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35.青星(後編)

「魔力を限りなくゼロにする」  やはり、ろくでもない話だった。そう呆れつつ、聞かされたばかりの単語を繰り返す。不可能と言い切ることのできるものはこの世にないと信じているが、それにしても突飛な話だ。  夜は深く、中心部の外れにあるルカの家は、しんと静まり返っていた。 「それは、また、夢のある話だな」  小さく息を吐いて、酒のグラスに手を伸ばす。呑まずにおれない気分だったのだ。酒を出したのは師匠なので、文句はないだろう。  客間で休んでいるザラのことを気にしてか、ルカの声はひっそりとしていた。 「それこそ、きみらしくない言いようだな。夢のある話だろう、興味はないのか」 「あいにく、あまり」 「エレノアがずっと続けていた研究だぞ。その研究が大きく動いた結果だ。素直に喜べばいいだろうに」  エレノアが欲していた成果とは真逆のものだろう、とは言わず、酒を舐める。良い酒であるはずなのに、いまひとつ味がわからなかった。 「まぁ、この結果を導いた者はエレノアではないが。彼女が始めた研究がきっかけであることに変わりはない」 「……」 「アイラ・クラーク。彼女はすこぶる優秀だ。きみの弟子の同期らしいぞ」 「あぁ」  そういえば、テオバルドからそんな話を聞いた覚えがある。女かと尋ねたときの焦った顔。そうか。アイラ・クラークという名前だったのか。 「知っている。ということは、あなたが持ち帰った薬草が正しく役に立ったのだな」  だから、神妙な顔で、新種の薬草の話を持ち出したのか。合点がいって、アシュレイは机上に視線を落とした。  テオバルドは、薬草学研究所に所属しているわけではない。そうであるにもかかわらず、機密に近い情報を聞きかじったのだとすれば。それだけ近しい間柄ということだろう。 「そういうことだ」  鷹揚に頷いたルカが、自分のグラスを持ち上げた。ランプの光にかざしながら、そっと目を細める。 「エレノアは枯渇したイーサンの魔力が戻ればと尽力していたようだが、結果として正反対のものができたわけだ」  まさしく自分が考えていたことだった。なにも言わないアシュレイに、ルカが苦笑のような笑みをこぼす。 「きみたちは、本当に皮肉な巡り合わせの星のもとに生まれたようだね」  皮肉な巡り合わせの星という揶揄にも、返せる言葉はなかった。何十年も変わらない、子どものような骨格の指を見つめ、失笑する。  あるものがなくなることはあっても、一度なくなったものがあることにはならない。それがこの世の真理だ。けれど、エレノアは諦めなかったのだ。 「アシュレイ」  静かな師の声に、諦めて視線を上げる。物心ついたころからすぐそばにあった、なにひとつ変わらない顔。その顔が言い諭すように柔らかな表情をかたどっていく。 「きみは今のままで本当にいいのか?」 「これは……」  イーサンを救った対価だという台詞を、アシュレイは呑み込んだ。その言い訳を持ち出すことは、正しくない気がしたのだ。 「少し考えてみるといい。親しい者を見送り続けることは、つらいだろう」  あなたがそれを言うのは重すぎるだろう、と言うこともできなかった。自分と同じ緑色の瞳が、ちらりと客間のある方角に動く。  なんとも言えない感情が湧いて、アシュレイは金色の髪をぐしゃりと掻きやった。  誰になにを言われようと、自分のしたいことを完遂するはずの師匠は、唯一彼女を娶ることだけは選ばなかった。今も、彼女は独り身を貫いているというのに。 「ともに年を重ねたいと思う相手もいるのではないか? 取り戻すことはできなくても、進むことはできるかもしれない」  黙ったままのアシュレイに、ルカは淡々と言葉を継いだ。 「アシュリー、きみが心から望めばね」  イーサン・ノアは、あのころのアシュレイのすべてだった。だから、そんな彼を救うことができるのであれば、自分のなにを差し出してもいいと思ったのだ。  鼓動を取り戻したイーサンの身体にかぶさって、エレノアがよかったと泣いている。よかった。よかった。イーサンの命が戻った。生き返った。  茫然自失に肩で息をしながら、アシュレイは心の底から安堵していた。よかった。成功したのだ。イーサンの命を取り戻すことに。これで、これからもイーサンは自分のそばにいる。彼がいない世界を生きていかずにすむ。よかった。  今になって思えば、ひどく独りよがりな安堵だった。イーサンのためでも、エレノアのためでも、なんでもない。アシュレイは、ただ自分がイーサンを失いたくなかったのだ。  自分の名を呼ぶ鋭い声が響いたのは、地面に倒れ込みそうになった瞬間だった。走り寄ってきた師匠は、アシュレイとエレノア、イーサンに順に目をやると、すべてを悟った顔をした。  なぜ、そんなことをしたのだ、と。赤子のころに拾われて以来はじめて、アシュレイはルカに本気で怒鳴られた。  大魔法使いの怒気で、ビリビリと空間が揺れる。なにを言うこともできなかった。エレノアはほとんど倒れそうになっていて、一瞥したルカがゆるりと首を振る。  永遠のような沈黙のあとで、彼は尋ねた。怒りすらない、馬鹿な弟子をただ憐れむ調子で。  ――アシュレイ。おまえは自分がなにをしたのか本当に理解しているのか。  理解している。理解しているから、自分のすべてだった男を、自分のすべてをかけて救ったのだ。間髪入れず頷いたアシュレイに、ルカはひどく悲しい顔をした。  ――これでおまえは「人」でなくなったのだぞ。  平等に時間を甘受し、老いてゆくことが人であるのだとするならば、自分は十八の冬で人であることをやめたのであろう。アシュレイは「大魔法使い」となった。師匠と同じ、この大陸に五人しかいないであろう大魔法使いに。  緑の大魔法使いと副学長でもあったザラ・ベイリーの取り成しで、アシュレイの行いは不問となった。  イーサンは不慮の事故で死にかけたために魔力が枯渇したとされ、目を覚ました本人もその説明を信じた。魔力は潰えたが特別に在学を許可をするとした決定を素直に喜び、卒業までの残り数ヶ月の日々をアシュレイの隣で変わらず過ごした。  エレノアは禁術の使用を止めなかったことを不問とする代わりに、被験者となったイーサンの監督義務を負った。今に至るまで四半世紀近く、欠かさず彼女の月報告は上がり続けている。  大魔法使いの資格を得たアシュレイは、この国のために適切に力を行使することを誓った。  大魔法使いの弟子であったから得た温情と理解していたからだ。恩に報うためにも、せめてこれからは正しく生きようと決めた。大魔法使いとして、正しく、この国のために。  もう、二十年以上前の、昔の話だ。  その年月、自分はなにも悔いていないと心の底から思っていたというのに。  ――師匠。  柔らかな、大人になる途中の子どもの声。その声を、その笑顔を、同じ時間を重ねる中で、世界で一番愛おしいと感じるようになってしまった。  テオバルドを学院に預け、エンバレーに赴いたことは正しい選択だったと自負している。だが、その一方で、自分を追い越し成長するテオバルドから目を背けたかっただけであったのかもしれない。  大魔法使いの名を冠すまでになったというのに、こんなにも自分は弱かったのだろうか。 「師匠?」  ふいに聞こえた声に、アシュレイは足を止めた。どこまでも深く、耳に馴染む声。昔はもっと高かったが、今の落ち着いた声も延長線上にあるものだ。  なにかに没頭すると、自分はすぐに周囲を忘れてしまう。師匠であったルカいわくの天性の才能で、イーサンいわくの心配になる悪癖だ。  けれど、この弟子の声だけは、どんなときでもアシュレイの中に届いて、思索の海から簡単に引き上げるのだ。ちょうど、こんなふうに。 「こんなところでなにを」  黙ったまま見上げた先で、困惑したふうに星の瞳が瞬く。 「ずぶ濡れですよ」  呆れたようにも響く台詞で、アシュレイは雨が降っていたことに気がついた。差し向けられた傘の上で、雨粒が跳ねる音がした。

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