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25.帰郷(後編)

「ねぇ、おじさん。今日はテオバルドさん帰ってこないの?」  休憩と言い張ったイーサンと席で話し込んでいたアシュレイは、降ってきた声にちらりと視線を上向けた。  物怖じなく尋ねてきたのは、テオバルドと似た年ごろの町の娘ふたりで、どうりでと得心する。この町に住むテオバルドに近い年代の若者は、不思議と自分を恐れないのだ。  それは、まぁ、テオが花祭りでおまえのことばかりを話していたからだろうなぁ、と苦笑していたのは、いつかのイーサンだ。 「あぁ、テオなぁ」  そのイーサンが、ほんの少し困ったふうに眉を下げる。やれやれという雰囲気に、よくあるやりとりであるらしいとアシュレイは悟った。  ――テオバルドさん、か。  なにも間違っていないものの、聞き慣れない呼称だった。ふいと視線を戻し、酒を口に運ぶ。 「どうだろうなぁ。たびたび帰ってはくるが、いつ帰ってくるという連絡までは、あいつも寄こさないから」 「じゃあ、予想でもいいから、いつになりそうか教えてください。あたしたち先月も入れ違ってるの」 「そう言われてもな。――あぁ、そうだ、アシュレイ」  娘たちの熱量に苦笑まじりで首を振ったイーサンが、こちらに水を向けた。 「なにか聞いてないか? 宮廷で会ったろ」 「いや」  無表情を決め込んだまま、淡々と否定をする。 「軽く挨拶はしたが、それ以外はなにも。テオバルドもなかなか忙しそうにしていたからな」  事実だったのだが、イーサンは娘たちを追いやる口実と捉えたようだった。言葉尻に乗るかたちで「だ、そうだ」と笑いかけている。 「すまんな、お嬢さん方。まぁ、ゆっくりしていきな。テオがいなくても、うちの飯はうまいぞ」 「はぁい。じゃあ、そうします。ありがとう」  お話し中にごめんなさい、と頭を下げた娘たちが、もと居たテーブルへ戻っていく。素直な後ろ姿を見届けると、イーサンは再度の苦笑いを刻んだ。 「驚いたろ」 「いや……」 「悪かったな。最近は、もうずっとこの調子なんだ。まぁ、親としては気の悪い話でもないんだが」 「テオバルドは、よく顔を出しているのか?」 「あぁ。おまえの言うとおり、忙しくしているとは思うんだがな。それでも月に一度は顔を出してくれている。エレノアも喜んでるんだ。おまえの教育の賜物だな」  示された感謝に、そうか、と静かに相槌を打つ。  ――そういうところは、変わっていないのだな。  森の家からの距離とは、時間も手間も大幅に異なる場所に住んでいるだろうに。思えば思うほど、弟子の優しさと生真面目さが懐かしかった。 「まぁ、顔を出すと言っても、ゆっくりしていくわけではないんだがな。エレノアの手伝いをしてやって、飯を済ませたと思ったら、早々に引き上げていきやがる」 「そうか」  想像に易いあたたかな光景に、そっとした笑みを浮かべる。その表情の変化を穏やかに見つめ、イーサンもほほえんだ。酒を舐め、ほんの少しだけ顔つきを真面目なものに変える。 「なぁ、アシュレイ。おまえは、これからも王都に行く機会はあるだろう。よければ、そのときはまた気にかけてやってくれないか」 「……そのつもりでいるが」  控えめな物言いを不審に感じつつも、アシュレイは請け負った。  必要以上に干渉する意志こそないが、エンバレーに赴いて以降もテオバルドのことは気にかけていたし、これからもそうするつもりでいる。  成長した当人にとっては、望んでもいないことかもしれないが。 「やっぱり、おまえは情に厚い男だな」  ほっとしたように、イーサンが破顔する。 「しかし、いかんな。もう十分な大人とわかっているのに、つい親馬鹿をしそうになる」 「なぁ、イーサン」  親馬鹿という言葉に、ふとアシュレイは問いかけた。 「なんだ?」 「その、テオバルドは雰囲気が少し変わったな」  ルカからは、「きみたちは師弟揃って反抗期なのか」と大笑いされているのだが、そのあたりの事実は伏せて、婉曲的な言葉を選ぶ。  アシュレイがテオバルドと最後に言葉を交わしたのは、魔法学院に送り出した十五のときのことだ。そこから数えて、七年の月日が経っている。  少女のようだった顔つきも大人の男のものに変わっていたし、魔法使いとしての成熟度も段違いに上がっていた。過去の自分が見立てたとおりの立派な魔法使いと言っていい。  だから、変わってもあたりまえだとわかっている。いるのだが。 「そうか?」  悩むそぶりでイーサンが首をひねる。 「俺からすると、あまり変わらんように思えるが」 「……そうか」 「まぁ、そうは言っても、俺よりおまえと過ごした時間のほうがもう長いだろう。おまえの感覚のほうが正しい気もするが、と。お、噂をすれば、テオじゃねぇか。よう、テオ」  アシュレイの背後、入口に向かって、イーサンが軽く手を上げる。その名前と感じ取った気配に、アシュレイも振り返った。  森にいた当時より濃くなっているものの、根本は同じものだ。それに、アシュレイは一度覚えた気配を忘れない。馴染んだものであれば、なおのことである。  だが、目の合ったテオバルドは、驚いたように星の瞳を瞬かせた。店にいるあいだ、要らぬ威圧を与えぬよう気配を消していたことは事実だが、気がつかなかったのだろうか。 「師……」 「テオバルドさん!」  駆け寄った娘の背中に視界を遮られ、無言のまま姿勢を戻す。困惑している様子がありありと伝わってくるものだから、気の毒になったのだ。  それは、まぁ、父親の店で――おまけに父親の前で迫られてしまっては、やりづらいに違いない。エレノアが席を外していたことは幸いだったろうが、テオバルドからすれば、師匠である自分も似た立ち位置の人間だろう。 「テオバルドさん、おひさしぶりです。覚えてますか? エリンです。先月の夜はハリエットと出かけられたと聞いたのですけど、今日は私と出かけませんか」 「ちょっと、エリン、抜け駆けしないでよ」 「なによ、あんたが出遅れるから悪いんでしょう? ねぇ、どうですか」  きゃいきゃいと響く高い声に、苦笑ひとつで酒を呷る。最近の娘は、アシュレイの想像をはるかに超えて積極的なようだった。  そういうものなのかもしれないが、昔から森に引き籠もっていた上に、つい最近まで僻地にいた自分には、よくわからない話である。  ――しかし、先月はハリエットと、か。  どんな娘かは知らないが、町の娘に興味はないというふうだった十二、三のころのテオバルドと違い、今のテオバルドはそれなりに遊んでいるらしい。  グラスを置いて無意識に首をひねったアシュレイに、イーサンがにやけた顔で囁く。 「ほらな。モテるんだよ、俺の息子は」 「勝手なことばかり言わないでください」  苦々しい声に、目線を持ち上げる。聞き慣れているようで聞き慣れない、大人になったテオバルドの声。  テーブルのすぐそばに立ち、こちらを見下ろすテオバルドは、声同様の苦りきった顔をしていた。あまり見たことのない表情だったが、イーサンが頓着する様子はない。 「なんだよ、テオ。照れんなよ、いまさらじゃねぇか」  能天気とも取れる父親の台詞に、テオバルドがさらに眉根を寄せる。 「そういうことではなく……」 「あぁ、悪い、テオ」  会計を求める声に、話を遮ってイーサンが立ち上がった。その流れで、ぽんと息子の肩を叩き、客に愛想の良い顔を向ける。先ほどの娘たちだ。 「お嬢さん方、よかったね。タイミングが合って」  娘たちのテーブルから届いた調子の良い父親の台詞に、テオバルドはまたなにか言いたい顔をした。けれど、結局、すべてを呑み込んだ顔で黙ったので、難儀なやつだなと呆れまじりの視線を送る。  真面目というべきか、あいかわらずイーサンの冗談を真に受けすぎているというべきか。そう過剰に恥ずかしがる必要もないだろうに。そんなことを考えていると、イーサンとやりとりをしていた娘のひとりが、こちらに大きく手を振った。 「じゃあ、テオバルドさん。次は絶対遊んでねぇ」  名指しで叫ばれたテオバルドの顔に、いかにもな愛想笑いが広がる。難儀なやつだな。思わずアシュレイは内心で繰り返した。扉の閉まる気配に、ぽつりと呟く。 「女遊びをするのか、おまえが」 「いけませんか?」 「いや」  憮然と聞き返され、返答に詰まる。  かわいい子どもだった当時のイメージが抜けていないだけで、目の前のテオバルドは二十二才のいい大人だ。いけないわけがない。 「べつに、いけなくはないが」  そう、いけなくはない。ただ、なんとも言えない違和感があるというだけで。  さぼりすぎだと常連客に絞られる声がしていたので、イーサンはしばらく戻らないだろう。諦めて小さく溜息を吐けば、同じような溜息を吐き返される。 「わかったでしょう。私はもう、あなたの小さなテオではありません」  嫌そうな言い方に、宮廷で会ったときのことをアシュレイは思い出した。  昔の調子で「眠いのか」と尋ねたときも、テオバルドはこれと似た顔をした。たしかに、その扱いはもう正しくないのかもしれない。だが。  正しい言葉を選べずにいると、テオバルドが一段と呆れた声を出した。 「あなただって、女を抱いたことくらいあるでしょう」 「ない」 「……え」 「あいにく興味が湧かなくてな。女とも、男とも、もちろん魔物とも。交わったことは一度もないが、とくにそれで不便はしていない」  最後の一言は、宮廷で散々に聞いた、この容姿が魔物との契約の産物である、という噂への皮肉である。聞いた覚えでもあったのか、テオバルドが妙な顔をした。  幼いころの困り顔と重なって、アシュレイは笑った。 「だが、まぁ、あの小さかったおまえが、どんな顔で抱くのかと思うと興味は湧いた」  今度黙ったのはテオバルドのほうだった。困り顔がかわいからと、からかいすぎたらしい。冗談だ、と告げて、グラスを手に取る。 「気にするな」  時は流れる。自分のような者の上を除いては、公平に。進んで道を踏み外した自分には、嘆く資格もないことだ。 「呑みすぎですよ」  そっと息を吐いたテオバルドが正面の椅子を引き、グラスを抜き取った。取り返そうという気も起こらず、浮いた手にそのまま頬を乗せる。 「イーサンのようなことを言う」 「あなたがそんなふうだから、みな同じことを言うんです」 「そんなふうとはなんだ。人並みに生活している」 「そうですか? いつだったか、母は永遠の子どもだと言っていましたよ」  いかにもエレノアの言いそうなことだった。軽く顔をしかめると、また呆れたふうな笑みをこぼす。昔だったら、まずしなかっただろう笑い方。 「まぁ、話を聞く限り、似たようなものかと思いましたが」 「テオバルド」  宥める意図を理解していただろうに、テオバルドはさらりと言葉を続けた。囁くような大きさだったはずの声が、不思議なほどはっきりと耳に届く。 「それとも、試してみますか? 知らないんでしょう、なにも」 「……知らなくとも不都合はないと言ったんだ。あまり師をからかうな」  先にからかったのは自分だが、こんな返しをされるとは思わなかった。これも大人になったということなのだろうか。  呆れるやら、感慨深いやらで、うんざりと頭を振る。やはり、今の自分が余計なことを言うものではなかった。そう思うことで矛を収め、アシュレイは話題を切り替えた。  帰ってきてから不機嫌な顔ばかりを見ているが、気を悪くさせたいわけではないのだ。 「だが、まぁ、問題なく過ごしているようでなによりだ。立派になったな」  テオバルドの瞳が揺れたように思え、軽く首を傾げる。持っていたグラスへと、テオバルドは視線を落とした。 「あなたは……」 「うん? 俺がなんだ」 「あなたは、なにも変わりませんね」  なにも言えず、伏せ目がちの顔を見つめる。なにも変わっていないということが、この見た目のことであるとすれば、事実でしかなかったからだ。 「はじめて会った、七つのときからずっと」  その声がどこか寂しそうだった理由は、いったいなんだったというのか。  少し母のところに顔を出してきます、と大人の顔で断ったテオバルドが席を立ってからも、アシュレイは答えを出すことができなかった。

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