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第3章

 シャムスは講義中も浮かれきっていた。  三日前、サーディクがついにシャムスをパートナー候補として見てくれた(とシャムスは受け取った)のだ。  コマンドに抗う訓練なのはわかっている。うまく抗えたら、ご褒美に甘えさせてもらおう。  パートナーしか使わないコマンドとは、[Kiss]をはじめ性的な意図も持つものだ。 (他にも[Lick(舐める)]とか……ぴいい!)  シャムスは羽をばさばさばたつかせ、サーディクの裸の想像を掻き消した。刺激が強い。 「ほや?」  怪訝そうなルシュディーには、シウ肉などの食糧増産に関する解説に戻ってもらう。  恋はふんわりした憧れと違い、具体的な欲を伴うらしい。  とにかく次の訓練は、明日の夜、シャムスの寝室で行う予定だ。宮門の門番に話を通しておこう。 「騒がしいな、息子よ」  不意に、特大の焦茶色の翼が扉から覗く。羽をばたつかせたのを父に見られた。ばつが悪くてそっぽを向く。 「父上、何か用?」 「うむ。例の国境視察のため、余は明日から五日間王宮を空ける」  シャムスが何を考えていたのかより大事な話だった。  ライルの、「獣人国・魚人国との国境の軍備を実際に見て再検討してほしい」という要請をかわしきれなかったようだ。  とはいえ、他国に無駄に警戒させないよう守備を厚くし過ぎず、友好的な交流も受け入れるという王家の姿勢は変わらない。泰然として威厳もある父が、当主なりたてのライルに言い包められる心配もしていない。 「行ってらっしゃい。母上だけじゃなくオレにも土産よろしくね」 「ふはは、もちろん。その代わり――余が不在の間、護衛を撒くでないぞ」  父が一転、重々しく言う。王立公園での顛末は当然報告を受けただろう。  正直、この手の忠告は何度も聞いた。でもダイナミクスが表れてから八年間、支障なくやってきた。王宮の周りにごろつきはいない。「はいはい」と受け流す。  夕方、すべての講義を終えるや中庭へ飛び立った。今日の空蹴球の試合には、サーディクも呼んである。  影が長く伸びる中庭にはしかし、麗しい長身は見当たらない。遅刻はしない鳥人(ひと)なのに。 「サーディクはどうしたの?」 「病欠とのことである。非番でも訓練に顔を出す方なのにめずらしいそうである」  犀鳥(サイチョウ)人族の下士官に尋ねれば、サーディク隊から仕入れた情報を教えてくれる。  シャムスは腕を組んで思案した。  三日前は体調が悪そうな素振りはなかった。もしや、シャムスが王立公園に行くのをあまりに楽しみにしていたから、隠し通したとか?  ならば悪化の原因はシャムスにある。責任を取らないといけない。うん。  薄闇の中、クリーム色の壁の官舎を見上げる。今夜は有明月だ。  腹痛や頭痛に効く薬草を調合したもの、水分補給に望ましい果物、滋養強壮作用のある種実などをどっさり持ってきた(仲間の混族商人の、今日分の在庫をすべて買い占めた)。  最上階の突き当たり、国章が彫られた玄関扉をノックする。――応答なし。  眠れているならいいが、寝室から動けない可能性もある。ひと目確かめたくとも合鍵はない。うーん、と羽根をぱたぱた揺らして考える。 (パートナーも友達もいないって言ってたし、誰も看病してくれなかったら心細いよな)  いったん一階に戻り、建物の窓側に回り込んだ。見舞い品を包んだ布を胸に抱え、飛び上がる。他の部屋に住む将官を驚かせないよう、そっと三階の窓に到着した。  静かで暗い。だが鳥人(ひと)の気配はある。四角い透かし窓の縁に足の爪を引っ掛け、「オレだよ、入っていい?」と声を掛けてみる。  ほんのわずかに、呻き声が聞こえた。  居ても立ってもいられず、透かし窓のいちばん大きな隙間をくぐる。今日に限っては小柄なことに感謝だ。  籠型椅子(ソファ)の後ろに、アーチ型の扉がある。おそらく寝室に続いている。迷わず開けた。 「サーディク、具合どう」  直後、どんっと大きな音がした。びっくりして見舞い品の包みを取り落とす。  寝室も、居間と同じく備えつけの寝台しかない。ただ居間と違って、水差しやら革の切れ端のようなものやらが床に散乱していた。  サーディク自身、いつもきっちりまとめた銀髪を振り乱し、下衣が半分はだけた格好で寝台の陰に蹲っている。さっきのはサーディクが寝台から落ちた音か。相当苦しいらしい。 「サーディクっ、」  駆け寄って助け起こそうとしたシャムスに、サーディクはキキキ、と甲高く啼いた。  来るな、と言ったのだと思う。嘴のように尖りつつある牙歯が覗く。足の爪も伸びている。  これは――[ラプター(猛禽化)]だ!  ドミナントはダイナミクスが満たされないと、猛禽の性質が強く出る。攻撃性が増して周囲の者を傷つけてしまうし、力の加減が効かず本人の身体にも負担が掛かる。  サーディクはふうふうと呼吸を乱していた。そんな状態でありながら、咄嗟に寝台から落ちてまで距離を取ったのだ。シャムスを傷つけないように。  シャムスは立膝のまま、もっと早く異変に気づいてあげられればと奥歯を噛み締める。 「もう独りで我慢しないでいいよ。医者を呼んでくる」  そうは言ったものの、このサーディクを置いていくのは気が進まない。習慣で護衛を撒かなければよかった。 「いえ、薬、平気……」  もたもたしていたら、サーディクが床板に手を這わせる。指先が薬瓶を弾いた。  ラプター初期に限り、攻撃衝動を鎮静薬で抑えられる。  瓶の底に最後のひと粒が残っている。水差しは空っぽなので、見舞い品のみずみずしい竜眼の実を剥き、薬とともにサーディクの口に運んでやった。  碧眼がぶわりと見開く。シャムスの指ごとしゃぶりつかれた。唇の感触や吸いつく強さにどきどきする。 (これは看病だってば)  サーディクがこくんと薬を飲み下す。シャムスはじっと見守った。  少しして、サーディクが背筋を伸ばして座り直す。ばつが悪そうに口もとを拭い、下衣の腰紐を結んだ。 「……見苦しく、失礼しました」  薬が効いたようだ。なぜかシャムスのほうが汗びっしょりだ。まあ、サーディクが落ち着いてよかった。 「ううん。看病しようと勝手に入ったの、オレのほうだから」  まだ寝台に上がる気力はないのか、床で片膝を突くサーディクの隣で、シャムスも膝を抱える。ちょん、と羽先でサーディクをつつく。 「ていうか。世話役の任務以外で、プレイしてなかったの」  どのくらいの期間プレイしないとラプターに陥るかは、個人差がある。個人の中でも体調や環境に左右されるのだ、が。 「……今月は娼館へ行きそびれていただけです」  サーディクが口早に答える。  シャムスは石を飲み込んだみたいに気持ちが重くなった。今までサーディクは公娼とプレイしていたのか。 (パートナーがいないなら、そりゃそうだけど)  パートナーがいない期間、または対になるダイナミクス以外の相手と結婚した場合、娼館を利用するのは一般的なラプター/サブドロップ防止方法である。  頭ではそう理解できても、嫉妬心が蠢く。サーディクに体調を崩してほしいわけではないのに。 「なんでさ?」  相反する感情が交錯した結果、ひどく拗ねた声が出た。  サーディクはやや間を置き、見舞い品の包みを見るとはなしに見ながら答える。 「嫌がる、でしょう……?」  それって、オレが? とは確かめられなかった。  サーディクが自分の右手を左手で押さえ、ふーっと荒い息を吐く。剥き出しの腕の血管がはちきれそうになっている。  鎮静薬の効果は一時的なものだ。サーディクは虚勢を張っているのだ。  医者に診せるのがいちばんとわかっている。でも、今、少しでも苦しみを和らげてあげたい。何か手段はないか。医者である、雁人族の空蹴球仲間の話を思い起こす。 『急性なら、治療院に入院しなくとも一回のプレイで、だいぶダイナミクスが安定しマス。ただ、おすすめはしないデス』  言葉を使ったプレイを通して、鳥人(にんげん)性を保てる。  姿が変わりつつあるが鳥人(ひと)の言葉を話せているので、サーディクの症状は急性だ。まだ対応できる。シャムスはサーディクの銀黒髪をくぐり、至近距離で目を合わせた。 「オレとプレイすれば、もっとラプターが収まるよね。今すぐプレイしよう」  ちょうどサブミッシブのシャムスが目の前にいる。だが、サーディクは頑なに頷かない。  公娼のような手管のないシャムスでは、ダイナミクスが満たされない? 「結構です。セーフワードでも……止まれる保証は、ありません。怪我をさせる、かも」  なんだ、そんなことを気にしていたのか。  医者が治療院外でのプレイ治療を推奨しない理由もまさにそれだが、シャムスにとっては「そんなこと」だ。にかりと笑ってのける。 「オレ、サーディクになら食べられてもいいよ。だからほら、コマンド出して」  プレイは、サブミッシブが「このドミナントは自分を傷つけない」と信頼するからこそ成立する。絶対の信頼の下で、食べる瞬間の征服感や充足感を疑似的に与えるのだ。  父以外のドミナントに、喉笛を晒したいなんて思う日が来るとは思わなかった。  サブミッシブはドミナントに「尽くしたい」という欲求を持つ。王太子としては抗わないといけない。でもひとりの鳥人(にんげん)として、サーディクを癒してあげたいという気持ちを無視できない。  これを、きっと、愛というのだと思う。  家族や仲間に抱く温かい気持ちと、半分は同じ。もう半分は、サーディクが満たされるなら怖さや痛みさえ受け入れるという、彼にしか抱かない献身だ。 「きみはどうして、そういうことを、さらりと言うのです……」  サーディクが口もとを手で覆う。それでも隠しきれず、半ば呆れたように絞り出す。 「さらっとじゃないし。サーディクだからだし」  シャムスはちょっとむっとした。そりゃあ甘やかされたり褒められたりが好きだ。でも、翼を固く閉じて、なおも独りでやり過ごそうとするサーディクを放っておけない。  どうしたら信頼が伝わる? ドミナントの「支配したい」という欲求は、「食べたい」だけじゃない。もっと深いところに「信頼されたい」がある。そこが猛禽と鳥人の違いだ。  シャムスは、サーディクのこめかみの傷を撫でた。 「サーディクこそ、どうしてオレばっかり守って、自分を守ろうとしないの?」 「私は、ドミナントですので」 「オレにもサーディクを守らせてよ。もしうまくできたらいっぱい褒めて。オレの躾係でしょ」  さすが仕事鳥人(にんげん)、務めを思い出させたら、ふっと頭をもたげる。彼の中で錘がひとつ取れたようだ。 「では、少しだけ。……[Hug]」  シャムスは腕と羽を広げ、サーディクの身体を包み込んだ。  サーディクは下衣が肌に張りつくくらい汗ばんでいる。けっこう限界だったんじゃないか。  それならもっといろいろなコマンドを使ってもいいのにと考えていたら、首筋の匂いを嗅がれた。ぴゃっと羽根が逆立つ。早くも形勢逆転だ。  あっという間に脇を掴まれ、寝台に載せられる。ぎしりと木脚が軋んだ。 (プレイではいつも、こんなふうにしてたのかな)  無表情で淡々とした普段とは違う。再び公娼への嫉妬がよぎった。  ただ口には出していない。なのに、否定するみたいにサーディクがぱっと退く。  伸びた爪がシャムスの長衣と下衣を裂いてしまい、肋骨が覗いていた。  それでも怖くはない。ゆったり座ったまま、笑ってみせる。 「大丈夫。次のコマンドは? また腹撫でる?」  膝立ちのサーディクの腕を羽で撫でる。サーディクの身体の強張りが少しやわらいだ。 「……いえ。もう一度[Hug]を」  うん、とサーディクを抱き寄せる。すっぽり覆われたのはシャムスのほうだけれど。金茶色の翼と黒銀の翼が、重なり合う。 「味見してもいいよ」 「……、[Kiss]」  シャムスは日に焼けた喉を、ただ反らした。  サーディクが鼻先を寄せてくる。ぺろりと舌を這わされ、「ぴぁ」と声が裏返った。サーディクは構わずシャムスの服の裂け目を辿り、肋骨を甘噛みする。彼が身じろぐ度に銀髪が流れ落ちてきて、それすらくすぐったい。 「どこもかしこも、美味です」  ご褒美の言葉を囁かれ、今度は全身がじんわり火照った。身体の芯から蜜が溢れるみたいで気持ちいい。 「もっと味見して」  抗うどころか、舌足らずにねだる。  今回のプレイの目的はサーディクのラプターを抑えること。でも、身体への口づけが再開するとふわふわしてしまう。肌に唇をすべらせるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。 (ふふふん、サーディク……オレのこと、美味そうって結構思ってたのかな)  サーディクも事務的ではいられないようだ。瞼やら手指やら踝やら、シャムスの服から出ている部分すべてを味わってもまだ物足りなそうに舌なめずりする。 「口の中、は? オレのはじめて、あげる」  シャムスはちろりと舌を出した。サーディクの咥内の広さや唾液の味を知りたい。  サーディクが喉を鳴らす。胡坐の膝にシャムスを乗せた。角度はどうすればいいかとか息は止めるのかとか考える暇なく、唇を塞がれた。 「ぅんん……、ふっ、……ぁ、……」  シャムスの口の中で、サーディクの舌が自在に動き回る。ときおり尖った牙歯も掠める。  歯と歯茎の境を辿られる感覚に肌が粟立った。頬裏の弾力を確かめられる。上顎を舐めてもらうのがいちばん好きだ。舌を絡ませて互いの唾液を掻き混ぜるのもやめないでほしい。  めいっぱい求められて、嬉しい。めいっぱい応えることで満たされていく。 (サーディクは、パートナー候補だから、抗えなくても、いいよな)  サーディクは例外だ、と誰にともなく言い訳する。  シャムスを取り囲む黒銀の羽が狭まり、身動きできない。サーディクの肩甲骨に回した手で翼の付け根を引っ掻くだけ。  サーディクも()くなっているといいのだけれど。  飲み込み切れなかった唾液が、口の端からこぼれた。サーディクの羽先に拭われる。 (ぴぁ? このなめらかさ、懐かしいような……)  シャムスはぼんやり目を開けた。サーディクの顔がすぐ近くにあって焦点が合わない。征服感を与える代わりに与えられる愛撫に溺れる。息継ぎの度にキスは甘く優しくなっていく。  ちゅっ、ちゅくと響いていた粘着音が、不意に途切れた。 「……殿下の舌は美味ですね」  口調が元に戻っている。羽も腕も力が弱まり、ふたりの身体の間に空間ができる。それを名残惜しく思っていたら、サーディクの牙歯がほろりと折れた。 「わっ、痛い?」 「いいえ。ダイナミクスが安定した証拠です。ありがとうございました」  プレイの労いとして、顎下を撫でられる。  ラプターが収まったなら何よりだ。ただシャムスのほうは、舌を貪り合った余韻がまだ残っている。 「ふふふん。続きは明日しよう。訓練とは別にさ」  コマンドに抗うだけでなく、甘える約束も取りつけようとした。はじめての親密なプレイの昂揚もあって、今なら何でもできる気がする。  しかし、サーディクの表情がいつにも増して無に塗り替わった。何だ――? 「殿下。明日の訓練は、や……」  彼らしくなく言い淀む。足の爪を握り込んで、言い直す。 「飯屋での外食に変えませんか」 「えっ、やだよ。なんで?」  情熱的なプレイとの落差に戸惑いつつ、シャムスは首を横に振った。外食自体は楽しいが、訓練としても、好きになってもらう作戦としても、大きな後退である。  パートナー間で使われるコマンドを使ってみて、パートナーになるにはシャムスは仔どもっぽくて魅力が足りない、と思われたのだろうか。ずきんと胸が痛む。 「では、寝室の窓の鍵を閉めていてください。いえ、やはり窓際にいてください」  サーディクが言い募るも、意味がよくわからない。寝室の円窓は透かし窓で、鍵なんかついていない。宮門でもあるまいし。 「訓練、延期したいの?」  ラプターで恰好悪いところを見せて恥ずかしくなった? これっぽっちも幻滅していない。  王太子と躾係の関係を越えている? 今さらだ。  プレイを通してサーディクの心を少しは温められたかと思いきや、まだまだ距離があるようだ。  好きになってほしい一心のシャムスは、「明日の予定は変えないもん」とごねた。  ――いつも無表情なサーディクが、焦りめいた色を滲ませた理由を、ちゃんと聞いておくべきだった。  翌日の夜、シャムスは湯浴みを済ませ、下衣と寝台を整え、サーディクを待った。 (来てくれるよな? 世話役は王命だし)  まだシャムスに特別な感情がなくても構わないから、一緒にいたい。  円窓から宮門を見下ろしていたら、月の耀かない夜闇に、一対の何かが光った。それもひとつじゃない。次々と坂を上ってくる。  あれは――獣人の目!? 彼らは夜、目が光るとか。  丸耳と縞模様の尻尾を持った虎人族と思われる(おとこ)たちが、剣や弓で武装し、門番と揉み合う。シャムスが「サーディクが来るから閂を外しておいて」と頼んだために、易々侵入を許してしまったようだ。  しかも門番たちが獣人隊に手こずるうち、複数の鳥人が宮門上空を通過する。  建物三階分の高さのある宮門を超えられる種族は、限られている。門番の加勢と思いきや、誰も国軍の黒い軍服は着ていない……。 (っ、侵入者だ!)  現実味のない光景をしばし眺めてしまったが、はっと羽根を逆立てせる。  父が国境視察でいない今夜、王太子のシャムスが皆を守らなければ。王宮には家族だけでなく、侍雌(じじょ)や侍医など五十名ほどが寝泊まりしている。 「殿下! 何者かが王宮に忍び込みました。落ち着くまで、南の離宮へお連れします」  異変を察知した護衛たちが寝室に駆け込んできた。  南の離宮は、冬を過ごす別荘だ。避難を促されるということは、侵入者が手強く、制圧に時間が掛かると踏んだのだろう。  なおさら自分だけ逃げられない。 「オレは大丈夫だ。先に母上を連れ出して。早く!」  シャムスは声を張り上げた。  母は八年前の事件が思い出され、不安に違いない。その上、サブミッシブだ。肉食の獣を祖とする虎人族はドミナントが多く、鉢合わせさせられない。 (でも、どうして急に獣人が攻め込んできたんだ? 何年もお互い不戦で平和だったのに)  国境沿いに住まうブーム家のライルは、この企みに勘づき、父に対策を掛け合おうとしたのか――?  考え込んで足を止めてはいられない。渋る護衛の背をぐいぐい押し、シャムスも廊下に飛び出す。  寝込みを襲われたためか、ばたついている。当直の軍人が行き来するものの、精鋭は父に随行しており、手薄と言わざるを得ない。  サーディクの顔がよぎった。王宮に来ていないか。下士官を統率してくれたら助かるのだが。 「シャムス」  背後から声を掛けられ、勢いよく振り返る。  想い人ではなく、空蹴球仲間の下士官だ。ちょうど当直だったらしい。 「侵入者の数が多い。いったん脱出して立て直すである」  空に逃げれば、翼のない獣人は追ってこられない。まさにこういった事態を想定し、サブミッシブでも自分の身を守れるよう、王宮壁面から飛び立つ自習(・・)もしていた。  ただ、鷲人のシャムスみたいに高く速くは飛べない種族もいる。  獣人の狙いは、鳥人か? 金品などの物か? 贅沢品はないが。となると、王宮そのものか? もし王宮占拠が目的なら、みすみす明け渡すことになり兼ねない。でも――皆の無事がいちばん大事だ。 「わかった。みんなを二階の政務の間に集めて。扉を守りながら、窓から脱出しよう」  シャムスは端的に指示を出した。空蹴球だってただ遊びでやっていたわけじゃない。司令塔としての指示は、王太子としての指示に重なる。  みな白大理石の廊下を低く飛び、獣人の追跡をかわして政務の間にやってきた。中庭くらいの広さがあり、窓も大きい。高さに怯む者を宥め、続々と送り出す。  護衛の姿が見えないのは、母と外へ出たからだろう。 (よし。父上、しっかり留守を守ったよ)  そこに、音もなく風が起こって。 「[Kneel(跪け)]」  扉を突破してきた(おとこ)の声で、その場に残っていた全員がへたり込んだ。コマンドと同時にグレアも放たれたようで、ドミナントも動けなくなる。  シャムスは片膝を突きつつも、近くの者を守るべく羽を広げた。  頭上を飛遊する雄は、相当ドミナントの力が強い。どこの誰だと夜目を効かせる。  身長はサーディクよりは低いが手足が長く、翼を避けて瑠璃色の布を巻きつけた肢体は無駄がない。茶色の羽に散る白の斑点が目を惹く。  黒と茶が入り混じった髪の下半分は刈り上げ、上半分はうねっている。褐色肌で、目鼻がくっきりとして彫りの深い顔は――見覚えがある。 「ライル……!」  父の四十回目の誕生記念式典以来数年ぶりだが、間違いない。  父とともに国境視察中のはずが、なぜ王宮にいるのか。それも、鳥人の脱出を手伝うどころかコマンドを放つとは何ごとだ。 「今夜より王宮はブーム家の支配下だ」  彼の傲慢な言葉に、面食らう。  もしや、父は彼の罠に嵌まり、国境へ誘い出されたのか? 国王不在の隙に、虎人族と通じて王宮へ乗り込んできた……。  シャムスは足の爪を強く握り込んだ。意見が対立しているからといって、こんなやり方で叛旗を翻すなんていただけない。父はライルを排除せず、進言に耳を傾け続けていたのに。 「人質を選り分けて閉じ込めろ。ドミナントは邪魔だ、摘まみ出せ」  ライルは王の恩情など知らない顏で、自分の手下に命令する。  たちまちブーム派が政務の間になだれ込んできた。さしものシャムスも血の気が引く。みなを一箇所に集めたのがあだになったかもしれない。 「やめろ、乱暴するなっ」  シャムスの言葉は、むなしく受け流されるばかり。ドミナントはグレアで外へ引き摺り出され、サブミッシブはコマンドによって捕らえられる。  最悪の展開だ。  自分の非力さが悔しい。飛び交うコマンドにぐったりしてきた。サブミッシブのシャムスには、民を守れないのか。  目の前で好き勝手するブーム派は、梟人族と虎人族に限らず、他の種族もいた。その中に――直立不動でいる、長身の銀髪碧眼を見つける。 「サー、ディク?」  見間違ったりしない。床を這うように近づき、なめらかな黒銀の羽先を掴む。 「なんで、ブーム派の中にいるんだよ。ねえ」  サーディクは無言でシャムスの手を払った。目も合わせてくれない。でも、よく見るといつもの無表情ではないような……。 「なんでって、その鷹人は俺の手駒だが。おまえの世話役になる何年も前からな」  サーディクに代わり、音もなく舞い降りてきたライルが答える。さっきまでシャムスに見向きもしなかったのに。 「手、駒?」  話を呑み込めないシャムスが滑稽に見えるのか、にやにやと笑みまで浮かべた。 「ああ。王太子を飼い馴らし、王のいない新月の夜に宮門の閂を外させた。おかげで楽に占拠できた」  何だって――? 息をうまく吸えなくなる。  サーディクがシャムスの世話役に就いたのは、王命だ。今日も訓練を行うはずだった。 (違うって、嘘だって、言ってよ。早く)  サーディクを見上げ、悲痛に願う。その一方、シャムスの頭の中で、一見ばらばらの出来事が空蹴球の陣形みたいにつながっていく。  シャムスの寝室での訓練の提案。サーディクの部屋に落ちていた、茶に白の斑点の散る羽根。  王立公園でブーム派のごろつきが口にした、「ここで連れてっちまうか?」という一言。  距離を感じる物言い。流れ星に似た光……その実、王宮を偵察する梟人族の目。  サーディクはよく夜空を見ていた。結論を導き出したくなくて、小さく首を振る。 (訓練の段階を上げたのは、オレが立派な王になる補翼でも、仲良くなれたからでもなくて、ライルたちを王宮に引き入れるためだったの?)  でも、昨夜、サーディクはシャムスを王宮の外へ連れ出そうとした。  窓際にいろというのも、王家が使う王宮最上部なら獣人も鳥人も辿り着くのに時間を要するから、その間に飛んで逃げろと言いたかったとも受け取れる。  一筋の希望が差し込む。サーディクは裏切ったりしない。ライルに弱みを握られているなら、事情を聞いてあげたい。 「サーディク、オレが」 「見ないうちにだいぶ美味そうになったな、シャムス。[Look(こっちを見ろ)]」  だがライルに邪魔される。無理やり見つめさせられた顔は、世間では美雄(びなん)とされる類だが、生理的な嫌悪を感じた。  ひと蹴り喰らわせてやりたいところだ。でもシャムスは王太子なので、毅然と対応する。 「こんなやり方をしなくても、話があるなら聞いてやる。みんなを解放しろ」  コマンドに従ったのではなく、自分の意思でライルと相対したように装った。政務の間にはまだ侍雌も軍人も残っている。 「ははっ。その強がる顔、俺好みだ。屈服させたくなる。[Roll(床に転がれ)]」  対するライルは片側だけ口角を上げて笑い、コマンドを重ねた。  シャムスは全身に力を込めて耐える。  というか、シャムスがサブミッシブだと知らないはずなのに、なぜグレアでなくコマンドを使ってくるのか。  両親が打ち明けるとは思えない。ルシュディーは数十年間一度も王家の秘密を洩らしたことはない。とすると、やはりサーディクが暴露したのか。  当のサーディクは、壁際に佇み、コマンドに抗うシャムスを冷ややかに眺めている。王立公園で守ってくれたときとは別人だ。  ライルの強要より、サーディクの態度のほうがこたえる。サブミッシブの本能を抑える気力を削がれ、シャムスはあえなく無防備な腹を晒した。  翼は身体の下敷きで飛べない。屈辱と恐怖と、相反する被支配欲で、ぐちゃぐちゃになる。 (抗う訓練をしてたのに……。サーディク、オレを守って)  羽根を震わせながら、想い人を見上げる。  サーディクは手で口もとを覆い、 「その辺りにしてはいかがですか。サブドロップに陥って気を失うと、運ぶのに難儀します」  とライルを制した。ごく事務的だし、シャムスの秘密を口にもしたが、シャムスを庇う形になったのも確かだ。 「サブミッシブはこれだから困る」  ライルが鼻で笑う。コマンドの強制力が弱まった。  シャムスは脂汗を掻きながらも起き上がり、懸命に唇を動かす。さっき邪魔されて言えなかった言葉を紡ぐ。 「……サーディク。今度はオレが守ってあげる。助けろって、命じてよ」  サーディクの口もとを覆う仕草は、本心を隠すときに出るのを、知っている。本当は別のことを言いたいに違いない。  サブミッシブとして守られるだけでなく、王太子として守ってあげたい。  サーディクが小さく息を漏らす。ライルみたいに哂ったのかもしれない。 「どうしてきみは……、この状況でも、私がどちら側の鳥人かわかりませんか」 「サーディクこそ、自分の褒め方の自覚ないの? 優しいふりじゃなかった」  サーディクがまた手で口もとを覆う。無表情を保てないらしい。 「信頼も愛情もありません。ダイナミクスに則った、単なる作業です」  でも、続いたのは苛立ちすら孕む声だった。  シャムスの献身も恋心も、打ち砕かれる。  サーディクもシャムスに少しずつ興味を持って、好きとはいかなくとも、王命と関係なく向き合い始めてくれたと思っていた。実際は、浮かれていたのはシャムスだけ。 「ご存じないとのことなので、この機にお話ししましょう。八年前、殿下を助けたのはミドハト――王立公園で居合わせた鳥人です」  サーディクが堰を切ったように話し出す。  八年間憧れてきた恩人が、ミドハトだって? 「彼は軍学校進学を目指して自主鍛錬中、殿下の身代わりとなり、生涯癒えない傷を負いました。仕官の夢も諦めざるを得なかった」  シャムスは絶句した。あの痛々しい片翼は、たったふたりで暴力的なごろつきに立ち向かった結果だったのか……。 (家が北の森に近いって言ってたな。傍で鍛錬してたんだ)  やんちゃなどではなく自己犠牲だ。彼が夢を失い不便な生活を強いられていた間、シャムスは「いつか探し出す」なんて呑気なことを言っていた。 (そんなの、次代の王に相応しくないんじゃないか?)  指先が冷える。すぐそこにサーディクの大きな手があるが、温めてくれるはずもない。シャムスは彼の旧友の大怪我の原因かつ恩知らずなのだから。  冷たい理由がわかった。ずっと恨まれていたのだ。優しいのに冷たいふりをしているのではなく、恨みを抑えて冷たいくらいで済むようにしていた。  サーディクの翳りは、八年間抱え続けた復讐心。趣味も友もつくらず、懸けてきた。 「友のような悲劇を生まないためにはどうすべきか、私なりに考えました。そして、サブミッシブはドミナントに管理されていればよいという結論に至りました」 「俺の掲げる理想に賛同したってわけだ」  ライルがサーディクの肩に肘を置き、ご丁寧に駄目押しする。  ブーム派は、サブミッシブは建物の奥に閉じ込めておくべきだと考えている。そのサブミッシブを支配するドミナントとプレイだけしていれば、他のドミナントにいいようにされない。守ったりだとか周りの手を煩わせない。 (確かに、オレと母上が不用意に出歩かなければ、あんな事件は起こらなかった……)  ミドハトと再会したサーディクは、めったになく微笑んだ。事件の前はきっともっと笑っていただろう。シャムスはサーディクの笑顔をも奪った。  サーディクからすれば、ライルと通じ、仕官を経て八年目にして「世話役」というシャムスに報いを受けさせる好機を得た。  王宮に仲間を引き入れ、甘い考えのナスラーン家から王位を奪う。国政として、シャムスはじめサブミッシブをドミナントの管理下に置く。そうすれば、サーディクの目的は成就する。 (サーディク、オレを見てよ)  ライルの当主就任をきっかけのひとつに、彼にも対抗できるよう世話役を設けたことで、サーディクと出会った。秘密の訓練を通してサーディクに恋をし、追いかけていった先で、ライルが待ち構えていた……なんと皮肉な輪だろう。  「管理」に恋愛感情はない。サーディクは、はじめからシャムスを利用するつもりだった。褒め言葉も、抱擁も、口づけさえも虚構。義務ですらない。 (サーディクってば……)  羽先からほろほろと朽ちていくかのように、脱力する。  こんなにも辛いのは――初恋だったから。サーディクは、恋心を育んだ上で枯らすという、最も残酷な方法を取った。  サーディクはシャムスから顔を背けている。ブーム派の(おとこ)がやってきて、ライルに耳打ちする。 「王妃は逃げた? ちっ、やっと俺のものにできると思ったのに……まあいい。シャムスは確保した」  シャムスは失意の中、ライルにぞんざいに抱え上げられた。足首に何かなめらかなものが触れたが、目を向ける気力も湧かない。  下士官たちが「殿下……!」と、自分も苦しいのに駆けつけようともがくのが見えたが、手は伸ばさない。守られるに値しない。 (償いになるなら、サーディクの気が晴れるなら、これでいいか……)  半ば投げやりな気持ちがかろうじてあるのみで、王宮の奥へと連行された。

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