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31.帰りつくところ(後編)
アシュレイの返事に、星の瞳が安心したふうにゆるむ。自分のほうこそ、もっと早く言ってやるべきだった。いまさらなことを、少し悔やんだ。
それからは、ぽつぽつと離れていたあいだの話をした。
学院にいた三年間は手紙でよく知らせてくれたが、卒業し宮廷に勤めてからの四年間のことはほとんど聞いたことがなく、どの内容も新鮮だった。
昨日の夜に聞いた可能性は否めなかったが、「そこまで話していませんよ」とテオバルドが言うので、気遣いに甘えることにした。あいかわらず、よくできた弟子である。
「北の大地は魔獣が多いと聞きましたが」
「年に寄るという話だが、多い印象はあったな。フレグラントルだと大型の魔獣にはそうお目にかからないだろう。大型を葬ったのは、俺もひさしぶりだった」
抱えた杖に目を向けて、アシュレイは応じた。あの土地にいた四年は、魔獣と見合うことがあたりまえの日々だった。
「どういう仕組みかは今後解明したいところだが、あのあたりは魔力の強いものが生まれやすいのだろうな」
だからこそ、希少な薬草も群生していたのだろう。
ルカが嬉々として採取した薬草の大半は宮廷に預けられたが、果たして、いくつにめぼしい成果が出ることやら。
薬草学研究所は大変だろうと水を向けると、テオバルドは笑って頷いた。
「つい先日も、すごい匂いだとあなたに言われましたが、なかなか忙しいは忙しいようですよ」
ですが、と穏やかな調子の言葉が続く。
「私の同期で薬草学に長けた者がいるのですが、緑の大魔法使いさまがよく顔を出してくださると喜んでいました」
「女か?」
「は? ――あぁ、いや、アイラは女ですが、女ではなく。いえ、お互いただの友人だという意味で……、なにを笑っているのですか、師匠」
「いや、すまない。イーサンの店で聞いたときとは、反応がひどく違ったものだから」
喉を鳴らすと、テオバルドは随分と決まりの悪い顔を見せた。かわいいが、あまりからかいすぎるものでもないだろう。いつかのように、拗ねさせたいわけでもない。
コーヒーを一口飲んで、アシュレイは宥める声をかけた。
「そう恥ずかしがることはないだろう。あの学院でともに学ぶうちに、そういった感情を抱く相手ができたとしても、なにもおかしなことではない」
「違います」
慌てたふうに、テオバルドが首を振る。
「本当に違いますし、それに、私にはずっと好きな人がいるんです」
意外な返答に、思考が一瞬停止した。
……いや、だが、そういう相手がいてもおかしくはない、か。
イーサンは、浮いた話はあっても遊びばかりのようだと嘆いていたが、叶わぬ恋でもしているのだろうか。そうでなければ、遊んだりなどしないだろう。なにせ、テオバルドである。
「テオバルド」
「なんですか。誰かは言いませんよ」
「言わなくてもいいが、人妻はやめておけよ。いくらおまえが好いても叶わない思いというものもある」
「……違います」
痛いところを突きすぎたのか、テオバルドの返答は苦々しかった。
「もういいです。この話は終わりにしましょう」
「まぁ、いいが」
嫌と言うものをしつこく掘り下げる趣味もない。だが、しかし、そうか。顔に出さぬまま、母親と早くに引き離した弊害だろうかとアシュレイは考えていた。
――いや、だが、その場合の責任は、イーサンとエレノアにあるな。
引き受けたのは自分だが、幼い息子を弟子に出すと決めたのは、あのふたりである。テオバルドが黙り込んでしまったので、アシュレイも黙ってコーヒーを口元に運んだ。
雲雀の声がのどかな、気持ちの良い気候だった。
元来、アシュレイの口数は多くない。ルカといればルカが喋るし、イーサンがいればイーサンが、エレノアがいればエレノアが喋る。他愛のない話を聞くだけで充分で、自分のことを喋ろうという気があまり起きないのだ。
テオバルドと暮らしていたころを思い返しても、そうだった。テオバルドのするささやかな話と、穏やかな沈黙。そのふたつで自分は充分に満たされていた。
「少し驚きました」
ぽつりとした調子に、隣に視線を向ける。
「あなたもあんなふうに振る舞えるのだと」
「あぁ」
なんのことかと思い至り、アシュレイは軽く笑った。そういえば、種類の違う驚きの視線がひとつ混ざっていた。
「王の前だぞ。俺にも建前くらいはある。それに、おまえも卒業するときに誓ったろう。この偉大なる魔の力は、フレグラントル王国と民のためにのみ使用する、と」
「それは、まぁ、誓いましたが」
「強大な力を個人の所有にしないという考え方は、おおむね正しい」
手元を見つめていたテオバルドの視線が、こちらへ動く。ずっと昔、師匠の言葉はすべて覚えていたいと言った、幼い瞳。その瞳も、今やすっかりと成熟した色になっている。深みを増した瞳を見つめ、アシュレイは言葉を重ねた。
「強すぎる力は、時として人を狂わせる。だから、制約があるくらいがちょうどいい」
「……そういうものですか」
「少なくとも、俺はそう思っている」
あくまでも自分の主観というていを取ったのは、自身で判断をできる年にテオバルドがなっているからだ。テオバルドひとりで判断をすることは、これからいくらでも増えていく。
「その杖は自分でつくったのか」
話を変えて、テオバルドの杖に視線を移す。魔法学院に入学する直前に与えた杖は、卒業のタイミングで役目を終えたのだろう。
小さい身体でも扱いやすいように小ぶりのものを用意していたが、随分と大きなものになっている。必要以上の大きさとルカに評される自分の杖に比べると小さいが、宮廷魔法使いたちの中では大きな部類に違いない。
「はい、及ばずながら」
「見せてもらってもいいか」
「もちろんです、師匠」
コーヒーを置き、アシュレイは差し出された杖を大事に受け取った。よく使い込まれている事実が、指先を通じ如実に伝わってくる。
幼い時分のテオバルドの杖は、アシュレイが魔力を流し調整をかけたものだった。だが、これはもうすべてテオバルドのものだ。
指先で杖の輪郭をなぞり、そっと緑の瞳を細める。
「良い杖だ。本当に立派になったな、テオバルド」
自分で杖をつくることができるようになってこそ一人前の魔法使いとする論調は、今もなお古い世代に残っている。
専門の職人に任せることもひとつの手だが、自分の手で最適の素材を選び、つくることができるようになることは、わかりやすい区切りなのだ。
師の与えるローブも杖も、もう必要はない、つまり、師の加護は必要ないということ。返された杖を受け取ったテオバルドは、どこかほっとした笑みを見せた。
杖に視線を落としたまま、静かに口火を切る。
「あなたが」
「俺が、なんだ?」
「あなたが正しい知識が必要だと口を酸っぱくして教えてくれたおかげで、俺は同期一の勉強量だとよく褒められました。それで、今も」
懐かしそうに語る横顔を、アシュレイはただじっと見つめた。
弟子に取ってすぐのころ、イーサンとエレノアの遺伝子が奇跡的なバランスで混ざった結果と感心した顔立ちは、成長した今もきれいに整っている。
王都やグリットンの町で人気があって当然だ。魔法学院に通っていたころも――その当時のテオバルドは興味がなかったかもしれないが、同様だったことだろう。
なにせ、容姿だけでなく、魔法使いとしての能力も抜きん出ているのだ。おまけに、性格も良い。アシュレイの自慢の弟子だ。
――選ぶ相手など、いくらでもいるだろうに。
なにもつらい恋を選ばなくともと案じてしまうのは、師匠心というやつなのだろうか。自分がなにか言ったところで、今のテオバルドには余計な世話だろうが。
「学ぶべき知識は際限がありませんね。あなたが昔、時間を惜しんで起きていた理由を、いまさらながら痛感しました」
「そうか」
関係のないところに思考を飛ばしていたと悟らせない調子で、アシュレイは頷いた。繰り返すが、渋い顔をさせたいわけではない。
そんなアシュレイの内心をつゆ知らない様子で、テオバルドは話を続けた。
「あのころは、偉そうに早く寝ろと言っていましたが」
「あぁ」
苦笑まじりの声は気恥ずかしそうでもあって、知らず笑みがこぼれる。幼いテオバルドが偉そうにものを言う姿も、アシュレイにとってはかわいいものだったのだ。
「そんなこともあったな」
天気の良い休日の日中。王都の広場は、あちらこちらから声が響き、いたくにぎやかだ。
アシュレイは、人が多いところはあまり好きではない。そうであるにもかかわらず、不思議とと不快と感じなかった理由は、やはり、テオバルドなのだろう。
アシュレイにとってのテオバルドは、昔から変わらず幸福の象徴だ。イーサンとエレノアの血を引き、アシュレイが育てた、生涯唯一の弟子。
穏やかな時間の最後、「また誘ってもいいですか」とテオバルドは柔らかにほほえんだ。
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