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2.魔法使いと弟子(後編)
「あの、師匠」
耳慣れない幼い声が使う耳慣れない呼称に、アシュレイは魔法書から顔を上げた。思いのほか近くに立っていたテオバルドと目が合って、わずかに瞠目する。
――そうだ、息子だったな。
「師匠?」
「終わったのか?」
なんでもないふうを装って問い返すと、テオバルドは衒いなく首肯した。
「はい。これで、どうにか眠ることができそうです」
「そうか」
つまるところ、耐えがたく汚かったらしい。清々しい笑顔に、アシュレイは短く頷いた。満足したというのであれば、それでいいと思うほかない。
窓から差し込む光は、いつのまにか随分と強くなっていた。夕方に近い時間と気づき、少しだけ驚く。これも血の成せるわざなのだろうか。テオバルドの気配に違和感がなかったので、ついいつもの調子で読書に没頭してしまったのだ。
いまさらながら見渡した居間は、物の配置は換えないまま小綺麗に整えられている。頭の良い子どもだと感心していると、「それで」とテオバルドが問いかけてきた。
「食事の支度はどうされますか?」
「食事」
「はい、食事です。師匠はいつもどうされているのですか?」
居間の隅に置かれた調理用ストーブを見やって、わずかにテオバルドが首を傾げる。
「教えていただいたら、たぶん、扱えると思いますが」
燃料を使うストーブは、火の扱いがなかなかに厄介な代物だ。掃除にも手間がかかるので、アシュレイはほとんど使用していない。煮炊きは暖炉でできるから、不便もしていなかったのだ。
町中の飯屋の息子であるテオバルドにとっては、身近な存在であるのかもしれないが。
――しかし、そうか。食事か。
弟子を取るということは、そういったことも考えないとならないということか。ますます面倒くさい。溜息を呑み込んで、ちらりと炊事場に目を向ける。
面倒だから使わないというだけで、アシュレイとて扱えないわけではない。流行りもの好きのルカが嬉々として設置した折に説明も受けている。ごくまれに使用することもある。
まぁ、その際は、大魔法使い の特権を用いた横着はしていたが。特権、もとい、魔法。至極合理的な解決策である。
目撃したルカに風情がないと呆れられたことはあるが、風情より利便性を取ってしかるべきだろう。その理論でもって「そんなもの魔法で」と説明するつもりでいたアシュレイだったが、途中でふと言葉を切った。
アシュレイは大魔法使いだ。魔法は杖を媒介として発動することが基本だが、簡易なものであれば、杖を使わずとも行使することができる。それだけの魔力が自分には漲っているからだ。だが、しかし。
「そんなもの?」
不思議そうに問い返すテオバルドの身体は、驚くほどに小さい。この年から魔法漬けにすることは、もしかするとあまり良くないのかもしれない。
無言のまま悩んでいると、再び居間に高い声が響いた。
「あの、師匠?」
「おまえの家ではどうしていたんだ」
苦肉の策でアシュレイは尋ね返した。
住み込みの弟子に食事の支度を言いつけること自体は、おかしなことではない。
だが、アシュレイは、生後間もなくこの森に捨てられたところを拾われて以来の住み込み弟子だったので、全寮制の王立魔法学院に入学するまでの食事は、すべてルカが世話をしてくれていたのだ。思えば、随分と甘やかされた師弟関係であったものである。
星と同じ色の瞳を瞬かせたテオバルドが、またわずかに首を傾げた。動作に合わせ、イーサンと同じ夜色の髪がさらりと揺れる。イーサンの髪は硬くてあちらこちらに跳ねていたから、質はエレノアに似たのかもしれない。
エレノアの背中で揺れる赤毛のみつあみを、なぜかアシュレイはよく覚えている。
「師匠は、あまり料理もされませんか? その、ここ最近という意味で」
テオバルドの視線が、すっとストーブのほうへ動く。雑然とした居間の中で炊事場がやたらときれいだった理由に思い至ったのだろうが、そのとおりである。
この数日、集中すべき案件があったので、食事も睡眠もほとんど取っていなかった。沈黙を決め込んだアシュレイに、恐る恐るといったふうにテオバルドが口を開く。
「母さんが言っていました」
「ほぉ、エレノアが」
エレノアは王立魔法学院の一学年後輩であったので、それなりに知った仲である。
「もしかすると、師匠は草を食べただけで食事を済ませた気になっているかもしれないから気をつけなさい、と」
「草ではない。俺が煎じた薬だ。滋養になる」
「その場合は、あなたがつくりなさい、と」
「……」
「父さんも言っていました。もしかすると、最低限の栄養を取れたらいいと師匠は言うかもしれないけれど、食事とはそういうものではない、と」
いかにもあの男が言いそうなことではあった。なにせ、もう何年も「代金は要らないから、とにかく店に食べにこい」としつこく誘い続けている男である。
頑なとしてアシュレイが赴かないので、意地になっているだけの気もするが。
「温かいものを団欒しながら取ってこそ栄養だ、と。……それに」
「それに、なんだ」
中途半端に口ごもられ、おざなりに続きを促す。ほんの少し躊躇いを見せたテオバルドだったが、結局、はっきりとこう言った。
「師匠が偉大な大魔法使いであることに間違いはないけれど、それはそれとして、生活能力の低さには目を瞠るものがある、と」
今度こそ黙りこくったアシュレイに、テオバルドが神妙に宣言をする。
「だから、がんばります」
「……そうか」
としか、もはや言いようがなかった。すると言うのであれば好きにすればいいが、あの夫婦は、ふたり揃って息子になにを吹き込んでいるのか。散々な言いようである。
――案じるくらいなら、弟子入りなどさせなければいいものを。
そもそも、エレノアでも教えることはできたのではないか。気がついた真実に、アシュレイは舌打ちを呑み込んだ。本当に、あの男は口ばかりがよく回る。
はりきって炊事場で奮闘を始めたテオバルドを後目に、溜息ひとつで本を開き直す。あの言いようから察するに、エレノアなりイーサンなりが仕込んだ可能性はあるが、子どもには難しいのではないだろうか。
果たして、過大な時間をかけて完成したスープは、味がほとんどない上に生煮えの部分も多いという散々なものだった。予想どおりと言えば予想どおりの結果である。
「ごめんなさい」
だが、テオバルドはもう少しまともにできるつもりでいたらしい。あまりにもしゅんと謝るので、アシュレイは「しかたない」と鷹揚に慰めた。ストーブの扱いは難しいのだ。
「火の加減の問題だろう。次はそこを意識すればいい」
実験とは、挑戦と失敗の繰り返しで進むものである。このスープも食べることができないほどではない。はじめてであることを考慮すれば、上出来の部類だろう。改善の余地はあるというだけで、予測もできていたことだ。
暖炉で事足りたのではないかという疑惑は拭えなかったが、指摘することなく淡々と食事を進める。それもまた経験と判断したからだ。
「はい、師匠」
不安そうにアシュレイを見つめていたテオバルドが、はにかむような笑みを見せた。
「では、明日はそこに気をつけて、もっとがんばります」
「そうか」
「明後日も、その次も」
子どもらしいまっすぐさに、そうか、ともう一度頷く。努力を重ねていこうとする姿勢は、弟子として悪くなく、好ましいものだった。
優秀な魔法使いの条件には、さまざまなものがある。持って生まれた魔力の量に生涯を左右されることも事実だ。けれど、アシュレイは勤勉さこそが重要であると信じている。
正しい知識と経験を積み上げた先に、偉大な魔法使いとしての道があるのだ、と、そう。
――十五までに教えることが山ほどあるな。
取ったばかりの弟子と同じ食卓を囲み、明日からの日々についての考えを巡らせる。とんだ面倒ごとの弟子取りであったものの、思いのほか悪くない時間だった。
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