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29.帰りつくところ(前編)

 とんとんと扉を叩く音がする。  朝も早くから森の家に押しかけるとは、いったいどんな用件だ。安眠を阻害された忌々しさで、うんざりと息を吐く。眠り直したいものの、それなりの用であることに違いはない。  諦めて上体を起こしたアシュレイだったが、視界に入った髪の色で思考が止まった。 「……」  なぜか同じベッドで、大きくなった弟子が気持ち良さそうに寝入っている。  カーテンの隙間からこぼれる光に照らされた、夜色の髪。見間違うはずのない色を見つめ、なるほど、とアシュレイは頷いた。  ――ということは、ここはテオバルドが借りているという部屋か。  宮廷魔法使いの多くが居住しているという、借り上げのアパートメント。同期とも行き来がしやすく、なによりも職場に近いので助かるとうれしそうに話していた。  ついでとばかりに、ぐるりと室内を見渡す。暖炉にチェスト。書き机と丸テーブル。シンプルながらも小綺麗な空間は、いかにもテオバルドの部屋というふうだった。森の家でテオバルドが使っていた部屋と雰囲気がよく似ている。  そんなことを考えているうちに、またひとつドアが鳴り、ちらりとした視線を向ける。気配に聡いはずの弟子に起きる様子がなく、建物自体にも余所者を弾く線引きが施されている。おそらく訪問者は同僚の魔法使いで、悪意のある相手ではないのだろう。  結論づけ、寝顔へ視線を戻したアシュレイは、ふっと目元をゆるめた。大きくなったことに変わりはないが、こういった顔を見ると、まだ幼さが残っている。  ――あのころも、俺のそばだとよく眠っていたな。  本当に幼かったころ、魔獣を怖がったテオバルドに、自分のそばであれば安全と刷り込んだことがあった。その名残なのかもしれない。  問題のある訪問者でないのであれば、起こすことも気の毒だ。ベッドを静かに出て、アシュレイは部屋を横切った。  椅子に引っかけられたローブがふたつ目に入ったものの、素通りを決め込む。寝起きそのままの格好だが、ローブの下に着ていたものなのでかまわないだろう。それに、どうせ相手は宮廷魔法使いだ。  ――しかし、なぜ、泊まることになったのだったか。  誘われて酒を呑んだことは覚えているものの、途中からの記憶がすっかり抜け落ちている。たいしたことはしていないはずなので、まぁ、いいのだが。  自分の酒癖を悪いと感じたことはないし、イーサンに物を申されたこともない。まず間違いはないはずだ。過去の実例に基づいた判断を下し、そっと扉を開ける。 「テオバルドなら寝ているが、なんの用だ? 言伝があるなら代わりに聞いておくが」  今日は休みと言っていたが、激務と噂の宮廷勤めである。急ぎの用の可能性を考慮して重い腰を上げたというのに、こちらを視認した来訪者がぎょっと驚いた顔になった。  ぎょっとされる程度の反応は慣れたつもりでいたものの、凝視してくるばかりでうんともすんとも言おうとしない。溜息を呑み込み、再度アシュレイは問いかけた。 「なんだ?」 「――っ、あぁ、いえ、失礼しました! なんでもありません」  弾かれたように頭を下げた若者は、くるりと背を向けるなり、バタバタと階段を駆け上がっていく。どこの子どもかと言いたくなる慌ただしさに、ぽつりと声がもれた。 「なんでもなくはないだろう」  仮になんでもないというのであれば、そう何度もドアを叩くなという話である。  気配も魔法使いのそれであったし、年恰好もテオバルドと変わらなかったので、同僚であることはたしかと思うが。  不審を抱きつつも扉を閉めたところに、背後から長い腕が伸びてきた。その指先が乱雑に鍵をかける。誰かはわかりきっていたので、アシュレイは驚くことなく振り仰いだ。 「テオバルド」  扉に手をつき、こちらを見下ろす弟子の表情は、なぜかまたしても不機嫌に染まっている。寝起きの問題か、それとも酒が残っているのか。  記憶が飛ぶことはあれど、翌日に酒が残ることはアシュレイはまずないのだが、テオバルドは残る部類なのかもしれない。気の毒になり、やんわりと提案をする。 「寝足りないのであれば寝直してきたらどうだ? 急ぎの用ではなかったらしいが」 「違います」  いかにもうんざりと首を振ったテオバルドが、寝癖とは無縁そうな前髪を掻きやった。そうして、溜息まじりに口を開く。 「……あなたがあんなに酒癖が悪いとは知りませんでしたよ」 「俺はおまえになにかしたのか?」 「いえ。覚えていないのならけっこうです。そのまま忘れていてください」  そう言われると蒸し返しづらく、アシュレイは無言で眉根を寄せた。  イーサンにもルカにも指摘をされたことはないからと高を括っていたが、あのふたりとテオバルドを一緒にすること自体に問題があった可能性はある。  ちらと見上げると、目が合ったテオバルドが呆れた視線を返した。 「それと、そんな格好で、扉を開けないでください」 「そんな格好?」  繰り返した直後に、ローブのことかと思い至る。あの森にいたころのアシュレイは、外に一歩でも出るときは必ずフードを被っていた。必要があって取っていた行動に過ぎないが、それを当然と思っていたテオバルドは違和感を覚えたのかもしれない。 「そうは言っても、いまさらだろう」  あるいは、同僚に気味の悪い思いをさせたくなかった可能性もあるが、グリットンの住民であればいざ知らず、宮廷魔法使いは気遣う気の起きない範疇だ。それに、この顔はすでに宮廷で晒している。  淡々と説明したアシュレイに、テオバルドが歯切れの悪い調子で呟いた。 「いまさら」 「俺はそう思うが。どうかしたのか」 「いえ、その、そういうことではなく」 「そういうことではない? なら、なんだ」 「師匠は」  はっきりとしない物言いを問い返せば、テオバルドがまたひとつ溜息を吐いた。 「私が宮廷で稚児趣味と噂されたら、どう責任を取ってくださるのですか」  苛立ったような瞳に、アシュレイはかすかに怯んだ。一心に自分を見上げていたころの純粋な星の瞳がちらついたせいである。  加えて、もうひとつ。有り得ないと言い切ることのできない見た目である自覚は、有しているのだ。どうにからしい反論を試みようと、口を開く。 「宮廷勤めの魔法使いであれば、把握していると思うが」 「そうじゃなかったらどうするんです」 「気配の見分けはついているつもりだが」 「万が一の話をしています。絶対などという言葉を使うなと私に仰ったのは、師匠ですよね」  言った覚えがあったので、アシュレイはそれ以上の反論を諦めた。もっとも、言い聞かせていた当時のテオバルドは、かわいらしく素直であったが。 「万が一そういうことがあったとしたら」 「はい」 「イーサンとエレノアには誠意を持って誤解だと説明しよう。安心してくれ」 「なにも安心できません。今後、絶対、開けないでください。俺が出ます」  いやにはっきりと否定されてしまった。なにを頑なになっているのかの見当はつかないが、ここはテオバルドの部屋である。家主が言うのであれば、従うべきであろう。 「……そうしよう」 「ええ、ぜひ、そうしてください」  憮然と頷いたところで、テオバルドの渋面が少し改まった。言いたいことを言って気が済んだらしく、扉から手を離し、かすかにほほえむ。幼いころの面影のある、控えめな笑顔。 「ところで、師匠。腹は空きませんか?」

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