26 / 57
25.帰郷(後編)
「ねぇ、おじさん。今日はテオバルドさん帰ってこないの?」
休憩と言い張ったイーサンと席で話し込んでいたアシュレイは、降ってきた声にちらりと視線を上向けた。
物怖じなく尋ねてきたのは、テオバルドと似た年ごろの町の娘ふたりで、どうりでと得心する。この町に住むテオバルドに近い年代の若者は、不思議と自分を恐れないのだ。
それは、まぁ、テオが花祭りでおまえのことばかりを話していたからだろうなぁ、と苦笑していたのは、いつかのイーサンだ。
「あぁ、テオなぁ」
そのイーサンが、ほんの少し困ったふうに眉を下げる。やれやれという雰囲気に、よくあるやりとりであるらしいとアシュレイは悟った。
――テオバルドさん、か。
なにも間違っていないものの、聞き慣れない呼称だった。ふいと視線を戻し、酒を口に運ぶ。
「どうだろうなぁ。たびたび帰ってはくるが、いつ帰ってくるという連絡までは、あいつも寄こさないから」
「じゃあ、予想でもいいから、いつになりそうか教えてください。あたしたち先月も入れ違ってるの」
「そう言われてもな。――あぁ、そうだ、アシュレイ」
娘たちの熱量に苦笑まじりで首を振ったイーサンが、こちらに水を向けた。
「なにか聞いてないか? 宮廷で会ったろ」
「いや」
無表情を決め込んだまま、淡々と否定をする。
「軽く挨拶はしたが、それ以外はなにも。テオバルドもなかなか忙しそうにしていたからな」
事実だったのだが、イーサンは娘たちを追いやる口実と捉えたようだった。言葉尻に乗るかたちで「だ、そうだ」と笑いかけている。
「すまんな、お嬢さん方。まぁ、ゆっくりしていきな。テオがいなくても、うちの飯はうまいぞ」
「はぁい。じゃあ、そうします。ありがとう」
お話し中にごめんなさい、と頭を下げた娘たちが、もと居たテーブルへ戻っていく。素直な後ろ姿を見届けると、イーサンは再度の苦笑いを刻んだ。
「驚いたろ」
「いや……」
「悪かったな。最近は、もうずっとこの調子なんだ。まぁ、親としては気の悪い話でもないんだが」
「テオバルドは、よく顔を出しているのか?」
「あぁ。おまえの言うとおり、忙しくしているとは思うんだがな。それでも月に一度は顔を出してくれている。エレノアも喜んでるんだ。おまえの教育の賜物だな」
示された感謝に、そうか、と静かに相槌を打つ。
――そういうところは、変わっていないのだな。
森の家からの距離とは、時間も手間も大幅に異なる場所に住んでいるだろうに。思えば思うほど、弟子の優しさと生真面目さが懐かしかった。
「まぁ、顔を出すと言っても、ゆっくりしていくわけではないんだがな。エレノアの手伝いをしてやって、飯を済ませたと思ったら、早々に引き上げていきやがる」
「そうか」
想像に易いあたたかな光景に、そっとした笑みを浮かべる。その表情の変化を穏やかに見つめ、イーサンもほほえんだ。酒を舐め、ほんの少しだけ顔つきを真面目なものに変える。
「なぁ、アシュレイ。おまえは、これからも王都に行く機会はあるだろう。よければ、そのときはまた気にかけてやってくれないか」
「……そのつもりでいるが」
控えめな物言いを不審に感じつつも、アシュレイは請け負った。
必要以上に干渉する意志こそないが、エンバレーに赴いて以降もテオバルドのことは気にかけていたし、これからもそうするつもりでいる。
成長した当人にとっては、望んでもいないことかもしれないが。
「やっぱり、おまえは情に厚い男だな」
ほっとしたように、イーサンが破顔する。
「しかし、いかんな。もう十分な大人とわかっているのに、つい親馬鹿をしそうになる」
「なぁ、イーサン」
親馬鹿という言葉に、ふとアシュレイは問いかけた。
「なんだ?」
「その、テオバルドは雰囲気が少し変わったな」
ルカからは、「きみたちは師弟揃って反抗期なのか」と大笑いされているのだが、そのあたりの事実は伏せて、婉曲的な言葉を選ぶ。
アシュレイがテオバルドと最後に言葉を交わしたのは、魔法学院に送り出した十五のときのことだ。そこから数えて、七年の月日が経っている。
少女のようだった顔つきも大人の男のものに変わっていたし、魔法使いとしての成熟度も段違いに上がっていた。過去の自分が見立てたとおりの立派な魔法使いと言っていい。
だから、変わってもあたりまえだとわかっている。いるのだが。
「そうか?」
悩むそぶりでイーサンが首をひねる。
「俺からすると、あまり変わらんように思えるが」
「……そうか」
「まぁ、そうは言っても、俺よりおまえと過ごした時間のほうがもう長いだろう。おまえの感覚のほうが正しい気もするが、と。お、噂をすれば、テオじゃねぇか。よう、テオ」
アシュレイの背後、入口に向かって、イーサンが軽く手を上げる。その名前と感じ取った気配に、アシュレイも振り返った。
森にいた当時より濃くなっているものの、根本は同じものだ。それに、アシュレイは一度覚えた気配を忘れない。馴染んだものであれば、なおのことである。
だが、目の合ったテオバルドは、驚いたように星の瞳を瞬かせた。店にいるあいだ、要らぬ威圧を与えぬよう気配を消していたことは事実だが、気がつかなかったのだろうか。
「師……」
「テオバルドさん!」
駆け寄った娘の背中に視界を遮られ、無言のまま姿勢を戻す。困惑している様子がありありと伝わってくるものだから、気の毒になったのだ。
それは、まぁ、父親の店で――おまけに父親の前で迫られてしまっては、やりづらいに違いない。エレノアが席を外していたことは幸いだったろうが、テオバルドからすれば、師匠である自分も似た立ち位置の人間だろう。
「テオバルドさん、おひさしぶりです。覚えてますか? エリンです。先月の夜はハリエットと出かけられたと聞いたのですけど、今日は私と出かけませんか」
「ちょっと、エリン、抜け駆けしないでよ」
「なによ、あんたが出遅れるから悪いんでしょう? ねぇ、どうですか」
きゃいきゃいと響く高い声に、苦笑ひとつで酒を呷る。最近の娘は、アシュレイの想像をはるかに超えて積極的なようだった。
そういうものなのかもしれないが、昔から森に引き籠もっていた上に、つい最近まで僻地にいた自分には、よくわからない話である。
――しかし、先月はハリエットと、か。
どんな娘かは知らないが、町の娘に興味はないというふうだった十二、三のころのテオバルドと違い、今のテオバルドはそれなりに遊んでいるらしい。
グラスを置いて無意識に首をひねったアシュレイに、イーサンがにやけた顔で囁く。
「ほらな。モテるんだよ、俺の息子は」
「勝手なことばかり言わないでください」
苦々しい声に、目線を持ち上げる。聞き慣れているようで聞き慣れない、大人になったテオバルドの声。
テーブルのすぐそばに立ち、こちらを見下ろすテオバルドは、声同様の苦りきった顔をしていた。あまり見たことのない表情だったが、イーサンが頓着する様子はない。
「なんだよ、テオ。照れんなよ、いまさらじゃねぇか」
能天気とも取れる父親の台詞に、テオバルドがさらに眉根を寄せる。
「そういうことではなく……」
「あぁ、悪い、テオ」
会計を求める声に、話を遮ってイーサンが立ち上がった。その流れで、ぽんと息子の肩を叩き、客に愛想の良い顔を向ける。先ほどの娘たちだ。
「お嬢さん方、よかったね。タイミングが合って」
娘たちのテーブルから届いた調子の良い父親の台詞に、テオバルドはまたなにか言いたい顔をした。けれど、結局、すべてを呑み込んだ顔で黙ったので、難儀なやつだなと呆れまじりの視線を送る。
真面目というべきか、あいかわらずイーサンの冗談を真に受けすぎているというべきか。そう過剰に恥ずかしがる必要もないだろうに。そんなことを考えていると、イーサンとやりとりをしていた娘のひとりが、こちらに大きく手を振った。
「じゃあ、テオバルドさん。次は絶対遊んでねぇ」
名指しで叫ばれたテオバルドの顔に、いかにもな愛想笑いが広がる。難儀なやつだな。思わずアシュレイは内心で繰り返した。扉の閉まる気配に、ぽつりと呟く。
「女遊びをするのか、おまえが」
「いけませんか?」
「いや」
憮然と聞き返され、返答に詰まる。
かわいい子どもだった当時のイメージが抜けていないだけで、目の前のテオバルドは二十二才のいい大人だ。いけないわけがない。
「べつに、いけなくはないが」
そう、いけなくはない。ただ、なんとも言えない違和感があるというだけで。
さぼりすぎだと常連客に絞られる声がしていたので、イーサンはしばらく戻らないだろう。諦めて小さく溜息を吐けば、同じような溜息を吐き返される。
「わかったでしょう。私はもう、あなたの小さなテオではありません」
嫌そうな言い方に、宮廷で会ったときのことをアシュレイは思い出した。
昔の調子で「眠いのか」と尋ねたときも、テオバルドはこれと似た顔をした。たしかに、その扱いはもう正しくないのかもしれない。だが。
正しい言葉を選べずにいると、テオバルドが一段と呆れた声を出した。
「あなただって、女を抱いたことくらいあるでしょう」
「ない」
「……え」
「あいにく興味が湧かなくてな。女とも、男とも、もちろん魔物とも。交わったことは一度もないが、とくにそれで不便はしていない」
最後の一言は、宮廷で散々に聞いた、この容姿が魔物との契約の産物である、という噂への皮肉である。聞いた覚えでもあったのか、テオバルドが妙な顔をした。
幼いころの困り顔と重なって、アシュレイは笑った。
「だが、まぁ、あの小さかったおまえが、どんな顔で抱くのかと思うと興味は湧いた」
今度黙ったのはテオバルドのほうだった。困り顔がかわいからと、からかいすぎたらしい。冗談だ、と告げて、グラスを手に取る。
「気にするな」
時は流れる。自分のような者の上を除いては、公平に。進んで道を踏み外した自分には、嘆く資格もないことだ。
「呑みすぎですよ」
そっと息を吐いたテオバルドが正面の椅子を引き、グラスを抜き取った。取り返そうという気も起こらず、浮いた手にそのまま頬を乗せる。
「イーサンのようなことを言う」
「あなたがそんなふうだから、みな同じことを言うんです」
「そんなふうとはなんだ。人並みに生活している」
「そうですか? いつだったか、母は永遠の子どもだと言っていましたよ」
いかにもエレノアの言いそうなことだった。軽く顔をしかめると、また呆れたふうな笑みをこぼす。昔だったら、まずしなかっただろう笑い方。
「まぁ、話を聞く限り、似たようなものかと思いましたが」
「テオバルド」
宥める意図を理解していただろうに、テオバルドはさらりと言葉を続けた。囁くような大きさだったはずの声が、不思議なほどはっきりと耳に届く。
「それとも、試してみますか? 知らないんでしょう、なにも」
「……知らなくとも不都合はないと言ったんだ。あまり師をからかうな」
先にからかったのは自分だが、こんな返しをされるとは思わなかった。これも大人になったということなのだろうか。
呆れるやら、感慨深いやらで、うんざりと頭を振る。やはり、今の自分が余計なことを言うものではなかった。そう思うことで矛を収め、アシュレイは話題を切り替えた。
帰ってきてから不機嫌な顔ばかりを見ているが、気を悪くさせたいわけではないのだ。
「だが、まぁ、問題なく過ごしているようでなによりだ。立派になったな」
テオバルドの瞳が揺れたように思え、軽く首を傾げる。持っていたグラスへと、テオバルドは視線を落とした。
「あなたは……」
「うん? 俺がなんだ」
「あなたは、なにも変わりませんね」
なにも言えず、伏せ目がちの顔を見つめる。なにも変わっていないということが、この見た目のことであるとすれば、事実でしかなかったからだ。
「はじめて会った、七つのときからずっと」
その声がどこか寂しそうだった理由は、いったいなんだったというのか。
少し母のところに顔を出してきます、と大人の顔で断ったテオバルドが席を立ってからも、アシュレイは答えを出すことができなかった。
ともだちにシェアしよう!