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20.あるひとつの終焉(四)

「愛されてる、か」  寮の食堂に向かうつもりだったのに、書庫のある旧学舎を出たところで、テオバルドの足はぴたりと止まってしまった。寮の方向を見つめたまま、そっとひとりごちる。  ベイリーは、問題のあることはなにも言っていない。彼女が差し出してくれたものは愛情からくる配慮と、祝福だ。わかっているのに、なぜ、こんなにも引っかかるのだろう。  愛されて育ったことについて言えば、そうである自信がテオバルドはあった。  まだ七つであった自分の魔法の才を信じ、最も適切な相手に託すと決めたのは、父と母の愛であったのだろうし、その愛と信頼を受け取ったアシュレイも、父と母と変わらぬ愛で十五の年まで自分を教え育ててくれた。  父もアシュレイを信頼し愛していたのだろうし、アシュレイも父を信頼し愛していたのだろう。けれど、それは、どんな愛だったのだろう。そうして、母は。  ――しかたないのよ。  ふいに、随分と昔に聞いた母の声を思い出した。  あの森にいたころのことだ。月に一度、父の店に連れて行ってもらっていたころのこと。  その外出を楽しみにしていたことを、テオバルドは覚えている。父と母に会うことも楽しみであったが、アシュレイとふたりで町に行くことが、なによりもうれしかったのだ。  深く被ったフードの下で緑の瞳を優しく笑ませ、常連客や母と話す自分を見守っていてくれた森の大魔法使い。  奥まった場所にあるふたりがけのテーブルが、彼の指定席だった。  そして、よく正面には父がいた。仕事はちょっと休憩だとばかりに笑って、けれど、テオバルドは知っていた。ほかのどの客にも、父はそんな対応を取らないということを。  父がそうするのは、アシュレイにだけなのだ。  彼のことを親しげにアシュと愛称で呼ぶのも、子どもであるテオバルドに向けるものとも、妻であるエレノアに向けるものとも違う、甘やかすような視線を向けることも、すべて。アシュレイに対してだけなのだ。  しかたないという台詞に、幼かったテオバルドは母を見上げた。  常連客が席を立ち、自分とふたりになったタイミングだった。父と師匠が話しているところを羨ましく見つめていた自分の髪を撫で、そう言ったのだ。  ――あの人は永遠の子どもだし、それに、私、あの人には一生をかけても返せない大恩があるのよ。  今になって、思う。母のそれは、幼い息子を宥めるものとしてまったく正しくなかった。あれは、自分を宥めるためのものだ。  ――薬草による魔力の安定と増幅の研究。とても素晴らしいことだと思うわ。  一生をかけても返すことのできない大恩とは、いったいなんだというのか。  あのときのテオバルドは、深く考えることをしなかった。偉大な魔法使いの師匠だから、そんなこともあるのだろうと無邪気な納得をしたくらいだ。でも。  十八のときに死にかけて魔力が枯渇したという父。十八のときに、おそらくは深淵に触れ、成長の時を止めたアシュレイ。アシュレイに大恩があるのだという母。魔力の安定と増幅の研究。  導かれそうになった答えに、血の気が引いたことをテオバルドは自覚した。  ――人の生死に関わる事象には、踏み入ってはならない。  禁術についても正しい知識は必要であるという理屈で、アシュレイはテオバルドにすべてを示してくれた。  正当なる理由で使用を禁じられている魔法術。そもそもとして、並大抵の魔力では扱うことはできないが、とアシュレイは言って。もし使えばどうなるのかと尋ねた自分に、こう答えたのだ。  ――人ではなくなるということだ、テオバルド。だから、決して歪めてはならない。  ――神の領域に触れる対価は、とてつもなく巨大なものになる。おまえはそんな業を負ってはならない。  あなたは。問えるはずのない問いが、ぐるぐると身体の中を渦巻いている。  そうであるのなら、あなたは。そこまでわかっていながら、誰のためにその業を負ったのだ。  今の自分は、姿かたちだけであれば、おそらく師匠であるアシュレイと同じ年代になっている。そうして、近いうちに追い越していく。追い越してしまう。  届かない、いつも届くはずの手紙。  三年前の冬。アシュレイは、テオバルドの手紙を待つと誓うと言った。その誓いのとおり、アシュレイは必ず返事を送ってくれた。アシュレイは誓いを破らない。けれど。  ――ここにいて、待っていて。  三年後、会いに来るから待っていてほしいと願ったテオバルドに、アシュレイは明確な返答を寄こさなかったのではなかっただろうか。 「おい、テオバルド。おまえ、ミス・ベイリーに会いに行くだけじゃなかったのか?」  ジェイデンの声に、テオバルドは我に返った。戻りが遅いから、様子を見に来てくれたのかもしれない。ぎこちなく「ごめん」と笑ったテオバルドに、近づいてきたジェイデンが手紙をひらりと掲げる。見覚えのある封蝋。 「それ……」 「ああ、おまえ宛てだ。ついさっき梟が持ってきたんだ。返事がないと気にしていただろう。よかったな」  誰からのものかわかっていたのだろう。こちらが喜ぶと信じ込んでいる顔で差し出された手紙に、そっと手を伸ばす。  師匠からの手紙が届くと、いつもうれしくて、心がほっとして、ドキドキと胸が鳴った。それなのに、今、開封することがどうしようもなく恐ろしい。  受け取った手紙を凝視するテオバルドに、ジェイデンが首を傾げた。 「開けないのか?」 「いや……、うん。そうだね」  躊躇いを殺し封を切ると、乾いた音を立てて封蝋が割れる。  ――なんでだろ。  自分でも、よくわからない。強いて言うなら、予兆。こんなことを師匠に言ったら、不確かなことを言うなと叱られてしまいそうだ。  それとも、先ほど沈んだ思考の海が、それほど恐ろしかったのだろうか。いつもと同じ書き出しで始まった手紙を読み進めるうちに、「え」と固い声がもれた。  ジェイデンが眉を寄せる。  「なにか、悪いことでも?」 「あ、……いや、違う。そうじゃない。そうじゃないよ」  手紙を封筒に戻して、口早に否定をする。驚きはしたものの、なにかがあったとか、そういう悪いことではない。たぶん、少なくとも、一般的に。 「そうか、なら、いいが」 「うん」 「卒業の祝いじゃなかったのか?」  言葉少ななテオバルドが気になったらしく、問い重ねられてしまった。 「お師匠からだったのだろう?」 「うん」  手紙をしまって、できるだけなんでもないふうに打ち明ける。 「直接、卒業を祝ってやれなくてすまないって。でも、しばらく遠方に王命で赴かれるそうだから、しかたのないことだよね」 「そうか」  納得した顔になったジェイデンが、テオバルドの肩を叩いた。 「そうだな、しかたない。三年ぶりに会うことを楽しみにしていたおまえには、残念なことだろうが」 「うん」  さりげなく視線を逸らして、頷く。そうだ。しかたのないことだ。王命を拒絶することは許されることではない。魔法使いとなったときに、この国と王に忠誠を誓うからだ。  先ほど、テオバルドも誓ったばかりだ。でも。 「どうかしたのか?」 「ううん」  ジェイデンは自分の屈託に気づいたのだろう。阿るようなそれに、テオバルドは首を振った。 「どうもしない」  戻ろう、とジェイデンを誘って、寮に向かって歩き出す。  それで、アイラは誘えたの、と話題を変えれば、苦々しい顔で、聞いてくれるな、と言うので、つい笑ってしまった。あいかわらずで、ほほえましくて、少しだけ羨ましい。  初夏の気持ちの良い風が、裏庭を吹き抜けていく。  ――しかたのないこと、か。  このタイミングで王命が下ったことは、たまたまだったのかもしれない。でも、もしかすると、アシュレイは、自分と距離を置くにあたってちょうどいいと考えたのかもしれない。  ――十五の年まで、責任を持って育てよう。  そう言って、七つの自分を受け入れてくれた、森の大魔法使い。彼ははじめから、そのつもりでしかなかったのかもしれない。勝手に自分が一生一緒にいると信じていただけで。  勝手に、師匠と弟子という枠を超えて、好きだという感情を抱いてしまったというだけで。そのすべてが、彼にとっては不要なものだったのかもしれない。  自分がいなくてもなにも問題はない、と。父が笑っていたように。  あの森で過ごしたひととき、自分のことを愛してはくれていたのだろうけれど。  会いたくて、会いたくて、しかたがなくて。会ったら、なにを話そう、この気持ちをどう伝えよう。そんなことばかりを考えて浮かれていた自分が、どうしようもなく滑稽で、どうしようもない子どもに思えた。

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