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リナリアを胸に抱いて1
あの日、決めた。
貴方を愛することだけが、俺が生きる理由になった。
その日の父は、珍しく機嫌が良かった。苦みばしった顔立ちの頬が僅かに緩んでいる。些細な変化だが、あまり感情を表に出さない彼にしてみれば、至極珍しいことだと雷は思った。
書斎の椅子に腰かけた父の傍らには、制服姿の兄が寄り添うように立っている。彼らと対峙するように、雷とその隣に母が立つ。母は淡々とした表情で時折時計に目をやっていた。
普通の家庭がどんな風か雷にはよくわからない。だがきっとこんな風に各々が冷え切った佇まいで顔を合わせるものではないと想像できた。
(家族四人が揃ったのは、いつぶりだろう。……別に嬉しくもないけど)
小学生の雷は冷めた目のまま、父が口を開くのをただぼんやりと待っていた。
「先日のバース検査の結果だが、九十九パーセント、朔はアルファ性とのことだ」
(アメリカの検査機関、日本より精緻で素早く結果が出るって前に母さんが言ってた)
五つ年上の兄にもたらされた結果には別段意外性はなかった。むしろ一族でアルファでないものを探す方が難しいからだ。雷は父の手元に置かれた紙にさっと視線を走らせる。年々バース検査ができる年齢も早まっているらしい。父からその事実を告げられた時、兄の顔は誇らしげだったのか、それともいつものような仏頂面だったのか。今となってはよく覚えていない。
しかし兄は幼い頃から一族の小さな王の様に振舞ってきた男だ。やがて父の持つ全てを受け取る準備のために、努力を惜しまないできた。きっとこの瞬間を待ち望んでいたはずだろう。
「兄さん、おめでとうございます」
雷は子供らしからぬ貼り付けたような笑みを浮かべ頭を垂れた。そしてそのままもう、兄の顔を見ようとはしなかった。兄弟であっても、これでもう完全に一族内での序列が決まったも同然だ。
父はそれだけを告げると椅子から立ち上がる。自らの後継者たる兄を伴い、妻と『凡庸な』下の息子を置いて部屋を出て行った。
彼らが去った後、雷はゆっくりと頭を上げる。すると傍らにいた母がより明るい窓辺に歩み寄っている。父の書斎机を回り込み、窓を大きく開け放った。
雷の頬を早春の冷たい風が撫ぜ、無意識に身が震える。しかし母は息子のそんな仕草を気にも止めず、髪を乱す風を受けたまま青空を見上げている。
アルファ性を持ち仕事一辺倒、母は兄と自分を生んだというだけで『母親』というポジションを割り当てられたような、そんな人だった。
親子関係は希薄で、最低限の会話しかない。そんな無駄口を叩かぬ母が背中越しに呟いた。
「終わった」
独り言かと思ったが、続けた言葉はたしかに雷に向けられていた。
「おめでとう、ってとこかな。あんたもあたしも。これで自由だ」
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