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27.頑なな心の裏腹(前編)

「はぁい、テオバルド。それにジェイデンも。元気そうね」 「アイラ」  薬草学研究所――通称・特殊研究棟の前でかかった声に、テオバルドたちは立ち止まった。  研究棟でまたしても夜を明かしたのか、呼び止めたアイラの赤銅色の長い髪はぼさぼさに乱れている。テオバルドはごく自然とその髪に手を伸ばした。 「おつかれさま。また研究棟で夜を明かしたの?」  テオバルドたちが所属する総合研究部も忙しいが、変人揃いと評判の特殊研究棟は常にその上を行っている。ひとたび没頭すると徹夜という事態は、決して珍しいことではないそうだ。 「そうなの。どうしてもうまくいかなくて。――あぁ、ありがとう。テオバルド。もう切ってしまおうかしら、邪魔なのよね」 「もったいないよ。せっかくのきれいな髪なのに」  苦笑しつつ、手櫛で毛先の絡まりを解いていく。大昔、アシュレイに対してもよくやっていたことなので、要領はわかっている。  ――なんだか、懐かしいな。  身なりに頓着しない師匠に代わって整えることが、幼いテオバルドの仕事だったのだ。思い出すと胸は少し痛むけれど、金色の細い髪に触れることが、たしかに自分は好きだった。 「ありがとう、テオバルド。でもね、そういうことは言わないほうがいいし、安易に女性の髪に触れないほうがいいわ。私は勘違いしないけれど、あなたは人気があるんだから。ほら、見てみなさいよ。ジェイデンのあの渋い顔」 「え? あぁ、ごめん」  指摘を受け、慌てて手を離す。同志としか見ていなかったという理由であったとしても、アイラの言うとおりだ。 「ジェイもごめん。そんなつもりはなかったんだ。本当に、まったく。これっぽっちも。きみに誓って」 「それはそれで失礼な話ね」  あっけらかんと笑ったところで、アイラは丸い眼鏡を外した。肩の凝りをほぐす調子で腕を伸ばしつつ、いたずらに続ける。 「私、ついこのあいだも、あなたのことを根掘り葉掘り聞かれたのよ。本当にモテるわよね。学院にいたころもそうだったけど、年を追うごとにパワーアップしてるみたい。知っている? あなた、街でとんでもない遊び人みたいに言われてるわよ」 「……噂だよ」  神妙に否定したテオバルドに、ジェイデンが含み笑いで口を挟んだ。 「それも俺に誓えるのか? テオバルド」 「ジェイ」  勘弁してくれと首を振れば、堪えきれなかった様子で吹き出されてしまった。アイラまで一緒になって笑い出すので、もう苦笑いにしかならない。笑いの波がおさまるのを待っていると、アイラがようやくと研究棟を見上げた。 「徹夜だったと言ったけれど、緑の大魔法使いさまがエンバレーから持ち帰ってくださった新種の薬草で、飛躍的に研究が進みそうなのよ」 「研究って、きみがずっと打ち込んでいる魔力の安定と増幅の?」 「そう、それ」  大きく頷いたものの、いつものような研究の与太話が続く気配はない。代わりに、はぁ、という大きな溜息。予想外の反応に、テオバルドはジェイデンと顔を見合わせた。  学院生時代から、どれほど行き詰まろうとも、こげ茶の瞳をわくわくときらめかせていたアイラである。これはよほどの難局に違いない。 「どうしたんだ、アイラ。おまえの脳みそより役に立つとは思わないが、俺かテオに話してみろよ。話すうちにこんがらがった思考の糸も解けるかもしれないぞ」 「テオバルドが、私の髪を直してくれたみたいに?」  茶目っ気のある切り返しを披露して、アイラは肩をすくめた。 「大丈夫よ。もちろん、大丈夫と言っても、これからの私たち次第ではあるわけだけど、諦めなかったら、いつか答えが出ることに違いないもの。ただ、どうしてもしっくりといかないところがあって」  突破口を見つけられないまま丸二日座っていたものだから、外に出ろって追い出されちゃったのよ、と苦笑する。その返答に、テオバルドは曖昧に笑った。 「たしかに。それは少し休憩をしたほうが効率も良いかもしれないね」 「まぁ、そうよね。だから、あなたたちと話せてよかったわ。良い気分転換。また今度、一緒にお酒でも呑みましょ」 「もう戻るのか?」 「ええ、もう十分。早く取りかからないと、それこそ体調が悪くなっちゃうわ。落ち着かないんだもの」  言うと同時に、アイラは颯爽と踵を返した。引き留めるつもりだったらしいジェイデンが、なんとも言えない顔で宙に浮いた手を持て余している。取り成そうと、テオバルドは声をかけた。 「あいかわらずだね」 「あぁ、あいかわらずだ。もう一月ろくに顔を合わせていない。一ヶ月だぞ、一ヶ月。おまえのお師匠たちが戻って一気に忙しくなった」 「それだけの成果があったということだよ」  アイラの話に出た新種の薬草も、そのひとつだ。事実、遠征隊は多くの成果を持ち帰った。だが、ジェイデン個人としては割を食った気分であるらしい。  募る恨み節を「しかたないよ」で受け流し、テオバルドは研究部へ歩き出した。昼休憩を終えて戻るところだったのだ。  ――でも、もう少し早く顔を合わせていたら、アイラも食堂に連れて行ったのにな。  丸二日座りっぱなしだったと笑っていたけれど、食事はきちんと取っているのだろうか。 「ねぇ、ジェイデン。俺が言うことじゃないけど、睡眠と食事は取るように言ったほうがいいと思うよ。研究に没頭するタイプの魔法使いって、本当に寝食をおろそかにするんだ」 「何回も言ってるに決まってるだろ。聞かないんだよ、あいつが」  大仰な溜息を吐いて、ジェイデンは続けた。 「特殊研究棟に入って、ますます頑固さに磨きがかかった。なんなんだろうな、あいつらのあの熱量は」 「たしかに、少し異質ではあるよね。学者肌の人が集まってるからなんだろうけど。ああいうタイプって、こっちの心配は知らない顔だし。なんというか、気持ちはわかるよ」 「なんだ。実体験か?」 「いや、べつに」  と言いかけたところで、テオバルドは口ごもった。実家に帰った際の自身の言動を思い出したせいである。悶えたい衝動を堪え、平静を装う。  それにしても、なんで、あんなことを言ったのか。二週間近くが経った今も、テオバルドは自問の答えを出すことができずにいた。それは、まぁ、祝賀会の夜から悶々としていたことは、事実であるけれど。だからと言って、あんな言動を取る必要はなかったのではないか。  ――いや、でも、あの人も大概おかしいだろ。  幼かった当時は「ああいうもの」と素直に捉えていたけれど、今になって振り返ると、「天才と奇人は紙一重」という節の強い人だった。そう、だから、きっと、ひさしぶりに「それ」を目の当たりにして、驚きすぎたのだ。責任を転嫁し、なんでもないふうに呟く。 「そういうわけじゃない、けど」 「そういうわけじゃないけど、ねぇ」  意味深長に繰り返されて、恐る恐るテオバルドは隣へ視線を向けた。嫌な予感がする。 「しかし、おまえもなかなか難儀だな。子どもでもあるまいし、本命にこそ優しくすればいいだろうに。大魔法使いさまが、俺になんと仰っていたか教えてやろうか」 「え?」  予感どおりと言うべきか、それ以上と言うべきか。とんでもない方向に逸れた話題に、テオバルドはわずかに固まった。慌てて問いかける。 「ちょっと待って、ジェイデン。あの人と、いったい、なにを」 「いや、まったくの偶然だったんだが。このあいだ、おまえのお師匠とご一緒する機会があったんだ。せっかくだからと挨拶をしたら、なんと下っ端の魔法使い(俺のこと)を存じておられてな」  遠征から戻ったアシュレイは、かつてと違い、宮廷にもたびたび顔を出していた。ジェイデンと顔を合わす機会があったとしても、なんら不思議はない。もっとも、気配を察すことで鉢合わせを避けているテオバルドは、ほとんど顔を合わせていないのだが。 「おまえの手紙によく名前が出ていたから、だそうだ。学院生時代のおまえに感謝しよう」  ますますなにも言えなくなってしまい、軽くうつむく。もしかしなくとも、あの人の中の自分は、離れることを寂しがった十四のころで止まっているのかもしれない。 「それでだな」 「……うん」  楽しそうなジェイデンの声音が、とてつもなく恐ろしい。それでも、テオバルドはどうにか相槌を絞り出した。 「お師匠は、あいつの反抗期は随分と遅くに来たのだな、と仰っていたが。おまえ、そこまでの態度を取ったのか? 聞いた瞬間、笑いそうになったぞ」 「待って、ジェイデン」 「おまけに、いたく心配もしておられてな。もしや、おまえにも冷たく当たって迷惑をかけていないか、と」 「待って。本当に、待って」 「だから、そんなことはありません、と答えておいたぞ。お弟子は真面目で朗らかで、おまけに優秀にできているので、とくに女性からは大人気です、ご安心なさってください、と」 「……」 「安心しろ、女性から、とは言っていない。冗談だ」 「……ジェイデン」  呻くように呼びかけると、冗談だ、と笑いを堪えた声でジェイデンが繰り返した。その一言が冗談だったとしても、それ以外が本当であるのならば、なにの救いにもならない。  苦い顔になったテオバルドをひとしきりからかったところで、ジェイデンは声音を改めた。 「なぁ、テオバルド」  無言のまま、視線を動かす。この四年、自分の中に渦巻いていた悶々とした感情は、あの人にとって想像を巡らす余地も起きないものだったのだ。平然とした態度を見たときからわかっていたことだったのに、諦めとも苛立ちともつかないものが胸中を飛来していく。 「余計なこととは思うが、なにがそんなに気に食わないんだ?」  気に食わないという単語を、テオバルドはひっそりと反芻した。そう感じた瞬間がないとは言わないが、自分の心のうちを占める大半は、きっと、それではない。 「昔のおまえがお師匠を慕っていたことは、よくよく知っている。だから、卒業を前に遠征に発たれたショックも、おまえが覚えた寂しさもわかるつもりだ。だが、当時のおまえが言っていたとおり、しかたのないことだろう」  淡々と諭す雰囲気に、口元に薄い笑みを浮かべる。 「それなのに、なんで、そう、素直にご帰還を喜べないんだ? なにか理由があるというのなら、話を聞くが」 「そうだね。わかってる」  同じように淡々と認めることを、テオバルドは選んだ。わかっているし、帰還を喜んでいないわけでもないつもりだ。 「ちょっと意地を張っていたら、接し方がわからなくなっただけだよ。なにせ、七年ぶりだったから」  ――師匠。あなたは、遠征がなくとも、俺と距離を置くつもりでいたのではないですか。  これも今になって思えば、の話でしかない。けれど、アシュレイは、やんわりとであったものの、手紙を通し自分に宮廷勤めを勧め続けていた気がするのだ。  彼自身は宮廷と一定の距離を取っているにもかかわらず、それがおまえの正しい道だと告げるように、ずっと。  だから、素直になることができないでいる。けれど、それが理由のすべてではない。明かせるはずのない真実を呑み込み、「それだけ」と笑って、テオバルドは話を終わらせた。  ――師匠。あなたは、どうして深淵に触れたのですか。  どうして、姿が変わらないのですか。それは、父のためでしたか。父を愛していたからでしたか。  私を愛してくれたのは、父の息子だったからですか。  あのころのように素直に言葉にすることができない問いばかりが、四年のあいだで随分と降り積もってしまった。それが妙な意地になったのかもしれない。  どちらにせよ、無邪気に「師匠」と縋るには、さまざまな感情を知りすぎてしまったのだ。  これが、あの人の望んだ、ふたりきりの森を出た結果なのだろうか。そうかもしれないとも思う。少なくとも、その期間で自分は純粋な子どもではなくなった。  七年は、長い。アシュレイがどう感じたのかはわからない。ただ、アシュレイのいない七年は、テオバルドにとって途方もなく長いものだった。

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