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28.頑なな心の裏腹(後編)
――アイラの憔悴ぶりも致し方なしって感じだったな、特殊研究棟。
頼まれた案件で顔を出したにもかかわらず、「ちょっと待って」の言葉を最後に長々と放置を食らったくらいだ。それは、まぁ、忙しいことだろう。
出てきたばかりの棟を見やって、テオバルドは小さく息を吐いた。十五分程度の滞在だったというのに、ローブにすっかりと匂いが移っている。
エンバレー由来の薬草で進捗があったのは、アイラの研究だけではなかったようで、煩雑とした研究所内のあちらこちらから薬草の香りが漂っていたのだ。指先で軽くつまみ、匂いを逃すように秋の風に泳がせる。
この状態で研究部に戻ると、鼻の良い同僚に嫌がられてしまいそうだが、しかたがない。ただでさえ遅くなっているのだ。そう割り切り、近道となる中庭を抜けようとしたテオバルドだったが、急転直下、方向を変えた。師匠の気配を感じ取ったからである。
――このまま進んだら、間違いなく、いる。
実家の店を訪れたときは抑えられていたために気づくことに遅れたが、宮廷でのアシュレイはこれ見よがしなほどに気配を隠さない。
近づくことができるのであれば好きにしろと言わんばかりのそれを、回避策としてテオバルドはありがたく活用していた。みっともなかろうが、顔を合わせたくなかったのだ。だが。
「待て、テオバルド」
背中にかかった声に、テオバルドの足はぴたりと止まってしまった。懐かしい、凛とした声。
画策しておいて言えた台詞でないと承知しているが、それでも。師匠の呼びかけを無視することは、さすがにできなかった。感情をどうにか整え、振り返る。
「なにか御用ですか」
「御用というほどではなかったんだが。おまえがあまりにもわかりやすく方向を変えるから……、と、なんだ。すごい匂いだな」
「あぁ、これは」
研究棟で、と言いかけたところで、言葉が途切れる。近づいてきたアシュレイが胸元のローブを掴み、顔を寄せたからだ。フードから覗く金色の睫毛が、ぱさりと揺れる。
「師……」
「ルカが拾ってきたやつか。余計な配合が混ざっている気はするが」
いや、違うな、これは。ぶつぶつと呟き始めたアシュレイの意識は、もはや欠片もこちらに向いていまい。
……そういう人だよな。
熱中している雰囲気に、テオバルドは内心でひとりごちた。
ひとたび興味のあるものを目にすると、何時間でも平気で没頭してしまう人。そんな人だったから、子どものころの自分は、放っておけないと思い込んでいた。
「気になるのなら、薬草学研究所に顔を出されたらどうですか。間違いなく歓迎されますよ。煮詰まっているそうですから」
「いや、いい」
研究所の魔法使いとの交流を面倒と判断したに違いない。思いのほかあっさりと解放されたテオバルドは、安堵半分で首を振った。
「はぁ、そうですか」
「なんだ、その気のない返事は」
苦言を呈したものの、アシュレイはさして気分を害したふうでもなかった。あいかわらずと言えば、あいかわらずの態度。こういう人だったよな、とテオバルドは内心で繰り返した。師匠として弟子を咎めることはあっても、本質的なところでこの人は自分に甘いのだ。
案の定、さらりと話題が切り替わっていく。
「だが、まぁ、いい。呼び止めたのは、おまえに言いたいことがあったからだ」
「言いたいこと、ですか」
いったい、どれのことだろう。どきりとした心境を隠し、淡々と問い返す。
「なんでしたか」
「俺がいないあいだ、家の管理をしてくれていただろう」
「え」
「おまえだろう? 違うのか」
見上げてくる緑の瞳に、テオバルドはうっと息を呑んだ。違わないし、アシュレイが感知しないと高を括っていたわけでもない。
ただ、今日このタイミングで問われるとは想定しておらず、つまるところ、心の準備がまったくできていなかったのだ。混乱したまま、ひっそりと拳を握る。
――なんでそんなことしてるんだろうって、俺だって、ずっと思ってたよ。
月に一度、仕事の合間を縫ってグリットンに戻り、頼まれてもいない師匠の家の手入れをする。彼が必要としていない事実を承知していても、この四年やめることができなかった。
たったひとつの繋がりがなくならないよう、必死に補強するみたいに。
「……余計なことをしました」
「なにを言う。助かった。その礼を言おうと思っていたんだ」
懸念ごとあっさり否定したアシュレイが、かすかに目元をゆるめる。はっきりとした表情の変化ではない。けれど、うれしいときに彼がする表情とテオバルドは知っていた。
「ありがとう。それだけだ」
言葉のとおり背を向けたアシュレイを、「あの」と呼び止める。なにを言うつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、声が出たのだ。不思議そうにアシュレイが振り仰ぐ。
「なんだ?」
「あ、……その」
緊張を抑えるように、テオバルドは小さく息を吸った。
「俺も、酒を呑める年になりました。だから、その、今度」
なんの気なしにアイラが自分たちを誘ったように、自分もなんの気もないように。そう努めたにもかかわらず、妙に上ずった声になった。でも、しかたがない。だって、なんの気もなくはないのだ。
「その……」
しどろもどろのテオバルドを急かすことなく、緑の瞳は静かに挙動を見守っている。
その事実に、はっとした気持ちになった。はるか昔、拙い自分の質問のすべてに耳を傾けてくれたことと同じ、真摯な態度。認識した瞬間、意地がひとつ抜け落ちた気がした。
力の入っていた拳を解いて、できるだけ穏やかに言い直す。
「明日の夜、お時間はありますか?」
「……あるが」
「でしたら、その、一緒に酒でも呑みませんか。次の日は休みですが、その日は仕事があるので、父の店ではなく王都の店になりますが」
テオバルドの誘いに、アシュレイはほんの少し驚いたようだった。
「おまえがよく使う店なのか?」
「はい。ジェイデン――同僚たちと、たまにですが。あ……、いえ、ご希望があれば、ほかのところでも」
「いや」
首を振ったアシュレイが、そっと口元を笑ませる。柔らかな表情に、テオバルドはしばし見惚れた。
「楽しみにしている」
懐かしかったのだ。師として自分を受け止め、あたたかく包み込んでくれた、大好きだった笑顔。ひさしぶりに見たせいか、胸が熱い。
あのころのような純粋なだけの気持ちでは、もうない。何年も経って思うところも増えた。それでも、どうしたって、好きなのだ。認めることさえ、なかなかできなかったけれど。
そんなテオバルドの心境などつゆ知らない顔で、アシュレイがもう一度ほほえんだ。
「俺の知らない四年の話を聞かせてくれ、テオバルド」
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