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33.秘密ごと(後編)

「あぁ、あの新種の薬草か。ルカに食わされて、危うく死にかけた。なかなかあれはとんでもないぞ」 「え」  あまりにもあっけらかんとアシュレイが笑うので、二の句を告げなくなってしまった。  悩んだ末に、試薬完成の事実のみを伏せた状態で実験の話題を持ち出したのは自分だが、予想の斜め上を行く答えが返ってきたからだ。  ――というか、そんなこと、夏にはなにも言ってなかったよな……?  大師匠が嬉々として採取していたとか、薬草学研究所は忙しいだろうとか、もっとそもそもで言えば、出会い頭にすごい匂いだなと嗅がれたこともあるものの、それだけである。  あいかわらず、肝心なことほど、この人はなにも言わない。テオバルドの屈託を知ってか知らずか、なんでもない調子でアシュレイは話を続けた。 「いかにも善良といった顔をしているが、気をつけたほうがいい。あの人は、自分の身内と決めた者への扱いはぞんざいなんだ。……まぁ、それに応じた還元がないわけではないが」 「……」 「あの人の中では、俺の弟子――つまり孫弟子であるおまえも身内だ。おまえに会うことも随分と楽しみにしていたからな。いや、これは、俺が話しすぎたせいでもあるか」  すっかりと馴染みになった飲み屋で、アシュレイが懐かしそうに目を細める。フードから覗く緑の瞳を見つめて、テオバルドはようやく口を開いた。 「そんな話を?」 「ん?」 「あの果ての地で、私の話をそんなにたくさんしていたのですか」  問いかけに、アシュレイはかすかにバツの悪い表情を見せた。 「娯楽もなにもないところだったからな」  それに、と呟くように言って、口元に酒を運ぶ。 「人に聞かせることのできる話は、おまえのことくらいしか、俺にはない」   自分で聞いたくせに、どう反応すればいいのかわからなくなってしまった。アシュレイの声が優しくて、けれど、親代わりの師匠のものでしかなかったせいかもしれない。  離れていたあいだ、幼かった自分は、何度となくジェイデンにこの人の話をした。根気良く耳を傾けてくれたジェイデンは、卒業する直前、この人について語るときの自分は、尊敬ではなく恋をしているみたいだと言った。  否定できるものはなにもなく、遅すぎる初恋をテオバルドは自覚した。  けれど、この人の声にも、表情にも、そういった気配は欠片もない。最初から最後まで、正しい親代わりの師匠のものだ。  黙ったテオバルドの反応をどう取ったのか、アシュレイがひっそりとした笑みをこぼす。 「こんなことを言っていると、またエレノアに親気取りかと呆れられるな」 「師匠は、師匠です」  テオバルドは、反射でそう返した。  あの森にいたころ。テオバルドは、世界にいるのは自分とこの人だけでもかまわないと半ば本気で思っていた。アシュレイの望んだとおり、自分の世界は広がった。大事な友人もいる。けれど、たったひとり師匠がいればいい、と。まだどこかで思ってしまうことがある。自分はどこかおかしいのだろうか。  だから、勝手に死なないでください、と乞う代わりに、繰り返す。  誰よりも強いこの人が死ぬわけがないとわかっていても、軽口であったとしても、「危うく死にかけた」という言葉を聞いたとき、テオバルドの胸は冷えたのだ。 「俺のたったひとりの、師匠です」 「そうだったな、テオバルド」  テオバルドの思考をどこまで承知しているのか、師であるアシュレイの声は静かだった。 「そうだった」  わけもなく鼻の奥が痛んで、そっと目を伏せる。好きだ、と。またしても唐突に思い知った気分だった。  この人が、好きだ。もうずっと、あの森でふたりきりだったころから。ひとりになっても、大人になっても、今も、ずっと。  たとえおかしかったとしても、テオバルドは好きだった。  抑えようと思っているのに、弟子でいようと努めているのに、ふとした瞬間に顔を出す。こんな巨大な感情には、たしかに制約が必要なのかもしれない。 「どうかしたか」 「……いえ」  なんでもありません、とうつむいたままテオバルドは応じた。酒の入ったグラスに映る自分の顔はどうにも思い詰めているふうで、とてもではないが上げることができなかったのだ。  王都では好き放題に変人だのなんだのと評されているけれど、アシュレイは聡い人だ。テオバルドのことを、いつも見てくれている。  ――でも、それは、保護者としての愛でしかないんだよな。  自分に対する、それ以外の愛はない。この人が好きなのは、父だ。そのことを、テオバルドは知っていた。だから、言わない。恋心を自覚した直後にアシュレイの思いに気づき、ひとりで大人になるあいだに、自分自身に誓ったのだ。  この感情の蓋は閉じていよう、と。自分のために。そして、ほかでもないアシュレイのために。  あの森にふたりで暮らし、この人とであれば世界にふたりでもかまわないと願うことのできる子どもでなくなったからこそ、決めたのだ。  ――だから、これでいいんだ。  魔法使いとして邁進することのできる仕事を得、国に忠誠を誓う代わりに、安定した衣食住を得ている。友人もいる。この人と穏やかな時間を過ごすこともできている。  そのいずれもが、テオバルドにとって大切なものだった。もちろん、父と母もそうだ。  世界から誰かひとりを選べと問われたら、自分は間違いなくアシュレイを取るけれど、そんな選択を強いられない世界であるよう努めたいと願う。  それが、この人のためだと思うから。  魔獣の魔力を限りなくゼロにするという薬について尋ねることを、テオバルドは選ばなかった。  だから、アシュレイがその件を知っていたのか、テオバルドは知らない。  じっと考え込んでいるあいだ、アシュレイの緑の瞳が静かに自分を見つめていたことも、なにも知らない。

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