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3.あらしのよるに
森の家の窓を、大粒の雨が叩いている。嵐の夜だった。
ベッドの脇にある書き机で魔法書を繰っていたアシュレイは、ドアを叩くかすかな音に「なんだ」と声をかけた。弟子に取って三月が経つが、夜に訪ねてくるとは珍しい。
訝しんでいるうちに、ぎしりと扉が開いた。寝間着姿のテオバルドが、おずおずと足を一歩踏み入れる。ぱたんと扉を閉めて、けれど、その前から動く気配はない。
「なんだ、どうした」
「魔獣の」
静かに問いを繰り返したアシュレイに、テオバルドが消え入りそうな声で呟く。幼い視線は頼りなげに足元に落ちたままだ。
「魔獣の声が聞こえた気がして」
カーテンを下ろした窓に、ちらりと視線を向ける。
微量なものも含めるのであれば、十人にひとり。王立魔法学院に入学を許可されるレベルの魔力であれば、百人にひとり。魔力を持つ人間は、その程度の割合でこの世に生を受ける。そうして、それは、人間に限った話でなく、獣も同じであった。
魔力を持って生まれた獣を、ムンフォート大陸の人間は「魔獣」と総称し、恐れていた。過大な力を有した魔獣が村を襲うことがあるからだ。けれど、この森の近辺に魔獣が存在することはない。
おおかた、嵐に対する心細さで、風の音を魔獣の鳴き声と聞き違えたのだろう。魔法書に視線を戻して、アシュレイは答えた。
「気にせず寝ろ。この森に魔獣の類が出ることはない」
「どうしてですか?」
「そういうふうになっているからだ」
自分より力のある獣の縄張りに、獣は決して踏み込まない。そういうことだと言い聞かせたにもかかわらず、テオバルドは戻るそぶりを見せなかった。物わかりの良く素直な弟子にしては珍しい。
「テオバルド」
ふたつ続いた「珍しい」に、アシュレイはしかたなく魔法書を閉じた。
「言いたいことがあるなら言え。黙っていても俺にはわからん」
またしても沈黙が流れ、窓を揺らす風の音がふたりきりの部屋に響く。その音に、テオバルドがわずかに肩をすくめる。
魔獣はいないと言ったろう、と呆れ声で諭す代わりに、アシュレイは答えを待った。
「あの」
意を決したふうに顔を上げて、テオバルドが訴える。
「今日の夜だけでいいので、ここで眠っては駄目ですか?」
「ここで」
「はい。その、……駄目だったら、いいのですが」
控えめな台詞と裏腹に、星の瞳は「ひとりで寝るのは嫌だ」と強く主張している。
渋面をつくったものの、保持することができた時間はそう長くなかった。溜息ひとつで許可を与える。
「……今日だけだからな」
「ありがとうございます!」
ぱっと瞳を輝かせたテオバルドが、軽い足取りで近づいてくる。一転した調子の良さに、もう一度そっと息を吐き、アシュレイはベッドのブランケットを捲った。
奔放で人誑しだった父親に、この弟子は妙なところでよく似ている。
――しかし、これは、断られないと踏んで、息子を連れで「弟子に取れ」と迫ってきた父親といい勝負だな。
弟子を取ることもはじめてであったが、自分の寝所に他人を引き入れたことも、ほとんどはじめての経験である。そんなふうに呆れつつ、ブランケットに包まる弟子に目を向ける。
オイルランプのぼんやりとした明かりでも、夜目が利くアシュレイにはテオバルドの様子がよくわかった。眠ることができないのか、細かな身じろぎを繰り返している。
雨風の音が、それほど恐ろしいのだろうか。
「眠れないのか」
幾度目かの寝返りを打ったテオバルドと目が合って、わかりきったことを問いかける。じっとこちらを見つめていた瞳が下を向き、またゆっくりと上向いた。
「師匠は」
質問の答えになっていないことを、ぽつりとテオバルドが呟く。
「夜が怖くないのですか?」
「夜が怖い魔法使いがどこにいる」
即答したアシュレイだったが、やんわりと言葉をひとつ付け足した。
「おまえもいつかは怖くなくなるさ」
かたちのない夜の魔物に怯えることができる時期は、おそらくそう長くない。今は小さいこの弟子も、自分を置き去りにあっというまに大きくなっていく。
ごくあたりまえの事実として告げて、アシュレイは書物に目を戻した。夜はとうに深くなっていたが、読み切ってしまいたかったのだ。
「師匠」
少し読み進んだところで、また声がかかった。ちら、と目線を動かす。
「今だけでいいので、テオと呼んではくれませんか」
なにを甘えたことを、と切り捨てかけたところで、アシュレイは口を噤んだ。朝方にエレノアが顔を出していたことを思い出したからだ。
月に一度、薬草園を目当てにエレノアは森にやってくる。イーサンの店を手伝うかたわら、町の人間に薬草を煎じてやっているのだ。
アシュレイにとっては見慣れた光景だったが、この弟子にとっては里心を刺激するものだったのかもしれない。
――七つ、か。
イーサンの無理強いであったものの、預かったからには自分の責任だ。あたりまえにそう考えたアシュレイは、子どもの発育に関する文献をいくつか読み漁っていた。
目撃したエレノアに「研究文献でなにがわかるのよ。私に聞いたらいいじゃない」と呆れたふうに笑われたこともあったが、正しい知識は大切だ。だから、知ったのだ。
七つという年は、まだ本当に幼い子どもであるのだということを。大人が正しく愛し、保護してやるべきか弱い存在。
「……師匠?」
そういえば、このくらいの年のころは、寝入る前にルカが様子を確認していたかもしれない。
思い出した古い記憶に、ふっと目元がゆるむ。そうだ。あのころのルカは、毎晩自分の枕もとを訪れて、額にキスを落としてくれていた。
――おやすみ、アシュリー、良い夢を。
あの声があれば、怖いものなどなにもないと思っていた。
「おやすみ、テオ。良い夢を」
記憶を頼りに囁いて、ブランケットの上からあやす要領で胸元を撫でる。幼かったアシュレイに、ルカがしてくれたことのひとつだ。続けて、小さな額にそっと口づける。
あのころのルカは、アシュレイのことを世界のなによりもかわいいとほほえんでいた。同じ感情を持つことはできなくとも、せめてかたちを真似てやろうと考えたのだ。
くすぐったそうに享受したテオバルドが、そのまま素直に目を閉じる。子ども騙しでしかなかったのだが、正しく子どもであったらしい。
しばらくして響き始めた寝息に安堵して、魔法書の続きに取りかかる。窓を叩き揺らす雨と風の音。そうして、自分以外の誰かの気配。
――まったく、手間のかかる。
弟子というものは、本当になかなか面倒な存在だ。口元に浮かんだかすかな笑みには、気がつかないまま。アシュレイは、ただ静かに本を読み進めた。
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