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34.青星(前編)
深緑のフードの下から見上げた王都の空は、今にも雪が降り出しそうな色をしていた。
今年は冬が早いらしい。雪だらけの辺境の地からようやく戻ったはずが、あっというまに冬に逆戻りだ。
アシュレイはそっと白い息を吐いた。心地の良い時間は、いつも一瞬で過ぎ去ってしまう。
――森の家の冬支度もしておかないと、テオバルドに要らぬ世話を焼かせそうだな。
自分に代わり、月に一度は不在の家に手を入れていたという愛弟子は、今も変わらぬ頻度でグリットンの森に顔を出す。
両親に顔を見せに帰ったついでと涼しい顔で言うのだが、そうであるのであれば、森にまで来なくともいいだろうに。そういうところが、驚くほどテオバルドは変わらない。
過分に世話を焼きたがり、師匠が一番と言って憚らなかった幼い弟子。おそらく、アシュレイは狭い世界に籠めすぎてしまったのだ。
――だから、自分の道を行け、と念を押しただけのつもりだったのだが。
テオバルドの魔法学院卒業にあわせて送った手紙のことである。
実のところ、テオバルドが宮廷の誘いを蹴りやしないかとアシュレイは長らく冷や冷やとしていたのだ。ほかにしたいことがあるのであればともかく、断る理由が「グリットンの森に帰りたい、師匠に会いたい」ではあんまりだろう。
そう案じたからこそ、手紙で拙い心境を吐露されるたびに、卒業すれば帰ることはいつでもできる、この国で一番進んだ研究をできる場所は宮廷だとやんわり伝え続けたのだ。
甲斐あって、テオバルドが宮廷魔法使いの道を選んだときは、師匠としての役目に区切りがついたとアシュレイは心底ほっとした。エンバレーへの遠征に参加するタイミングだったこともあり、良い機会と自立を促したのだが、言葉が足りていなかったのだろうか。
――随分と拗ねてたみたいだぞ、テオのやつ。
そうひっそりとイーサンに明かされたのは、数日前のことだ。
――はっきり言うと、あいつも気恥ずかしいだろうと思って、おまえに聞かれたときは濁したがな。置いて行かれたことが随分とショックだったみたいだぜ。
置いて行ったつもりなど、自分には毛頭ないのだが。心外な顔をしたアシュレイに、イーサンは苦笑いで首を振った。
――おまえに置いて行ったつもりがないことはわかるし、あいつも頭では理解していると思うけどな。七つのころから、おまえにベタベタに甘やかされてきたんだ。感情が追いつかなかったんじゃないか?
だから、なかなか素直になれなかったんだろう。最近のおまえの話から察するに、ようやくそれも吹っ切れたんだろうが。あっさりと話をまとめたイーサンは、困惑するアシュレイの肩をぽんと叩いた。そうして、とどめのように笑う。
――大人になった弟子と呑むのも、師匠冥利に尽きるってやつじゃないのか、か。
本来であれば、そうであるのだろうな。回想を打ち切り、アシュレイは王都で借りている家へと足を速めた。こちらでの仕事が増えたので、部屋を借りることにしたのだ。
自分の家の余っている部屋を使えばいいだろうに、とルカは残念がっていたが、実験台にされかねない。当然とアシュレイは断った。
あの師匠は、自分が大魔法使いの土俵に上がった途端、本当に好き勝手をするようになったのだ。育ててもらった恩はあるものの、限度と言うものがある。
悶々を呑み込み、もう一度ちらりと空を見上げる。昼を過ぎたばかりの時間だというのに、街全体がいやに薄暗かった。降り始める前に家に籠もろうと決め、メインストリートを外れる。路地を通り抜けると近道になるのだ。
そのまま細い路地を進んだアシュレイだったが、懐かしい力の気配にふと足を止めた。
建物を見上げている、ピンと背筋の伸びた後ろ姿。遠目に眺めているうちに、彼女がゆっくりこちらを振り返った。印象の変わらない上品な顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「あら、アシュレイ。ひさしぶりね」
「ザラ」
小柄な彼女のそばまで近づき、アシュレイはかすかに首を傾げた。
魔法学院の書庫に引き籠もる彼女が王都の街中にいることも珍しいが、落ち着いた色味を好む彼女が臙脂のストールをまとっていることも珍しい。
「どうしたんだ、こんなところで。珍しいな」
「あなたともひさしぶりだけれど、ルカもひさしぶりに戻ったと聞いたから、会えないかと出てきてみたの」
これはね、あの人が北に発つ前に贈ってくれたものなの、と。手袋をはめた指先で、ザラが優しくストールを撫でるので、なるほど、とアシュレイは頷いた。
ザラ・ベイリーは学院生時代のアシュレイの恩師だが、同時に師匠であるルカの昔馴染みでもあるのだ。師匠のことを「ルカ」と呼ぶ人間は、自分のほかは彼女くらいのものである。
「出てきた理由はわかったが、戻ってきたのは夏だ」
「もちろん知っているけれど、だからこそ、そろそろ落ち着いたのではないかと思って。あの人に会いたい人は多いでしょう」
いつもの調子で続けたザラだったが、そこで少し困ったふうにほほえんだ。
「でも、あの人の家の場所がわからなくなってしまったの。嫌ねぇ、私も年かしら」
「学院の書庫にばかり閉じ籠もっているからだろう。このあたりは似た建物も多い。送っていこう」
「あら、いいの?」
「ちょうど帰るところだったんだ。それに、あんたを放っておいたら、俺がルカに叱られる」
軽口に、ザラがほっと表情をゆるめた。それならお願いしようかしら、と申し出を受けた彼女に、自然なしぐさで手を差し出す。
師匠の昔馴染みで、恩師。そうして、ほんの少しだけ母親のようでもあった存在。それが、アシュレイにとってのザラ・ベイリーだった。
寒くなってきたわねぇ、という他愛ない会話と同じ調子で、ザラが口を開いた。あいかわらずの、穏やかで上品な口調。
「イーサンも変わりはないかしら。エレノアも」
「あぁ。ふたりとも元気にしている。イーサンは腰が痛いとうるさいが」
「あら。だったら、エレノアに薬を煎じてもらわないと。あの子の煎じ薬はとてもよく効くもの。私もちょくちょくお世話になっているくらいよ」
ふふっとどこか少女のように、ザラが目を細める。
「そう、そう。テオバルド。あなたの弟子はとってもいい子ね」
目元を笑ませたアシュレイに、ザラはいっそううれしそうな顔になった。
「あの子たちの代で書庫にいる時間が一番長かったのは、間違いなくテオバルドよ。本当に勤勉で、そして優秀」
「そうだろうな」
「あなたたちの秘密のことも、結局知ろうとしなかったわ。必要と判断すれば、あなたたちが教えてくれるだろうからって」
ちら、とザラの横顔に目を向ける。その視線をものともせず、ザラは繰り返した。
「とてもいい子」
「……そうだな」
先ほどとまったく変わらない口ぶりに、同じものをアシュレイも返した。テオバルドが「とてもいい子」であることに疑いが入り込む余地はない。あなたもね、と云十年前と変わらぬ台詞で褒められると、さすがに苦笑いになってしまったが。
いつまでも子ども扱いをするなと渋い顔をするときのテオバルドは、もしかすると、これと似た心地でいるのかもしれない。
「あぁ、ザラ。ひさしぶりだね、あいかわらず、きみはかわいらしい」
「嫌ねぇ、こんなおばあさんを捕まえて」
「そんなことはない。そのストールもよく似合っているよ。見せてくれてありがとう」
気恥ずかしそうにほほえむザラの頬にキスを降らせると、寒いから先に中に入っておいで、とルカは彼女を室内へ通した。彼女の気配が遠のいたところで、こちらに笑みが向く。
「アシュリー。ザラを送ってくれてありがとう。今日はきみも王都にいるのか」
「そのつもりだが」
「夜は、またお弟子と会うのかな。もし違うのなら、少し時間をくれないか」
似合わない控えめな物言いに、内心で首をひねる。
師匠がわざわざ時間をくれと尋ねること自体が珍事だ。ひとたび興味を持てば、相手の都合などおかまいなしに突進することが常だというのに。不審を覚えながらも、アシュレイは頷いた。
「かまわないが」
「よかった。では、また夜に足を運んでもらっても?」
かまわない、ともう一度首肯すると、ルカは人あたりの良い笑みを浮かべた。
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
その言葉を最後に、ぱたんと扉が閉まる。
せっかくザラが訪ねてきているというのに、今夜、か。師匠の頭が突飛であることは昔からだが、良い用件である予感はまったくと言っていいほどしなかった。
あまり面倒なことにならないといいが。溜息を呑み込み、アシュレイは扉に背を向けた。
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