が表れた場合に備え、ダイナミクスを転換する方法はないかと各地の伝承集を調べていました。そして見つけたの。いわく、野ユア(・・)を七日続けて食べれば、サブミッシブもドミナントになれると」  野ユアは、北の森の渓流に棲む。捕まえるとストレスで血が毒化していくため、その場で食べるしかないという。ただ――。 「もし七日間達成できてたとしても、オレはドミナントにはなれないよ」 「ええ、今となっては眉唾ものです」  何ならライルの細工かもしれない。 「でも当時は思い詰めていました。わたくしを正妃にしてくださった陛下に、迷惑をかけたくなかった」  母が自嘲たっぷりに嘆く。自分がサブミッシブなばかりに、サブミッシブの仔が生まれた。  それでシャムスのダイナミクス転換も、ミドハトへの見舞いも、犯人の捕縛も、責任のある自分ひとりで手配したのか。 「なぜ北の森にいたのか、ひいてはあなたがサブミッシブであることを伏せるためには、あの日ライルと行き合ったのがわたくしであっては困るのです」  母を愛する父は、母のサブドロップがライルの仕業と知ったらめったになく怒り、ブーム家ごと排除しただろう。右(うで)を失い兼ねなかった、というわけだ。  今までのシャムスなら、ここで話をやめる。母を悲しませたくなくて、母に守られるのが心地よくて。でも今、母と同じくらい――母より大事な鳥人(ひと)ができて、自分の進むべき道を決めた。 「母上はサブミッシブの気持ちがわかるから、同じサブミッシブのオレをいつも心配してくれたんだよね。守ってくれて、ありがと。けど」  信頼のない一方的なコマンドは、確かに怖いし苦しかった。  でも、手を差し伸べてくれる鳥人(ひと)がちゃんといる。シャムスも手を伸ばせるひとりでありたい。他人を守る気概のある者もまた、守ってあげたいのだ。  瞼の裏に浮かぶ、サーディクの頼もしくもさみしい背中を噛み締める。 「もう大丈夫だよ。これからは、歴代のドミナントの王と同じようにしてみせるんじゃなく、サブミッシブの王だからこそのやり方でみんなを守る。サブミッシブの王なら、どうしたらサブミッシブが活躍できるかもわかるし。まだぜんぜん父上に学ぶことのが多いけどね」  無意識に「ドミナントと同じように」と考えていた。ライルの洗脳めいた言葉に揺らいだのはそのせいだ。  だが、本当にシャムスが目指すべきは「サブミッシブの王」。そうサーディクが気づかせてくれた。プレイ以外でも世話役の務めを果たしたわけだ。  その実現のため、サーディクとの約束を果たす。  シャムスがしっかりしていれば、サーディクに「サブミッシブを管理すべき」とか「ライルの理想のほうがいいかも」なんて二度と悩むまい。改めて、傍で見ていてほしいと思う。  ライルにも、サブミッシブの誇りを見せてやる。 「ダイナミクスを隠してコマンドから身を守るんじゃなく、悪意あるコマンドを出させない、万一浴びても独りで耐えなくていいってことを、オレ自身を以って示していくよ」  最後まで言い切ると、母がシャムスの腕をぎゅっと握った。 「わたくしが、陛下にドミナントの正妃を持つよう強く言えなかったから……あの方の愛を独占したいと思ってしまったから、あなたを苦しめてごめんなさい」 「ふふふん、少しも苦しくなんかないよ。オレは自分のダイナミクスも、父上と母上のもとに生まれたことも、誇りに思ってる。ふたりが愛を貫いたから、オレも鳥人(ひと)を好きになれた」  とびきりの笑みを浮かべてみせる。母は長年の重荷を下ろしたかのように息を吐いた。  シャムスは寝台を降り、今度は父の執務室へと急ぐ。  王宮奪還の最終決議が行われているはず。ブーム派の処遇如何によって、母がごろつきの中にライルがいたのを黙した意味がなくなってしまうかもしれない。  シャムスがライルに「おまえのものにはならない」とわからせればいい。サーディクを裏切り者として討たせもしない。  執務室のアーチ型の扉が見えてきた。その前に、見知った面々が――サーディク隊がいる。視線を交わしただけで、彼らがサーディクには何か思惑があると信じ続けているとわかった。彼らに親指を立ててみせ、半ば体当たりで扉を開ける。  正面に坐す父と、石造りの長卓を囲む将官が、一斉に振り向いた。  全員ドミナントなのでかなりの圧だ。それでも怯まず、言い放つ。 「ライルはオレが説得します。それと、依然囚われている功労者を救出せねばなりません」  ここで彼らの顔色を窺っては、仔ども扱いされて終わりだ。足の爪を踏ん張る。 「シャムスや。対話の機は失したのではないか」  父が、王の顔で諭してきた。確かにライルの説得は、正攻法では難しい。 「だからって武力なら従う? オレならライルに狙われてるのを逆手に取れます。それに、苦しんでる鳥人(ひと)に手を差し伸べるのがナスラーン王国だ。もう三日だけ、オレにください」  シャムスは羽をめいっぱい広げ、なおも粘った。父との無言の攻防は一時間にも一日にも感じる。でも譲らない。サーディクを諦めない。  やがて、父がどこか楽しそうに頬をゆるめた。 「よかろう。選抜部隊を指揮してみせよ」  任せてもらえた。昂揚で羽ばたき、身体が文字通り浮き上がる。 (まあ、だめって言われてももぐり込んだけどね)  将官はどよめいたが、シャムスが作戦の段取りを説明し始めると、異議も立ち消えた。  シャムスは夜のうちに離宮を発ち、王宮を取り囲む国軍に加わった。  シャムス率いる選抜部隊はサーディクを救出し、首謀者ライルに投降するよう説得する。そうすれば、本隊の王宮奪還作戦で血が流れないで済む。  もしサーディクが友の仇討ちを望むなら、それはそれで手を貸すとして。  サーディクの救出作戦は、突入でなく潜入のほうが、穏便かつ滞りなく進められる。よってシャムス隊が単独で動くことになった。 「打ち合わせたとおり、二手に分かれて作戦を開始するよ」  早朝、シャムス含め十人の精鋭で、宮壁を越える。夜に活動する梟人族と昼に活動する虎人族が持ち場を交代する隙を突く形だ。  虎人族の雄たちが、客間目指して階段を上がっていくのを、死角から見送る。  「人質さえ取れば王は交渉を呑むはずが、どうなってるんだ」「話が違わないか? 協力してやったのに食糧の取り分がない」「サブミッシブも足りなくて困る」などと、ひそひそ話すのが聞こえた。ブーム派は足並みが乱れ出したようだ。  シャムス隊のほうは、意思統一できているし、王宮構内図も頭に入っている。  五人ずつに分かれ、ブーム派の裏を掻き、白大理石の廊下をすべるように飛び回る。 (サーディク、すぐ見つけてあげるね)  だが、意気込みと裏腹に難航した。  ライルと対立したので倉庫に閉じ込められたか、和解したとみせて当直室か、と当たりをつけたどこにもいない。宮壁沿いで国軍突入に備える一団にも見当たらない。  夕方が近づき、いったん宿営への撤退を余儀なくされる。街中の空蹴球場(フットサルコート)に張った天幕(テント)で、シャムスはガシガシ頭を掻いた。 「隠し部屋があるのか? でも隠し通路自体、父上も母上も知らないっていうしなあ」  蝋燭の火が揺れる。近くにいるのにもどかしい。  前後して、もうひと組も天幕に戻ってきた。「どうだった?」と勢いよく振り返る。  何だか奇妙な雰囲気だ。五人とも鍛錬を積んだ軍人だから、徒労や焦りを顔に出さない。ただ、別の大きな感情を押し殺しているような……。  サブミッシブながらサーディク隊で重用されていた下士官が、進み出る。だが上官のサーディクみたいに直立不動だ。沈黙にしびれを切らしたシャムスは短く命じた。 「報告して」 「……、……裏庭の仮廃棄(ゴミ捨て)場とおぼしき場所で、こちらを発見しました」  だいぶ逡巡したのち、掌に乗るくらいの布の包みを差し出してくる。  いやな予感がする。シャムスはそれをひったくるように取り、中を検めた。  黒銀の翼の一片。風を切る部分でなく身体に近い部分で、血の塊がこびりついている。  信じたくない。でも見間違わない。これは――サーディクの翼だ。この黒と銀の割合は彼にほかならない。  手遅れだったのだ。彼と約束を交わしてから二日半以上経っている。  ライルには、自分に逆らったサーディクを生かしておく情けはなかった。それも翼の飛行に不可欠な部分を切り落として嬲った。  脱出の際、壮絶な蹴り合いが始まろうとしていた。グレアも、サーディクとライルは互角だ。逆に言えば、一度均衡が崩れれば一方的な暴力になる。  まさか、サーディクは命を擲つ覚悟で、最期に笑ってみせたのか。 「オレが、死んじゃえって、言ったから……?」  視覚が色を失う。聴覚が音を失う。温度も匂いも感情も失い、空っぽになってしまう。  ほんのひと月前、シャムスはサーディクと出会ってもいなかった。でも今、シャムスのすべてをサーディクが占めている。  セーフワードとはいえ「死んじゃえ」と言ったこと、まだ謝っていない。シャムスの脱出を助けてくれた礼もまだできていない。  「世界でいちばん大好き」と、まだ伝えられていないのに。  鳥人(にんげん)は本当に絶望すると、涙も大声も出ないらしい。羽根もぴくりとも動かない。  離宮からすぐ引き返していれば。いや、サブドロップに陥る前に近衛部隊長に指示できていれば。いや、脱出作戦前夜にふたりで脱出すれば、サーディクは死なずに済んだのではないか? サーディクの真心を踏みにじったことを、今さら悔やむ。  砂地に、へなへなとへたり込んだ。  シャムスには、好きな鳥人(ひと)も、誰も、守る力はない。こんな非力な(おとこ)では、次代の王にはなれない。  サーディク死亡の報が巡った宿営は、重苦しい空気に満ちた。  特に選抜部隊は、サーディクと親交がある者ばかりだ。士気が上がらない。  一睡もできなかったシャムスは、二日目の作戦を中止にした。  救出対象が亡い。ライルの説得もどうせ失敗だ、ともうほとんど投げ出している。サーディクの仇は父率いる国軍に取ってもらえばいい。  天幕の隅で、ぼんやりと膝を抱える。これ以上ここにいても仕方ない。離宮に戻ろう。 「何者か、名乗れ!」  不意に、入口側にいた下士官が叫ぶ。天幕に人影が浮かんでいる。  昨日の潜入に気づいたライルのお出ましか? 緊張が走るも、シャムスは動かない。サーディクのいるところに行けるなら、彼に従うのも悪くない。 「爺じゃ。おせっかいではありますが、お力になればと参りましたぞ」  聞こえてきたのは、ルシュディーの声だ。シャムスはようやく顔を上げた。離宮から急行してきたのか、長い眉が風に吹かれた状態で癖づいている。 「……ここにいたら危ないよ。離宮でゆっくりしてな」 「ひよっ仔にさまざまなことをお教えし、お考えいただくのが爺の務めゆえ」  この状況で、王太子の教育係として講義でもするつもりか。怪訝な目を向けたら、書物ではなく、白地に赤模様の布包みを押しつけられる。  昨夜の下士官とのやり取りと重なって、シャムスは蒼褪めた。反射的に手を払う。  布の結び目がほどけ――革製の首環(カラー)がふたつ、転がり出た。  動揺で、ぼさぼさの羽根が余計毛羽立つ。こんなものを届けにきた意図がわからない。力になるどころか、好きな鳥人(ひと)を喪った今は逆効果なのだが。  ルシュディーは構わず話し始める。 「経年の艶が出ているほうは、先々代のパートナーが着用していたものです」  足の爪の横に落ちたカラーを、改めて見やる。  確かにひとつはずいぶん古い。ルシュディーは先々代の王――曾祖父の教育係も務めていたとはいえ、遺品を持ち出すのはよくないんじゃないか。 「もうひとつは、サーディク少将の官舎にございました。……お先に解放された後、『裏切り者』の家捜しを引き受け、回収しておいたのです」  ルシュディーが声をひそめる。人質生活で疲れただろうに、さらに働いていたらしい。 「意匠をよくご覧くだされ」  サーディクの部屋にカラーがあったというのも、謎だ。羽先で引き寄せ、拾い上げてみる。模様が編み掛けで未完成だった。もしかして、と王立公園での軽口を思い返す。 『カラー、いいなあ』 『欲しいのですか』 『そりゃあね。カラー着けてるみんな幸せそうだし。曾祖父(ひいおじい)様がパートナーに贈ったカラーは、特に素敵なんだ』 『ふむ……』  曾祖父のパートナーのカラーは、当時いちばん腕のよかったシウ革職人につくらせた特注品だとかで、世界にふたつとない。焦茶の色味も再現できるものではない。  一方、まだ革が固く茶色も明るいカラーは、その意匠を明らかに真似ていた。 「新しいものは、先々代のものを手本にしています」  サーディクはあのときも手で口もとを覆っていた。あれきり言及はしなかったが、ひそかにルシュディーから手本を借り受け、カラーを手づくりしていた……。  カラーは絆を形にしたものだ。シャムスの求愛(アピール)は届いていたのか?  心臓が、力強く羽ばたき始める。 (自惚れちゃうよ、サーディク。これはオレのだって)  現実を突きつけられるから見たくなくて、でもどこかに置いておくことも誰かに渡すこともできず長衣の内ポケットに忍ばせていた、黒銀の翼の一片を撫でる。  そして、つくりかけのカラーに唇を寄せる。きっと完成とともに何かを期していた。シャムスはサーディクを、その本心を、知らないようで知っている。  サーディクは、シャムスの頑張りに気づいて後押ししてくれる。あの眼差し、腕の温かさ。  サーディクは、こんな心残りを抱えたまま死んだりしない。負けず嫌いだし、責任感が強い。  シャムスも、諦めない。サーディクが生きていると信じよう。  むしろこじつけでも信じるのがシャムスではないか。翼の一片が見つかっただけで、絶命の瞬間を目の当たりにしたわけじゃない。 「ありがと。力になったよ」  シャムスが笑い掛ければ、ルシュディーは「ぶぉっ」と咳込んだ。昨夜サーディク死亡の報を聞き、夜を徹して()けつけてくれたのだ。  彼は、カラーの話をすればシャムスが復活すると知っていた。サーディクの本心までも読んでいる。彼以外が家捜ししていたら、未完成のカラーは踏まれて捨てられていたに違いない。  執務室からの脱飛(だっそう)は見逃すのに、こういうところは目ざとい。  それともシャムスたちわかりやす過ぎたのか? まあ、恋はそれだけ鳥人(ひと)を変える。サーディクに関するささいなことでも大きな力が湧く。  シャムスはカラーを手に立ち上がり、同じく希望を取り戻した様子の面々に告げた。 「ごめん。やっぱり作戦を進めよう。オレを守って怪我したサーディクを、守るんだ」  作戦二日目は、王宮最上部にもぐり込むことにした。  ライルが拠点を構えており、ブーム派の行き来も多いので、一日目は見て回らなかった、が。 「よし。今は誰もいない。担当区域に手掛かりがなかったら、下に集合ね」  ブーム派が寝泊まりに使う客間に、肉のおやつをこっそり差し入れておいた。  単純ながら、ライル配下の輩は仔どもからおやつを強奪するほど食欲旺盛な上、民に兵糧攻めに遭い、腹を空かせている。多少は足止めになる。  シャムスは両親の寝室、父の私室の周辺を探った。  サーディクが生きているとして、もし重症なら、ライルはここぞと麻縄でつないで折檻する。だが鞭の音は聞こえてこず、胸を撫で下ろす。  もし翼の一片と引き換えに逃げおおせても、ライルの近くで彼の動向と王宮奪還の機を窺っているだろう。 (オレの知ってるサーディクはそういう鳥人(ひと)だ)  ライルに逆らい自身の信念に従ったサーディクを信じて、進む。 (オレが露台に追い詰められたとき、サーディクは急に現れたよな。隠し通路って、この辺りにあるのかも。そこに隠れててくれれば……、誰かいる!)  廊下の突き当たりに、音もなく飛遊し、足を組むような体勢のライルがいた。 「のこのこ戻ってきたか。俺のものになりにか?」  ライルは今日も口角を片側だけ上げて笑っている。やっとここまで辿り着いたか、待ちくたびれたと言わんばかりだ。  シャムスは条件反射で後じさりそうになるも、ぐっと床を踏み締めた。ライルとの決着も、ここでつける。 「復古の王国は諦めてもらいにだよ」  シャムスは、ライルを凛と見据えた。サーディクにまた会えたとき胸を張りたいから。 「オレはおまえのものにはならない。オレの、サブミッシブたちの意思を尊重できるようになったら、共生してやらなくもないけどさ。おまえも父上の民だし」  シャムスと仲良くなりたいなら、まず信頼に足るドミナントになってみろ、と言い渡す。  だがライルはあっさり笑い飛ばした。 「はっ、サブミッシブに何ができる? おまえが王宮内をうろちょろできたのも、おまえの手柄じゃない。うまくいくと思わせてから希望をへし折るのが楽しいから、見逃してやってたに過ぎない」  途端、長衣の下の背中が汗ばむ。シャムス隊の潜入は把握されていた。サブミッシブやニュートラルもいる隊員は無事か――?  思わず廊下を引き返そうとしたシャムスを、 「シャムス、おまえは物足りなくて戻ってきたんだ。痛みや怖さが快楽に変わる瞬間を、教えてやる。[Kneel]」  ライルがコマンドで釘づけにする。膝を突かず抗うのが精一杯で、その場から動けない。 「諦めろ……、人質もいなくて、王宮占拠は、うまくいかない……」 「人質なんざいくらでもいる」  事もなげに窓を指差す。宮下の街並みが広がっている。民をどうする気だ。 「虎人族のやつらが、そろそろラプター()になる。国軍も歯が立つまい」  あまりの衝撃で、シャムスは目の前がちかちかした。  虎人族が巨大化した肉体と剣より鋭く頑丈な手の爪でもって民を蹂躙する、いやな想像をしてしまう。翼があっても、ずっと羽ばたき続けてはいられない。 「そんな……っ、そんなの、許さない!」  上擦った声で叫ぶ。  しかも、攻撃衝動に身を任せてラプターが悪化したドミナントは、ひとに戻れない。屠るしかなくなるのだ。 「自分の仲間をそうやって使うのかよ。家ではパートナーが待ってるかもしれないのに」  協力させるだけさせてラプターで死なせたとなれば、獣人国との関係まで悪くなる。  それがいやなら王権をよこせというのか。 「仲間? パートナー?」  ライルは薄っすらと笑う。笑っているのに怖ろしい。彼の理想はドミナントによる支配すら越え、本物の捕食をよみがえらせて鑑賞することではないか、なんて感じる。 「どっちにしろ、おまえがプレイの相手をすればいい。[Lick(しゃぶれ)]」 「誰が、するか……っ」  シャムスは羽根を不規則に震わせた。さっきより抗う力が弱まっている。自分と民、自分と国の天秤に掛けられ、拒みきれない。  性的なコマンドには情念もこもっている。  王太子として民を守りたい。ライルの腰の前に跪く。信頼も愛してもいないのに口淫などしたくない。ライルから背けた頬に、ぽろりと涙が伝う。 「出来損ないなのに征服してもらえるのを悦べ」  ライルはシャムスの短髪を掴んで股ぐらに引き寄せた。直後、 「ぎ、ああぁッ」  しゃがれた呻き声が響く。茶色の羽根が散乱し、ライルの片翼の下部分がバサッと落ちる。  ……何が、起きた?  翼がなくなり開けた視界に映ったのは、長身で、銀髪に数束黒の混じった――サーディクだ。 「なかま、なみだ……ぱと、な」 「サーディク!」  生きていた。やっぱり生きていた! サーディクはいつもいつも助けに来てくれる、が。  懐に飛び込むことはできなかった。足の爪が異様に伸びて足趾ごと鉤の形になり、口を閉じても牙歯を仕舞いきれていない。銀髪はもつれ、片言である。  猛禽化している。白い頬と長衣には、返り血が散っていた。さっき想像した惨状みたいだ。  彼の横手、今は使われていない側妃用の私室の扉が開いている。  潜伏して救出を待つうち、ラプターに陥ってしまったのか。それでもシャムスの涙を察知して飛び出し、ライルに渾身の蹴りを喰らわせた。  シャムスが惹かれた鳥人(ひと)に、変わりない。そう思えば怖くない。抱き締めてあげようと身じろぐ。 「俺の翼を……っ、命で償え」  しかし激昂したライルが回し蹴りを繰り出したので、床に伏せざるを得ない。ライルの背中から血が飛び散る。  サーディクも応戦する。黒銀の翼の一部が欠けても、猛禽化していても、身のこなしは鍛錬を積んだ軍人のそれだ。 「忌々しい。あのとき片翼を抉り取るのを失敗しなければな」  ライルは形勢不利とみてか、側妃用の私室に駆け込んだ――シャムスの腕を掴んで。  ものすごく強い力だ。ライルは部屋を横切り、寝台の横の煙突のような穴を一瞥して、露台(バルコニー)の足掛け柵に乗り上げる。  まさか飛び立つつもりか? シャムスを片翼の代わりにしようというのか。 「おまえも[Come(来い)]。俺のものだ」  温風に煽られつつ、はっきり抗う。 「行かない。オレの意思だ。サブミッシブのオレにはできないことがあっても、できる鳥人(ひと)と協力する」 「本能を忘れて生きて何が楽しい? これがドミナントに生まれた俺の誇りだ」  ライルはどうしても共生したくないらしい。  今度はグレアでシャムスを従わせようとだろう、黒い瞳孔が大きくなる。  次の瞬間、シャムスの腰に別の雄の腕が回った。顎下を長い髪がくすぐる。サーディクが追ってきたのだ。背中に優しい体温と頼もしい心音を感じる。  顔が見えずともシャムスを離さないという意思を感じ、頬が熱くなる。力が湧く。  本当に、心底、サーディクが好きだ。他のドミナントのグレアなどものともしない。 「確かにおまえは猛禽も同然だ。でも、おまえが奪うだけのものを、与え合えるのがドミナントなんだ。サーディクみたいに信頼される、『鳥人(ひと)であれ』」  シャムスのとどめの一言で、ライルがシャムスの腕を離した。自分の行動が信じられないという顔だ。 「なん、だと。この俺が」  彼は知らない。ドミナントが「このサブミッシブには頭が上がらない」と思ったとき、事前に取り決めずとも、サブミッシブの発した言葉がセーフワードのように効くことを。  シャムスだって無策でライルの前に戻ってきたわけではない。ライルがシャムスにこだわっているなら、と考えた。 (そうやってセーフワードが効くふたり、父上と母上しか見たことないから、賭けだったけどね)  成功したのは間違いなくサーディクのおかげだ。  だが、助けてくれてありがと、と言う前にサーディクに突き飛ばされた。  寝台に叩きつけられる。さらに尖った牙歯がシャムスの頬を掠り、「ぴぃっ」と悲鳴が漏れた。圧し掛かられて動けない。 「サーディク?」 「くははっ、本能の前では信頼なんて無意味だ。せいぜい喰い殺されるがいい」  ライルが一転、狂ったように笑う。同時に、シャムスの腕という支えをなくした身体が傾いだ。柵から足の爪が外れ、笑ったまま落ちていく。 「みんな、頼む!」  よく通る声で、最短の指示を出す。激突音はしなかった。下に集合しているシャムス隊が対応してくれたはずだ。空蹴球仲間には一言で通じる。  一方、サーディクはキキキ、と猛禽めいた声を上げるのみ。ラプターが深刻だ。  官舎での短いプレイでいったんは収まったが、再発した。王宮占拠したりライルと決別したりで、心身に負担が掛ったに違いない。 (倉庫で「プレイして」って言ってくれたらよかったのに)  いや。わざとラプターを起こしたのかもしれない。一度は怪我を負わされたライルと、再び戦うために。  猛禽化状態が長引くほど身体への負担は重くなり、治療に時間が掛かる。それでもサブミッシブを――シャムスを守るためなら、ラプターも辞さない。  シャムスの知るサーディクは、そういう(おとこ)だ。  ライルは肝心なところがわかっていない。シャムスは、サーディクに食べられるのは怖くない。サーディクが独りで苦しんでいることのほうがずっと辛い。  シャムスもまた、そういう(おとこ)だ。愛しい鳥人(ひと)を、ひしっと抱き締める。金茶色の羽でも包む。 「オレだよ、サーディク。コマンド出して。ね? 味見でもいいよ」  少しでもラプターが収まればと、頭を撫でてやる。 「……っ」  ちょうど耳の横辺りの、翼の欠けた部分にも触れてしまい、痛かっただろうか。今度こそサーディクの牙歯がシャムスの喉笛に食い込んだ。  途端、荒ぶる碧眼が悲哀に染まる。対照的にシャムスは笑ってみせた。 「……どうして、ですか」  万感を込めた問い。どうして距離を取らなかったのか、どうして笑ったのか、どうして。  仰け反ったシャムスの長衣の立ち襟は大きく裂け、茶色の革が覗く。  こっそり着けていたつくりかけのカラーのおかげで、肌には傷ひとつなかった。  サーディクが視線を彷徨わせ、細く息を吐く。シャムスの抱擁と少々強引な[Kiss]、秘密のカラーの存在とで、鳥人(ひと)らしさを取り戻したようだ。 「ふふふん、愛の力ってやつ。サーディクこそ、なんでオレの知らないところで死ぬの」 「……死?」 「翼の一片を、見つけた。もう会えないかと思っただろ」  つい昨日の絶望が思い出され、サーディクの胸板をどんと叩く。「守ってくれてありがと」や「生きてて嬉しい」に先んじて、「失いたくない」が溢れてくる。  サーディクは、ああ、と片側の翼の付け根に触れた。 「命、引き換え……けじめ。間違い、きみ、涙……」  伸びた牙歯でしゃべりにくそうだし、片言だ。でも言わんとすることはわかる。  ライルと手を組んだのは過ちと認め、けじめとして王宮占拠事件を収めようとした。ただ、生きていてくれないとシャムスは笑えない。 「命懸けるなら、一生かけてオレを甘やかす方向にしてよ」  ちゃっかりねだる。もうパートナーはサーディク以外考えられない。実現のために話さないといけないことがたくさんある。 「やっと、守、れ……」  なのにサーディクは、最大の望みが叶ったみたいな安らかな顔で、頽れた。呆然とするシャムスの頬を、黒銀の羽先が掠める。 「――思い、出した」  刹那、雷が落ちたかのように閃いた。  八年前、ライルに抗うシャムスを助けてくれた、ふたりの青年。ミドハトとともにいたのは、サーディクだ。頬を撫でてくれた羽の、なめらかな感触が同じだ。  八年前だけじゃない。政務の間でライルに抱え上げられたときも、倉庫で心細かった夜も。はじめての訓練でサブドロップになってしまったときも。 「とっくに、ずっと、守ってくれてたんじゃないか……」  探す必要などない。いちばん傍にいた。  ラプターの過負荷が祟ったのか、ぴくりとも動かないサーディクの頭を膝に抱える。  こめかみの傷が露わになった。さっきライルが吐き捨てた「あのとき片翼を抉り取るのを失敗しなければな」は、八年前のことを指していたのだ。  パートナーになってくれないかな、とすら思っていた憧れのドミナントがサーディクだったと判明して、嬉しさに増して切なさがこみ上げる。  シャムスへの恨みは二倍ではないか。  もしかしたらサーディクは、友と自身の仇を討つべく、王宮に残ったのかもしれない。 (じゃあ、これも)  首のカラーに触れる。シャムスのものではなく、仇討ちを果たしたあと新鮮な気持ちで出会うサブミッシブに贈ろうとしていたものに思えてきた。  サーディクには、シャムスの気持ちに応えない根本的な理由があったのだ。  毎朝鏡でこの傷を見る度、身を挺して守ったのをなかったことのように過ごすシャムスへの恨みが積み重なったはずだ。  でも、どれだけ恨まれていたとしても、サーディクには生きていてほしい。

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