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32.秘密ごと(前編)

「そういえば、テオバルド。聞いたか、ハロルドの話」  ジェイデンに話しかけられたテオバルドは、机の上を片づけながら「あぁ」と頷いた。その声が、ふたりきりの研究部内に小さく反響する。 「このあいだの中型の魔獣討伐の? けっこうな大怪我だったって聞いたけど」  幸い大事に至らなかったとも聞いたが、テオバルドも任務で外に出ていたので、詳しい状況は把握していなかったのだ。 「そう、そう。倒したと気を抜いた瞬間に、深傷を負わされたらしくてな。不甲斐ないと落ち込んでいたが。あわや利き腕切断の危機だったそうだぞ」 「そんなに酷かったのか? 元気そうだって聞いてたんだけど……」  予想外の返答に、テオバルドの顔が曇る。中型の魔獣討伐で怪我人の出るケースは、決して珍しいことではない。だが、聞きかじった話で軽傷と思い込んでいたのだ。  国民に害を成す可能性のある魔獣の討伐は、自分たちの重要な責務のひとつだ。規模により異なるものの、宮廷騎士団と宮廷魔法使いの混成部隊で討伐に向かう形式を取っており、テオバルドも当番が回ってくるたびに参加を重ねている。  けれど、自分も含め、身近な人間が深手を負ったという話ははじめてだ。 「病院にいるっていう話も聞いてなかったんだけど、もしかして、自宅で療養中だった?」 「まぁ、慌てるな。あいつの悪運が強いのはここからだ。なんと偶然、緑の大魔法使いさまがいらっしゃってな、見事に治してくださったんだ」 「緑の大魔法使いさまが」 「以来、ハロルドのやつ、緑の大魔法使いさまにご執心で、ご自慢の金髪を白銀に染めやがったんだぜ。まったく、極端なやつだ」  人の悪い顔で笑うジェイデンに、経過も順調らしいと悟ったテオバルドは苦笑を返した。 「ハロルドが極端なのは昔からじゃないか」 「あぁ、たしかに。おまえもよく絡まれていたものな。森の大魔法使いさまの弟子だからって」 「昔の話だよ」  軽く笑って、肩をすくめる。学院に在籍していた当時、いがみ合っていたことは事実だが、今は同僚としてうまく付き合っているつもりだ。配属部署の関係で会う機会こそ少ないものの、同期生同士、呑むこともある。お互い順当に大人になった結果なのだろう。 「もう帰れそうか」  「うん、付き合ってくれてありがとう。ジェイデンがいなかったら徹夜だったよ」 「お互いさまだ。先月は俺が付き合ってもらったしな。しかし、特研のやつらは本当にうちの都合はおかまいなしだな。終わり際に駆け込んできたくせに、なにが明朝までに至急だよ。こっちが回した案件は、突っつかない限り放置してるだろうが」  私情も交じっていること請け合いなしの毒づきに、テオバルドは乾いた笑みを浮かべた。 「まぁ、しかたないよ。うちが助けてもらうこともあるし」  研究部の戸締まりを確認しつつ、やんわりと宥めにかかる。  遠征隊が帰還し、早四ヶ月。冬の足音が聞こえるようになった今も、アイラたち薬草学研究所の多忙ぶりは健在だ。ジェイデンも、いろいろと溜まっているのだろう。 「そういえば、だけど。あいかわらず緑の大魔法使いさまは、よく顔を出していらっしゃるんだね。ハロルドにとっては本当に幸いだったと思うけど」  彼が治療魔法にすこぶる長けているという話は有名だ。テオバルドの情報源の大半はアイラだが、きっと鼻高々に違いない。 「あぁ、本当に。幸運だった」  大きく頷いたジェイデンだったが、思い出したように少し笑った。 「だが、お偉方は、森の大魔法使いさまが頻繁に顔を出されている現状に驚愕しているらしいぞ。もしやなにか企みごとが、とまで話を飛躍させていたのには笑ったが」 「企みごとって……」 「笑いごとだ。緑の大魔法使いさまが、あの人形のようなお顔で叱責されていらっしゃったからな。運悪く居合わせた後輩が、自分まで凍るかと震えていたくらいだ」 「それならいいけど」  なんとも言えない心境で、テオバルドは苦笑をこぼした。王都にいる者からすると、自分の師匠はグリットンの森に引き籠もっているイメージが随分と強いらしい。  アシュレイが宮廷と一定の距離を置いていることは事実だが、引き籠もっていた理由のひとつは幼かった自分の存在だろうと、大人になったテオバルドは推察している。  当時は知る由もなかったことだが、火急のもの以外はおそらく固辞をされていたのだろう。自分が成長するにつれ、彼が家を空ける回数が増えたことが良い証拠だ。  ――俺個人としては、王都に出てきてくれると誘いやすいから、ありがたいけど。  また誘ってもよいかという問いに、柔らかい笑みで応えてもらってからというもの、テオバルドはたびたびアシュレイに声をかけていた。  宮廷で遭遇したときに声をかけることもあれば、呑んだ夜に、次に会う約束を取り決めてしまうこともある。誘いはすべて自分からだが、断られたことはない。だから、それで満足しないといけない。  アパートメントまでの冷えた道をジェイデンと歩きながら、テオバルドは改めて自身に言い聞かせた。 「だが、テオバルドにとっては、森の大魔法使いさまが王都によく顔を出されることは幸運だろう。またいそいそと誘って出かけているのか?」 「いそいそとって、弟子として師匠と交流しているだけだよ」  心でも読めるのかと問い詰めたくなる話題の転換に、うんざりと首を横に振る。たしかにたびたびと誘っているものの、「いそいそと」と評されるほどの頻度ではないつもりだ。 「意地が取れたようでなによりと安心しているんだ。そう照れなくてもいいだろう。まぁ、あの部屋にお泊めするときは、ドアに目印でもつけておいたほうがいいと思うが」 「……ジェイデン」 「休みの日の朝っぱらに、エルフィーに何度も飛び込んでこられたくないからな」  三ヶ月ほど前の大騒動を引っ張り出され、表情が渋くなる。俺も嫌だよ、と本音を明かす代わりに、あの一回きりだよ、とテオバルドは言った。 「そうなのか? まさかそのたびに宿でも?」 「緑の大魔法使いさまのところに帰られることが多いかな。少し距離はあるんだけど、都合が良いんだって」  そう言われてしまえば、自分が引き留める理由はなくなってしまう。なんでもないふうに笑い、アパートメントの扉に手をかける。中に入ると、寒さが少しやわらいだ。  もう、夜は、すっかり冬の気配に満ちている。このアパートメントで過ごす、四度目の冬だ。  三階の自分の部屋の前で、じゃあ、とテオバルドは手を上げた。 「今日は本当にありがとう。アイラにもあまり根を詰め過ぎないよう伝えてあげて」 「俺が言っても聞くかどうか。あいつの恋人は薬草学だな」  半ば冗談でもない調子で応じたジェイデンが、軽く手を振り返す。ジェイデンの部屋はこの上の四階だ。 「また明日」 「うん、また明日」  階段を上る背中を見送って、自室の鍵をひねる。森の奥の一軒家で過ごした冬を思えばかわいいものだが、寒いものは寒い。  ふぅ、と息を吐いて、ローブを外す。  ――薬草学が恋人、か。  ジェイデンの台詞は、自分に時間を割く気配のない恋人への愚痴半分だったのだろうが、テオバルドには真実そのものに感じられた。  たゆまぬ努力があってこそと承知しているものの、アイラには薬草学の才がある。その彼女に気になる話を聞かされたのは、数日前のことだ。  研究棟の前でばったりと顔を合わせたときに、何日も籠もっているから、ちょっと気晴らしに付き合ってよ、とアイラが引き留めたのだ。  だが、もしかすると、自分が通るタイミングを待っていたのかもしれない。 「狙って成功したわけではないから、少し不本意ではあるのだけど。でも、研究とはそういうものだものね」  取り組んでいる研究についての与太話をそんなふうに締めくくったアイラは、できたの、とぽつりと呟いた。  言葉のわりに冴えない表情に首を傾げれば、彼女らしくない淡々とした説明が続く。 「緑の大魔法使いさまが持ち帰ってくださった新種の薬草を使った実験が停滞していると言っていたでしょう」 「あぁ、言ってたね。だいぶ苦戦していたみたいだったけど」 「そう。ずっと試行錯誤だったのだけれど、その過程でできたのよ。魔獣の魔力を限りなくゼロに抑える薬が」 「え……」 「とは言っても、まだ鼠の魔獣で成功しただけの話だから、中型、大型と試していかないとなんとも言えないのだけど」  すぐに信じることはできない話だった。  絶句したテオバルドから晩秋の空に視線を移し、アイラが赤銅色の長い髪を掻きやる。 「もし完成したら、すごいことよ。魔獣討伐の特効薬にもなるけれど、使い方を誤れば、私たち魔法使いにとって大きな脅威となる」 「……俺が聞いていい話だった?」 「あなただから話したのよ。テオバルド・ノア。この研究の第一人者のエレノア・ノアの息子で、緑の大魔法使いさまと森の大魔法使いさまに縁のあるあなただから」  確認したテオバルドに、アイラは真面目な瞳を向け直した。きっぱりと断言した上で、念を押すように告げる。 「よければ、心に留めておいてくれないかしら」  ――よければ、心に留めておいてくれないかしら、か。  椅子に腰を下ろし、テオバルドは暗い窓の外を眺めた。  魔獣の存在は、力を持たない人にとって大きな脅威だ。だが、魔獣も魔力を持って生まれただけの動物にすぎないのだ。本質的には、テオバルドたちとなにも変わりはない。  殺すことなく無害化できるというのであれば、素晴らしい薬草学の進歩だろう。ただ、アイラの懸念ももっともだった。もし、魔獣と同じように、魔法使いの魔力を消失させることができるとすれば、途方もなく恐ろしい効能と言わざるを得ない。  テオバルドの父は、かつて魔力があったのだという。アイラが言っていたように、体調やストレス、あるいは女性特有の周期によって魔力の幅が増減することはある。だが、あるものがゼロになることはない。  魔力とは、そういうものであるはずなのだ。テオバルドの父が、そうであるはずの輪から外れたというだけで。  ――でも、輪を外れたのは、師匠も同じか。  深淵に触れ成長の時が止まったと仮定して。あの人から、あの絶対な魔の力が消えたなら、止まっていた時が進み出す可能性はあるのだろうか。  そこまで考えたところで、いや、とテオバルドは思い直した。そんな都合の良い話があるわけがない。  それに、アシュレイは自分の魔力を誇っている。彼が生まれ持ち、研鑽したものであるのだから、あたりまえのことだ。その魔力を失いたいとは思わないだろう。  そもそも、実験段階の薬の話である。人に使おうと考えること自体が、とんでもない話だ。  ひとつ息を吐いて、暗い窓の外の、さらに奥に思考を馳せる。グリットンの森の深い夜。彼とふたりで過ごした、本当に幼かったころのこと。  当時のテオバルドは、師匠が不老であったとしても問題はないと考えていた。そんな単純な話ではないと気がついたのは、自分が年を重ねてからのことだ。  自分以外の人間が、着実に年を重ねていく。自分より幼かった弟子が、自分を追い抜いていく。アシュレイが実際にどう感じているのかはわからない。  ただ、これほどの孤独はないのではないか、と。テオバルドはいつしか思うようになった。  幼いころに聞いた「おまえは俺のようになるな」という師匠の言葉の重みは、テオバルドの中で着実に増し始めている。

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