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7.信頼と親愛

 師匠である自分が評することの是非をさておけば、テオバルドは非常に優秀な弟子である。  物覚えが良い上に、大変素直で向上心がある。加えて、天賦の才もある。十年後には、立派な魔法使いになっていることであろう。  だからこそ、夏の香りが近づく時期になると、アシュレイは確認せざるを得なくなるのだ。 「テオバルド。本当に学校に行かなくてよいのか?」  その問いかけに、夕餉の片づけを終え、居間の丸テーブルで熱心に魔法書を読んでいたテオバルドが、またかという顔をした。 「またその話ですか、師匠」  表情そのままに問い返され、ぐっと眉間に皺を寄せる。毎年確認していることであるので「また」に違いはないにせよ、もう少しかわいい言い方があるだろう。 「またとはなんだ。おまえが行かないと言い張るからだろう」 「ですが、べつによいと師匠も最初に仰ったではないですか」  言った。弟子に取ってすぐのころ、たしかに自分が了承した。二度ほど確認したが言い張ったので、それ以上を諭すことが面倒になったのだ。だが、しかし。 「それはそうだが」  重苦しく響くよう、アシュレイは溜息を吐いた。 「おまえは、同年代の人間とまったく触れ合っていないだろう。それがよくないのではないかと言っている」  この弟子の父親が聞けば、「おまえが言うか」と大笑いするのだろうが、今のアシュレイは本気で案じていた。それなのに、師匠心を意に介さない調子で、テオバルドは笑う。 「それであれば、師匠で問題はないでしょう。父さんがよく言ってます。あいつは見た目と一緒で中身も止まってるんだって」 「……」 「だから、問題ありません。師匠がいたら、それで」 「……あの老け顔が」  腹立ち紛れに呟いて、アシュレイは金色の髪をぐしゃりと掻きやった。本当に、余計な口ばかりが回る男だ。こちらはおまえの息子を心配しているというのに。  もう一度溜息を吐き、読み途中だった書物に意識を戻す。テオバルドはと言えば、もう話は済んだとばかりの素知らぬ顔だ。  ――まったく、かわいげのない。  出逢ったばかりのテオバルドは、どれほど大人びた仕草をしようとも所詮は子どもだった。今も子どもだ。エレノアと会えばうれしそうな顔をするし、あいかわらずイーサンの冗談を真に受ける。  だが、最近のテオバルドには、大人に近づき始めたと感じる瞬間があった。  目にかかった前髪を払いのけ、アシュレイはページを繰った。いつまでも子どもであればいいと願うことは、正しくないのであろう。 「師匠」  夜にふさわしい静かな声に、ちらりと視線を上げる。ランタンの光の中でも、テオバルドの夜色の髪は美しかった。アシュレイは、見るたびに思ってしまう。  イーサンの髪も夜の色をしていたが、テオバルドのほうが一段と夜が深い。あるいは、その深さに惹かれるのだろうか。じっと見つめていると、かすかにテオバルドがほほえんだ。伸ばされた指が、そっとアシュレイの金糸に触れる。 「少し伸びましたね」  切りましょうか、とあたりまえの顔でテオバルドが提案をする。テオバルドがするあたりまえは、この五年のあいだで随分と増えていた。  アシュレイの身体のほとんどは、テオバルドでできているのかもしれない、と。馬鹿なことを思ってしまうほどに。 「おまえもマメだな」  イーサンみたいだ、と言う代わりに、アシュレイは笑った。 「師匠だからですよ」  声変わりもまだの甘い声が、歌うように告げる。 「ぜんぶ、師匠だからです」  ――世話を焼く理由? そんなもの、おまえだからに決まってるだろう。誰でも彼でも世話を焼くわけじゃないさ。なぁ、アシュ。おまえだから、俺は放っておけないんだ。  大昔に聞いた、苦笑まじりのイーサンの柔らかな声。思い出したのは、どことなくトーンが似ていたからに違いない。 「好きにしろ」  古い記憶に鍵をかけ、アシュレイはいかにも師匠らしく頷いた。  シャキン、シャキンと刃が髪を滑る音がする。  夜目が利くようになったテオバルドは、ランタンの薄明かりの中でも迷いなく刃を動かしていた。無駄に器用で、そうして無駄に楽しそうに。  いつものことであるものの、おかしなやつだとアシュレイは思う。これの父親もそうだったが、人の世話を焼くことは、それほど面白いことなのだろうか。 「師匠は」  落ちてきた声に「なんだ?」とアシュレイは問い返した。ふふっと楽しそうにテオバルドが笑う。 「なに、というか。瞳もですけど、髪もきれいですよねと思って。それだけです」 「……べつに、どちらもきれいではないだろう」  あいかわずのよくわからない審美眼に、アシュレイは半ば呆れた。呪われていると評判の緑の瞳に、艶のない金色の髪。きれいであるのはテオバルドのほうだ。 「すごくきれいですよ。はじめて会ったときも、そう思いました。よく覚えてます」  まぁ、とほんの少し気恥ずかしさのにじんだ声が囁く。 「師匠には見すぎだと怒られた覚えがありますが。きれいで目が離せなかったんです」  ――そういえば、そんなことを言っていたな。  この家の前で。イーサンに連れられた、小さなテオバルドが。どうだ、俺の息子だろうと言わんばかりだった、父親になったイーサンの星の瞳。 「そんないかれたことを言うのは、おまえで三人目だ」  喉を震わせたアシュレイに、テオバルドが問いかける。 「師匠の師匠ですか?」 「そうだ」 「父さん?」 「そうだ」  同じ瞳を持つ師であるルカと、おまえの父親と。これ以上はきっと現れることはない。 「それで、おまえだ」 「……師匠の話は、いつも俺の前に父さんがいる」  ぽつりとした響きに混ざっていた拗ねに、アシュレイは小さく笑った。なにも言わないでいると、諦めたように刃が動き出す。  あたりまえのことだ。イーサンがいなければ、テオバルドはいない。だから、常に前に在る事実が変わることはない。  ――だが、そうだな。 「それでも、俺の弟子はおまえだけだ」  その言葉に、テオバルドが笑ったとわかった。くすぐったそうにはにかんでいるのだろうと想像する。テオバルドの素直さが、アシュレイは好きだった。 「そうですね」 「あぁ、そうだ」 「師匠の弟子は、俺だけがいいです」  子どもらしい独占欲でそう言って、テオバルドが刃を滑らせていく。耳のすぐそばで刃の音が響いていた。 「ずっと」  それにもまた答えないまま、静かに笑う。  こんなことをおまえ以外に許すわけがないだろう、とは心のうちでのみ呟いて。信用していない他人に急所を晒すほど、アシュレイは呑気にできていない。  手持ち無沙汰に、テーブルにあった魔法書を膝に引き寄せる。ページを繰り出すと、呆れたふうに「師匠」と呼ぶ声がかかった。先ほどまであった甘えが、きれいさっぱり消え去っている。 「なんだ」 「そんなところで広げていると、あとであちらこちらから師匠の髪が出てくることになりますよ」 「そうだな」  言いそうだと予想していたとおりの苦言に、アシュレイはしらりと頷いた。まったく、本当によくできた弟子である。  改めることなく、また一枚ページを捲る。少しの間を置いてこぼれたテオバルドの溜息は、どこか本物の大人のような雰囲気で、それが少しおかしかった。

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