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19.あるひとつの終焉(三)
テオバルドたちの門出を祝福するように、卒業式の日の王都の空は美しく晴れ渡っていた。
式典を終え、講堂を最後に出たテオバルドは、ぐるりと学院を見渡した。三年を過ごした寮に、多くの講義を受けた学舎、実習場。研究棟に、足しげく通った地下にある書庫に繋がっている旧学舎。そのいずれにも、たくさんの思い出がつまっている。
――入る前はとてつもなく長く感じたけど、終わってみるとけっこうあっというまだったな。
入学初日、ハロルドに馬鹿にされ寮の部屋で拗ねていたことも、それなりの関係に落ち着いた今となっては、懐かしい記憶のひとつだ。
「昨日の夜も食堂で散々騒いだが、いざ卒業となると寂しいな」
「ジェイデン」
隣に並んだジェイデンを軽く見上げて、ほほえむ。寂しさももちろんあるものの、それ以上にわくわくとした気持ちがテオバルドは強かった。
高度な研究を続けることのできるこの国最高峰の職場に採用が決まっていて、なによりも師匠に会いに行くことができる。
「まぁ、俺たちはまた同期だけどね。宮廷でもどうぞよろしく」
「まったく心強いぜ。しかし、結局、おまえには一度も勝てなかったな。それが少し残念だ」
「ジェイデンが相手になってくれたおかげだよ」
魔法使いという目標に向かって切磋琢磨できる相手がいて、本当に幸運だった。同じ部屋でよかった、と素直に告げれば、ジェイデンが照れくさそうな顔をする。
「そうだな。ありがたくそういうことにしておくか」
「そういうことだよ。ところで、ジェイデンは、ちゃんとアイラを誘えたの?」
「……」
「同じ宮仕えが決まったからって、そんなに怖気づかなくてもいいのに」
気まずく目を逸らしたジェイデンに、駄目押しをするようにテオバルドは言った。
師匠のことを指摘されたお返しというわけではないが、あまりに弱腰なので、つい口が出てしまったのだ。
――アイラもまんざらでもなさそうだし、問題ないと思うんだけどな。
そのアイラは、見事三位の成績をおさめ、希望どおり宮廷の薬草学研究部に配属されることが決まっている。あともうひとりは、四位だったハロルドだ。
大変なこともあるだろうけれど、楽しくなりそうだなと思う。
――でも、まだ師匠からの返事、来てないんだよな。
卒業式が終わったらグリットンに戻る旨を改めて手紙で伝えたのが、十日ほど前のこと。いつもであれば二、三日で来る返事は、今回に限って届いていない。
また、なにかに熱中しているのかもしれない。テオバルドは思考を切り替えた。いずれにしても、明日グリットンに戻ればわかることだ。
戻ったら、話したいことはたくさんある。学院で学んだことも報告したいし、宮廷に勤めることも顔を見て伝えたい。杖のことも相談したい。それで――。
――世界が広がっても、俺の一番は師匠だったって言ったら、また花祭りで花を渡したいって言ったら、師匠はどんな顔をするのかな。
切り替えたつもりで、なにひとつとして切り替わっていない思考に苦笑いになる。明日が楽しみで、たぶん、浮かれているのだ。
「でも、考えてもみろよ。もし断られたら、次に宮廷で会うときにお互い気まずいだろうが」
「大丈夫だと思うけど」
肩をすくめてから、テオバルドは「ごめん」とジェイデンに断った。
「最後に書庫に顔を出しておきたいんだ。食堂にはあとで行くよ」
「はい、はい。最後まであいかわらずだな。後輩たちのことは引き受けてやるから、ミス・ベイリーによろしく伝えておいてくれ」
「ありがとう。任せて」
寮に戻るジェイデンと別れて、書庫に向かう。
寮の食堂はプロムまでの待機場になっていて、同輩や後輩と過ごす慣例がある。承知していたものの、しっかりと書庫に別れを告げておきたかったのだ。
あいかわらずと笑われてしまったけれど、テオバルドは書庫が好きだった。知識の源である豊富な蔵書と、静かな空間。そうして、優しく見守ってくれる書庫の守り人、ザラ・ベイリー。
――二十年前は、父さんたちがいたんだよな。
師匠と、母と一緒に。書庫を一周しつつ、知らぬ過去に思いを馳せる。「あら」という柔らかな声がかかったのは、そのときだった。
「ベイリー先生」
「こんにちは、テオバルド。あなたもとうとう今日で卒業ね。またひとつ寂しくなるわ」
入学当初より変わらない上品な老婦人に、テオバルドは心からの挨拶を返した。
「はい、本当にお世話になりました」
「あなたは最後まで『先生』だったわね。そういう頑固なところもかわいいけれど。誰よりも勉強熱心で、才能もある。宮廷から誘いが来るのも当然のことね」
「先生方のご指導のおかげです」
優等生らしい反応に、彼女がほほえむ。最後に書庫で会うことができてよかった、とテオバルドも瞳を笑ませた。けれど、そろそろ戻らないと、ジェイデンをやきもきとさせてしまうかもしれない。
名残惜しさを呑んで暇を告げようとしたタイミングで、ベイリーが話を切り出した。
「ねぇ、テオバルド。私がどうしてここの守り人と言われているのか、あなたは知っている?」
「……え」
「もちろん知らないこともあるわ。でも、ここで起こったことの多くを知っているからよ」
唐突な問いかけに、彼女をまじまじと凝視する。その視線を受けても、ベイリーが変わることはなかった。淡々と穏やかに言葉を紡いでいく。
「たとえば、二十年前。今のあなたと同じ年だったイーサンとエレノア。そうしてアシュレイの身に起こったことも、その顛末も」
「二十年前……」
「あなたに必要なら、説明するわ。それが私の役目のひとつでもあるし、あの三人に育てられたあなたの権利でもあるのよ、テオバルド」
自分の歴史を知る権利は、誰にでもあるの。そう繰り返した彼女の声は、自分に適切な書物を勧めるときとまったく同じ調子だった。
ベイリーを見つめたまま、テオバルドは黙り込んだ。父と母と、そうしてなにより師匠のこと。知りたくないと言えば嘘になる。――でも。
「お気遣いはありがたいですが、ベイリー先生。必要ありません」
「あら、そう?」
「はい。父も母も、師匠も。必要なことであれば、教えてくれたでしょうから」
「そう」
にこりと目を細めたベイリーは、どこかほっとしたようだった。
「それならいいの。安心したわ」
自分の判断が間違っていなかったと知って、テオバルドも内心ほっとした。彼女の提案の理由はわからなかったけれど、大好きな彼女を失望させたくなかったからだ。
「あなたに会えてよかったわ。私の勝手だけれど、二十年前、あの子たちに関わった大人のひとりとして心配していたの」
「心配、ですか」
「そう。でも、あなたを見て、その心配もようやく晴れたわ。だって、本当に愛されて育った顔をしているのだもの」
あの子たちが、善良で正しい大人になった証拠ね、と眩しそうにベイリーが呟く。
父と母と師匠のことを褒められただけだ。いつものように、それがあたりまえと受け取ればいい。なのに、できなかった。
「テオバルド?」
どうかした、というふうな声に、はっとして笑みを取り繕う。彼女の言葉に負の感情がないことは明らかで、自分が愛されて育ったことも明らかだ。
それなのに、なぜ、こんなにももやもやと心が動くのだろう。
「問題ありません。父たちのことも気にかけていただいて、本当にありがとうございます」
二十年前のできごとに心が飛んでいたのだろうか。言葉を撤回して知りたいと望んでいたのだろうか。わからなかった。
自分の迷いに彼女が気がついていたのか、どうかも。テオバルドにはわからなかった。そのテオバルドをまっすぐに見つめ、彼女がほほえむ。
「改めて、卒業おめでとう、テオバルド。この三年、本当によくがんばりました。新しい日々も良きものになるよう、この書庫から祈っているわ」
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