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17.あるひとつの終焉(一)

 師匠からの手紙は、「親愛なる私の弟子、テオバルドへ」という書き出しでいつも始まる。二年半のあいだに何度も見た流麗な文字を、今夜もそっとテオバルドは指でなぞった。  ――師匠の字は、きれいだな。  勝手な願望かもしれないけれど、触れた先から愛情が伝わってくるようで、だから、つい、たくさん手紙を出してしまう。母に手紙で「私たちよりアシュレイに出している回数のほうが多いでしょう」と指摘されたことがあったが、そのとおりだった。  ――でも、いいな。父さんも母さんも師匠に会えて。  自分が学院に入ったあとも、アシュレイは父の店に顔を出しているらしい。ほっと安心する反面、寂しいやら、羨ましいやらで、そんな自分にはもう苦笑するしかなかった。  七つの春に弟子入りをし、十五になる年まで、テオバルドは彼のもとで学んだ。  思えば、両親のもとで育った時間より長い期間である。そうであるにもかかわらず、両親を恋しく思う瞬間がほとんどなかったのは、それだけの愛情を彼にもらっていたからに違いない。父と母のことも気にかけ、月に一度は実家の店に連れて行ってくれた。  そんな彼を、どうして人嫌いの変人だと王都の人は言うのだろう。テオバルドはずっと不思議だった。たしかに、気難しいところはあるし、突飛なところもある。けれど、アシュレイは人嫌いではないし、むしろ、案外と寂しがり屋だ。  ――だから、あの森にひとりにしたくなかったんだけどな。  彼の言うとおり、弟子が大魔法使いの師匠に言う台詞ではなかったのだろうが、八年同じ家で暮らした、ただのテオバルドとして言いたかった。  文面の最後の署名を見つめ、ふっと息を吐く。せめて、自分との手紙のやりとりで、自分の心がそうであるように、彼の心が少しでも温まっていることを願う。  読み終えた手紙を大切に束ねると、テオバルドは引き出しにしまった。彼に会うことのできない日々の中で、よりどころだったもの。だが、それも、あと数ヶ月のことだ。  初夏になれば、テオバルドは王立魔法学院を卒業する。 「ねぇ、テオバルド。あなたのお母さんってすごいのね。薬草学の書物で名前を見つけたわ。エレノア・ノア」 「母さんが?」  興奮した様子のアイラに引き留められ、謙遜ではなく首をひねる。父の店の手伝いのかたわら、母が薬草を煎じる姿を見たことはあったが、それだけと思っていたからだ。  冬の終わりの冷たい風が、テオバルドの頬をなぶっていく。  自分に声をかけるために研究棟から裏庭へ飛び出したらしく、アイラは作業用の白い上掛けを羽織っていた。もはや、制服である濃紺のローブより見慣れた姿である。薬草学で一番の成績をおさめる彼女は、いつも熱心に研究に打ち込んでいるのだ。  その代名詞のような格好で、アイラがテオバルドを見上げる。入学当初はほとんどなかった身長差も、この二年半で頭ひとつ分ほど開くようになった。たぶん、今の自分は、アシュレイの身長を超えたのではないかと思う。長身の父には、まだ届いていないだろうけれど。 「テオバルド。あなた、お母さんのことなのに、なにも知らないの?」 「あ、……俺、七つで師匠のところに弟子入りしてるから」  月に一度は実家に顔を出していた上に、母が薬草を貰い受けに森の家を訪れることもあったのだが。都合の悪い後半を伏せて、テオバルドは釈明した。 「あぁ、テオバルドご自慢のお師匠さまね。もちろん、森の大魔法使いさまも素晴らしいお方だと思うけれど、あなたのお母さんも素晴らしい魔法使いだと思うわよ」 「ありがとう」  手放しに褒められたくすぐったさに、思わずはにかむ。その反応に、アイラはふたつに結った赤銅色の髪を楽しげに揺らした。丸い眼鏡の奥の瞳を笑ませ、問い重ねてくる。 「それで? あなたは、あなたのお母さんがなにを研究されていらっしゃるか知っているの?」 「えぇと……」  「薬草による魔力の安定と増幅の研究。女性の魔法使いにはね、多かれ少なかれ魔力が不安定になる時期があるの。とても有意義で素晴らしい研究だと思うわ」 「魔力の安定と増幅」  おうむ返しにテオバルドは繰り返した。わざわざ言うことではないと判じた結果かもしれないが、母からもだが、父や師匠からも聞いた覚えのない話だ。 「魔法使いの界隈も男の人が多いから、そういった研究は遅れがちなのよ。だからこそ、とても意義のあることだと思うのだけれど、なんと、それだけではなくてね」  ふふ、とわくわくを抑えきれない様子で、アイラが手を合わせる。きらきらとした瞳がいかにも無邪気で、なんともほほえましい。 「緑の大魔法使いさまも、ご支援されていらっしゃるそうなの。本当にお優しい方! 今は国を離れていらっしゃるけれど、戻ってこられたら百人力ね」 「アイラは、本当に緑の大魔法使いさまを尊敬してるんだね」  アシュレイを尊敬してやまないという自分の主張も、こんなふうに見守られているのかもしれない。おのれの言動を省みつつ、テオバルドはほほえんだ。  ――緑の大魔法使いさまに助けてもらったから、自分も誰かを助けることができるようになりたいんだってよく言ってるもんな。  アイラが薬草学に没頭する最たる理由だろう。大魔法使いを目標とする者同士、テオバルドは彼女の邁進する姿に刺激をもらっていた。  だからと言って、学友たちがからかうような「好き合っている」関係ではないのだが。 「そうよ。だから、成績上位を維持して、なんとしても宮廷に入りたいの。宮廷の薬草学研究所なら、緑の大魔法使いさまと一緒に研究することも叶うかもしれないもの。だから、負けないわよ」 「俺も負ける気はないけど。お互いがんばろう」  冗談めかした宣戦布告に、テオバルドも笑って応じた。 「このあいだの試験、ハロルドに負けて六位だったのよ。どうにか五位を維持しないと、宮廷勤めの希望を出す資格もなくなっちゃう」 「狭き門だからね」  同意して、そう頷く。  春の実技試験で最終成績はほぼ確定となるのだが、その結果を持って、成績優秀者にのみ宮廷で勤めるか否かの打診があるのだ。  ――本当は、卒業したら、すぐにでも師匠のところに帰ろうと考えていたけど。  入学して一年ほどはそのつもりでいたし、今も早く会いたい気持ちに変わりはない。  ただ、学院で日々を過ごす中で、高度な研究をできる場所で学びたいという思いが芽吹くようになったのだ。アシュレイも「それがいい」と手紙で後押しをしてくれた。  それに、宮仕えは、閉鎖的だった学院での生活とは違う。王都からグリットンは乗合馬車で移動することのできる距離だ。朝に出れば、昼前には向こうに着く。会おうと思えば、いつでも会いに行くことができる。 「よく言うわよ。一年時も二年時も首席だったじゃない、あなた」 「努力はしたからね。俺とジェイデンの部屋の蝋燭の消費量は、二年連続で一位らしいよ」 「たしかに。いつもジェイデンと競ってるものね」  くすくすと笑って、アイラが肩をすくめる。 「まぁ、とにかく、がんばるわ。そういえば、テオバルドは、緑の大魔法使いさまと会ったことはないと言っていたわよね。あなたのお師匠のお師匠なのに」 「あぁ」  苦笑ひとつでテオバルドは認めた。 「師匠も何年も顔は見ていないと仰っていたから。長く国を空けていらっしゃるみたいだね」  寂しくはないのかと尋ねた夜を、テオバルドははっきりと覚えている。おまえがいるから寂しいと思う暇もないとほほえんだ、アシュレイの優しい瞳も。 「やっぱり、そうなのね。それだけ重要なご任務ということなのでしょうけど。早くお戻りになるといいわね。緑の大魔法使いさまがいらっしゃるだけで明るくなる気がするもの。――あ、いけない」  研究棟から響いた呼び声に、「今から戻るわ」とアイラが叫び返す。そうしてから、「ごめんなさい。私が引き留めたのに」とテオバルドに向き直った。 「後輩が呼んでいるから、急いで戻るわ。じゃあ、また、明日、教室で」 「うん。がんばって」 「ありがとう! あなたもね」  にこりと笑ったアイラが、そのまま研究棟へ駆け戻っていく。その背中を見送ると、テオバルドも書庫に向かって歩き始めた。  ――そういえば、父さんと母さんも研究棟で親しくなったって言ってたっけ。  父が熱心に取り組んでいた研究会に母が入会し、そこで親しくなったのだという話を聞いた覚えがある。なんでも、母のほうが父に入れ込んでいたらしい。  そばで聞いていた師匠も否定しなかったので、酔った父の戯言ではなく事実なのだろう。  ――でも、なんで、父さんだったんだろうな。  父親として尊敬しているものの、人当たりが良く親しみやすいというほかに特筆すべき要素のない人だ。すぐ近くに大天才の師匠がいただろうに、若かりし母はよく父を選んだと思う。  自分だったら、と考えかけたところで、テオバルドはひっそりと苦笑をこぼした。選ぶもなにも、父と師匠である。 「あ……」  無意識の声がこぼれて、足が止まる。父たちの若かりしころを想像していたせいか、ふいに気がついたのだ。  この年で、自分は十八になる。十八の冬。 「……そうか」  この年は、父が魔力を失った年だ。  もし、自分がそうなったら。遅れて湧いた実感に、テオバルドはぞっとした。  魔力がなくなるということは、師匠と同じ高みを目指すことはもうできないということだ。魔法使いになるために積み上げた努力も、すべて無に帰してしまうということだ。  自分にとって父に魔力がないことはあたりまえで、だから、わかっていなかった。  本当にいまさらな話だと、テオバルドは自身の薄情さに呆れた。途方もなかっただろう喪失感を笑い話に消化している父は、とても芯の強い人なのだ。だから、とテオバルドは思い直した。  だから、母は父に惹かれたのだろうか。  だから、師匠の唯一の友が父だったのだろうか。

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