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23.大魔法使いの帰還(後編)

「じゃあ、ちょっと休憩に入らせてもらおうかな」  感傷に蓋をし、「教えてくれてありがとう」とテオバルドはもう一度礼を伝えた。 「知ってると思うが、休憩中の向こうへの出入りは自由だぞ」 「知ってるよ」  苦笑で応じて、背を向ける。渡り廊下を外れ横道に入ると、明るさが徐々に本来の夜に戻り始めていく。けれど、夜目の利くテオバルドにはあまり関係のないことだ。  休憩は、あと三十分。中途半端な時間だが、研究部に戻って溜まっていた仕事を進めてもいいかもしれない。なにせ、この祝賀会の準備でバタバタとし通しだったのだ。  会場に顔を出さない理由を、テオバルドは正当化した。自分はもう子どもではないのだ。それに、祝賀会の会場に入ったところで、簡単に近づけやしないのだろうし。  内心で言い訳を重ね、研究部へ方向を定めた瞬間。ふわりと香った強い力に、テオバルドは足を止めた。どれだけひさしぶりであったとしても、自分がこの気配を違えるはずがない。 「……師匠」  視認した小柄なシルエットに、呼び名がこぼれる。ほとんど無意識の、反射のようなもの。 「テオバルドか」   応じたのは、謁見の間で聞いたものとは違う、耳に馴染んだ静かな声だった。  予想外の邂逅に、呼びかけより先の言葉が続かない。テオバルドは黙り込んだが、アシュレイは頓着しない様子だった。あっさりとこちらに歩み寄ってくる。その調子のまま、テオバルドをじろじろと眺めると、アシュレイは感心したふうに呟いた。 「それにしても、随分と伸びたな。やはり、イーサンの血か?」  なんでもないことのように言われ、挙句、二言目に父の名を出され、テオバルドはぴしりと固まった。  ……成長期に七年も会わなかったら、大きくもなるだろうよ。  じわじわとせり上がった呆れに、知らず表情が苦くなる。けれど、それはそうだろう。なにせ、七年だ。そのはずなのに、アシュレイは、つい数日前に会ったような態度を崩さない。  この人に対して覚えたことのなかった苛立ちに、テオバルドは悶々と口を閉ざした。  自分の感情に対処できないまま、ちらりと視線を動かす。あのころとなにも変わらない容姿が目立つのは、この人がフードを外しているからだ。  謁見の間で外した以上、被り直す必要性を感じなかったという理屈なのだろうが、見慣れないせいか、どうにも落ち着かない。森の家にいたころは、一歩でも外に出るときは被っていただろうに。そう思っていると、アシュレイが首を傾げた。 「どうした。もう眠いのか?」 「……違います」  見当外れの問いかけを、憮然と否定する。いったい、自分を何才と思っているのか。呆れ半分で口にしようとしたテオバルドだったが、寸前で呑み込んだ。  自分の戸惑いの理由がわからないのか、アシュレイは不思議そうに見上げている。そう、見上げているのだ。なんとも言えない居心地の悪さに、そっと緑の瞳から視線を外す。  ――学院に入る前は、俺のほうが頭半分は小さかったのにな。  そのはずだったものが、すっかりと逆転してしまっている。  言いたいことも、聞きたいことも、いくらでもあったはずなのに。なにも言葉になることはなかった。帰還を祝うという当然の反応も浮かばず、三度目の沈黙が流れる。  でも、そうだったな、とテオバルドは思った。幼い自分があれやこれやと喋らない限り、あの森は静かだった。 「ルカ」  視線を上げ、口を開こうとしたタイミングで飛び出した名前に、思わずテオバルドの背筋が伸びる。師匠と遜色のない強い気配。  予想のとおり、姿を現したのは、銀色の髪の緑の大魔法使いだった。自分の大師匠でもあるというその人が、こちらに向かってにこりとほほえむ。 「探したじゃないか、アシュリー。こんなところでなにをしていたのかな」 「人前でその呼び方はやめろと言わなかったか?」 「おや、おや」  つれない態度に、しかたないとばかりに彼が肩をすくめる。  美麗な容姿のせいか、芝居がかったしぐさもいやに板についている。だが、その年恰好は、自分とほとんど変わらないものに見えた。  ――師匠と同じ、なんだろうな。  顔立ちのせいか、長い銀糸のせいか、どこか魔物めいているけれど。そう考えたところで、テオバルドははたと我に返った。  なぜ、そんなふうに思ったのか。理由がわからず、内心で首をひねる。師匠のことを魔物めいていると感じたことも、怖いと思ったことも、幼いころから一度もないというのに。  あのころのアシュレイは、そんなテオバルドを変わっていると評して、よく笑っていた。 「まだ挨拶仕事が残っているのに、きみが姿を消すからだろう。まったく、いくつになっても反抗期のようなことばかりを口にする」 「ルカ」 「それで? アシュリー。この子がきみの噂のお弟子かな」  嫌そうな声をさらりと無視して、緑の大魔法使いが視線を向ける。意外なほどの親しみやすい笑顔に、はっとしてテオバルドは頭を下げた。師匠に対してもだが、彼に対してもろくな挨拶をしていない。その事実にようやく思い至ったからだ。 「師匠」  小さな溜息を吐いたアシュレイが口を挟む。先ほどまでと違う、少し敬った口調だった。 「テオバルド・ノアです。七つの春から十五まで私のもとで育てました。ご覧のとおり優秀な魔法使いですよ」 「ノア。あぁ、そうか。そうだったね」  ラストネームを繰り返された意図は不明だったが、緑の大魔法使いはいかにも優しげな笑みを浮かべている。顔を上げたテオバルドに、彼はもう一度ほほえんだ。 「会うのははじめてだね、テオバルド。父君と母君は元気にしておいでかな」 「はい。ありがとうございます。父も母も変わらずグリットンで元気にやっております」 「そうか。それはなによりだ。母君とはたまに会う機会があるのだが、父君とはめっきり会っていなくてね。元気でいると聞いて安心したよ」  なにせ、と緑の大魔法使いが楽しそうに声をひそめる。 「私の弟子は、そういう話はなにもしてくれなくてね」 「ルカ」 「そう嫌がらなくともいいだろうに」  うんざりと制したアシュレイの肩を、宥める調子で彼が抱き寄せる。自分の師匠の子どもじみた反応を、テオバルドは凝視した。純粋に驚いたのだ。  なにも言えないでいるテオバルドに、緑の大魔法使いがにこりと誘いをかける。 「あぁ、そうだ。きみももう酒を呑める年だろう。ちょうど良い機会だ。一緒に呑まないか?」 「あ、……ですが」 「この四年はアシュリーと水入らずだったのだけどね。きみが弟子入りをしていたころは、なかなか顔を見に行くことができなかったんだ。ぜひいろいろと聞かせてほしい」 「いえ」  親しみやすいと感じたはずの笑みを、テオバルドは真顔で見つめ返した。なにがどうというわけではないのだが、なにがどうとも気に食わない。 「私はまだ仕事がありますので。どうぞおふたりで水入らずにお過ごしください」  あまりにも慇懃無礼だったのだろうか。大魔法使いふたりがちらりと顔を見合わせる。 「そうか」  けれど、向き直ったアシュレイの表情から感情を読み取ることはできなかった。肩に回った手を振り払うこともせず、淡々と頷く。 「仕事だというのなら、しかたがないな」  残念に思っているのか、そうでないのかの判別もつかない、至極あっさりとした態度。その調子のまま、彼が彼の師匠を見上げる。 「そういうことだ。かわいいからと言って孫弟子に絡むのはやめてくれ。挨拶が残っているんだろう? 早く済ませよう。面倒だ」 「そうだね、そうしようか。――邪魔をしたね、テオバルド。では、また」  上品にほほえまれ、テオバルドはぎこちなく笑みを返した。自分の言動もどうかしていたとは思う。思うが、いったいなんだというのか。  こんなことなら、アシュレイに非礼だと叱られたほうが、たぶん、よほどマシだった。置いてきぼりを食らったかたちで、ぼそりと呟く。 「……なんだ、それ」  自分がかわいげのない態度を取ったことは承知している。歓迎の意を示さなかったのも、仕事があるという建前を使ったのも、ぜんぶ自分だ。  ただ、その上で、「なんだ、それ」という語彙しか浮かばなかったのである。膨らみ続けるもやもやを押し出したくて、テオバルドは深い溜息を吐いた。  言葉にすると、とてつもなくみっともない。だが、自分を誰よりもかわいいと言い、常に優先してくれたアシュレイが、自分ではない誰かを優先した。その事実が、なんだかどうしようもなくショックだったのだ。

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