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15.冬の月のような人(前編)
「それにしても、テオバルドは本当に真面目にできているな」
夜遅くまで勉強をしていたテオバルドは、ジェイデンの声かけに素直に頷いた。呆れ半分感心半分というふうであったものの、嫌味でないことは承知していたからだ。
下位貴族の末っ子だとジェイデンは言っていたけれど、出自を鼻にかけることはないし、いつも大らかで思いやりに満ちている。声高々に貴族の出と話すハロルドと大違いの、テオバルド自慢の友人だ。
「うん。少しでも早く、師匠に追いつきたいから」
師匠はよく「正しい知識は力になる」とテオバルドに言っていた。だから、きっと、二十年前のアシュレイは、今の自分と同じように蔵書を読み漁っていたのだと思う。
浮かんだ静かな横顔に、テオバルドはふっと目元を笑ませた。
――師匠は、本当によく本を読まれていたからな。
集中のしすぎで、心配になるくらいに。同時に、でも、とテオバルドは考える。
あれだけの魔力を持ちながら、努力を怠ることのなかった師匠だからこそ、大魔法使いとなられたのだろう。そうであるのだから、自分も努力を続けなければならない。あの森を出るときに誓ったことだ。
「おまえご自慢の森の大魔法使いさまだな」
「そうだよ。師匠はすごいんだ」
おそらく何度も口にしたであろう賞賛も、茶化すことなく「そうか」とジェイデンは受け止めてくれる。気持ちがうれしく、テオバルドは控えめにほほえんだ。
手放しに褒めすぎているのかもしれないと思う瞬間もあるけれど、でも、そうなのだ。
アシュレイはすごい。なにせ、潜在的な魔力の差ではじめて圧倒された相手だ。彼を慕うようになったことは必然だったに違いない。
そうして、アシュレイは、惜しみなく自分にすべてを与えてくれた。正しい知識も、魔力の高め方も、愛情も。そのすべてに満たされ、テオバルドはすくすくと森で育った。
父と母のことももちろん愛しているけれど、師匠のことを考えると、愛しているという言葉ひとつでは到底足りない気持ちになることがある。
そうであるとすると、この感情はなんなのだろう。
――師匠なら、わかるのかな。
自分にいつも正しいことを教えてくれる師匠なら。手紙で聞くことを思いついたものの、保留とすることにした。なんだか少し気恥ずかしい気がしたのだ。
「なぁ、テオバルド。気分転換にちょっと付き合ってくれないか。今日のリーマン先生の薬草学の講義の内容なんだが」
読み進める手が止まったことに気づいたジェイデンに誘われ、「もちろん」とテオバルドは本を閉じた。代わりに、ジェイデンが開いた教科書を覗き込む。
ジェイデンと講義について振り返る時間も、テオバルドは好きだった。新たな気づきがあって、とても勉強になる。なんだかんだと言ったところで、ジェイデンもすこぶる真面目にできているのだ。
魔法使いを志す者同士、魔法についての談義に花を咲かす時間は楽しくて、いつもあっというまに過ぎてしまう。これでは、師匠になにも言えなくなってしまいそうだ。
そのことを手紙で伝えたとしても、師匠は優しい瞳で読んでくれるのだろうけれど。簡単についた想像に、テオバルドの心は温かくなった。
「昨日の議論は有意義だったが、少々白熱しすぎたな……」
欠伸を噛み殺しながらのジェイデンの台詞に、「だね」とテオバルドは同意を示した。
「寮長殿にも、俺たちの部屋は蝋燭の消費が激しいと言われてしまったから。せめて、今日の夜は明かりを消そう」
「そうだな、今夜くらいはな」
テオバルドの気落ちした声音をくつくつと笑って、ジェイデンがまたひとつ欠伸をする。
行儀を細かく指摘されることのない寮暮らしが性に合うと彼は笑っていたけれど、それでも所作の節々には不思議と品のある感じがあった。これが育ちというものなのかもしれない。
苦笑で応じて、寮の扉を閉める。教室のある建物から移動しただけで、すっかりと身体が冷えてしまった。ローブの上から腕をさすり、白い息をこぼす。テオバルドにとって、王都で過ごすはじめての冬だ。
――俺もだよ、かわいいテオ。
ふいに、あの森の一軒家で過ごした日々を思い出した。
自分が育てた唯一の弟子なのだから、なにも恐れることはない。そう言って送り出してくれた、大好きな師匠。あの家で、彼はなにをしているのだろうか。
――師匠のことだから、新しい研究に没頭されているのかもしれないな。
あるいは、手に入れた魔法書に夢中になっているのかも。
大魔法使いと呼ばれる存在になっても研鑽を怠ることのない師匠を、テオバルドは尊敬している。ただ、まったくべつの部分で、もう少しきちんと生活してほしいと常々願っていた。
――だいたい、師匠は、俺がいないと、夜はいくらでも起きてるし、ごはんも食べないし。
弟子に師匠である大魔法使いの心配をする資格があるかと問われると、黙るほかなかったことは事実だ。父にも呆れた顔をされた。それでも、テオバルドはたまに心配になるのだ。
悶々としてしまいそうになる感情を呑み込んで、廊下の窓にちらりと目を向ける。グリットンの町の方角だ。
「あ……」
降り始めていた細かな雪に、小さな声がもれる。王都や、王都の南方に位置するグリットンの町に雪が深く積もることはめったとない。けれど、あの森は大丈夫だろうか。
あのあたりは、町の中心部に比べると雪が深いのだ。アシュレイと過ごした八年のあいだでも、幾度か難儀した経験がある。
「積もらないといいけど」
ぽつりと呟いたテオバルドに、「ん?」とジェイデンが窓に目を向ける。
「あぁ、雪になったのか。今年は早いな」
「うん。だから、ちょっと心配で」
「心配? おまえの実家はグリットンの中心部だと言っていなかったか? あのあたりはそう積もらないだろう――って、あぁ、お師匠のところか」
察せられてしまったバツの悪さに、テオバルドは口早に言い足した。
「師匠はなんでもできる人だけど、生活全般のことに興味がないんだ。だから、雪かきとかも俺がしないとやろうとしなくて」
だらしないという表現を最大限に柔らかくした言い換えに、ジェイデンが遠慮のない笑い声を立てる。
「なるほど、なるほど。大魔法使いさまらしいと言えばいいのか、そうでないと言えばいいのか。よくわからないが、凡人には到底理解できないお人柄なんだろうな」
「まぁ、……」
ジェイデンが言うと、不思議と嫌味に響かない。苦笑半分で応じようとしたテオバルドだったが、ふと口を閉ざした。曲がり角の向こうから、ハロルドの声が聞こえた気がしたのだ。自然と歩くスピードが遅くなる。
次第に声は大きくなり、予想のとおり、ハロルドと取り巻きが角を曲がって現れた。こちらに気がついたハロルドが、意地悪く唇を吊り上げる。
「強いのはあたりまえだ。なにせ、森の大魔法使いさまは、魔物と契約していると評判だからな。その証拠に、誰も顔を見たことがないだろう」
自分に聞かせるために大きくなった声と悟ったテオバルドは、無反応を貫くことを選んだ。
睨むことも、そうかと言ってうつむくこともせず、通り過ぎるまで静かに待つ。最適と理解しいたからだ。案の定、ハロルドは鼻を鳴らしたけれど、それ以上はなにも言わなかった。
――これでいいんだ。
おのれを納得させようと苦心していると、ジェイデンが阿る態度で笑った。
「魔物と契約したときたか。あいかわらず噂に事欠かないお人だな」
「気にしない。そんな噂、師匠はきっと気に留めないから」
入学早々にやり合ってからというもの、ハロルドはずっとこの調子なのだ。でも、嫌味をやりすごす方法も覚えたし、物理的な嫌がらせを受けているわけでもない。相性が悪いのだということで割り切ろうと決めている。
師匠を悪く言われることだけは、どうしても堪えてしまうけれど。それでも、テオバルドは笑顔で繰り返した。
「本当に。だから、大丈夫」
じっとした視線をテオバルドに送ったジェイデンだったが、小さく息を吐くと、窓辺へと足を向けた。つられて、テオバルドの足も止まる。
「前に一度、聞いたことがある」
窓の外、南の方角を見つめながら、呟くようにジェイデンは言った。
「エバンズ家の話だ。次男に魔法の才があると知って、森の大魔法使いさまのもとに持参金を手に家臣が弟子入りを打診に赴いたが、弟子は取らないとすげなく断られたらしい」
「……」
「弟子のおまえに言うことではないと思うが、森の大魔法使いさまは、王都では変わり者で知られている。あまり目立つところに顔を出されないから、勝手な噂ばかりが広まった結果なのだと俺は思うが」
まぁ、そのほとんども、と事実を告げる調子の言葉が続く。
「先ほどのような無責任で荒唐無稽なものではあるんだが。とかく、変わり者ということで、ご当主は納得されることにしたらしい。まぁ、大魔法使いさまとなれば、エバンズ家とも格としては同等なわけで、無理強いはできなかったということなんだろうが」
ジェイデンから、家に関する話を聞くことははじめてだった。おそらく、ではあるけれど、貴族の社会がこの友人はあまり好きではないのだ。それなのに、話そうとしてくれている。誠意に応じようと、テオバルドは話に聞き入った。
「ただ、そのすぐあとに、なにものでもない町の子どもを弟子に迎えたという話を耳にして、ひどく立腹されたそうだ。ハロルドはその話を聞いて育ったのかもしれないな。だから、おまえに張り合おうとするのかも」
「うん」
噛み締めるように頷いて、ジェイデンと同じ窓の向こうを見つめる。
大魔法使いであるアシュレイを正しく恐れていても、きちんと敬意を抱いていたグリットンの町の人たちが懐かしかった。
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