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36.終わらない夜を数える(前編)

「最近、北のほうでは随分と魔獣が増えているらしい。本格的な冬に入る前に、大規模な討伐隊が組まれるかもしれないな」  騎士団から声がかかることが増えたという雑談の中で飛び出したそれに、テオバルドは図面から顔を上げ、発言者の先輩を見やった。視線を受けて、彼が帰り支度の手を止める。 「そうか。次はおまえに声がかかる順番だったか」 「その予定です」  自分では力不足との判断が下れば、先輩方に指名がいく可能性はあるものの、持ち回りの順番として近いのは自分だった。 「大がかりなものになると、下手をすると一月は戻ることができない。気に留めておいてもいいかもしれないな」 「そうします」  素直に頭を下げたテオバルドは、正式に決定した場合、父には知らせておくべきだろうかと考えていた。余計な心配をかけたいわけではないが、万が一を想定すると、一報は入れておくべきだろう。  ――まぁ、父さん、そういうこと、俺にまったく言わないけど。  成人した息子は一人前と区切りをつけているのか、あるいは、同業者でもない自分に言えることはないと考えているのか。理由を聞いたことはないが、父はテオバルドの仕事に口を出さないと決めているらしかった。  まぁ、そのわりには、師匠には口を出してたみたいだけど。あの店のテーブルで。ふたりになると、そんな話をしていることがあった。連想した古い記憶に、そっと蓋をする。父と師匠のことには深入りをしないと、これでも一応決めているのだ。 「でも、一ヶ月は長いですよねぇ」 「なにを言う。エンバレーの遠征は年単位だったんだぞ」  腰の引けたミリーの発言に被さった発破に、テオバルドも小さく笑った。四年も帰らなかった人に比べたら、一ヶ月などあっというまに違いない。 「だが、魔獣の討伐は、宮廷魔法使いの重大な任務だ。ある程度の危険と不自由はしかたがない」 「そうですよね。でも、私、恥ずかしながら、大型の魔獣をこの目で見たことがなくて。いつかは自分にも回ってくるのでしょうが、緊張してしまいそうです」 「それは経験を積むしかないな。誰でもはじめは大型に怖気づく。むしろ、恐怖心を抱かない無謀な新人のほうが恐ろしい。――テオバルド、おまえもあまり遅くなることのないようにな」 「そうします」  先輩の声かけにもう一度頷き、テオバルドはふたりを見送った。 「それでは、私もお先に失礼しますね」 「おつかれさま、テオバルド。また明日ね」  小一時間後、仕事を切り上げたテオバルドは、もう少し残るという先輩に断り、研究所をあとにした。夜の風は冷たく、すぐに鼻先が凍えそうになる。  もうすっかり世界は冬の装いだった。アパートメントに向かってひとり歩きながら、数日前のことを思い返す。  ――あの夜の師匠は、なんだか雰囲気が妙だったな。  うまく言えないが、緑の瞳が心あらずに見え、どうにも引っかかったのだ。弟子である自分には言わないだろうと思うと、聞けずじまいになってしまったけれど。  ――父さんにだったら、言ったのかな。  対等な力がなくとも、友人だから。あるいは、師匠が心を寄せている相手だから。悶々とした息を吐いて、暗い夜を進む。考えてもせんのないことだ。  幼いころから嫌というほど承知していて、深入りしないと決めているのに、簡単に箍が外れてしまう。自分の前にはいつも父がいると拗ねた幼いテオバルドに、あたりまえのことだとあの人は笑った。  あのころから、彼はきっとなにも変わっていないのだろう。 「おまえは、相手が行きずりの女でも、こうして家に招き入れるのか?」 「え?」  本意を捉え損ねたテオバルドは、思わず怪訝な声を出した。昔から突飛な発言は間々あったものの、輪をかけて突飛である。  もっとも、雨の真夜中を傘も差さず悠然と歩いている時点で異様ではあったのだが。  集中すると周囲を気にかけない特性は重々と承知しているが、放っておけば、またとんでもない大魔法使いの噂が生み出されていたに違いない。もちろん、それだけが声をかけた理由ではないけれど。  ――でも、どうしたんだろうな。  記憶にある限り、ここまでの奇行に遭遇したことは一度もない。  突飛のない発言をすると評したが、あくまでテオバルドにとって突飛がないだけで、彼の中ではすべて正しく筋道がついているのだ。そういう意味で、アシュレイは理知的な大人だった。  それなのに、という疑念を押し込んで、苦笑をこぼす。 「しませんよ。身なりの良いご婦人が夜の街を彷徨われていたら保護はしますが。家の中には招きません。不用心がすぎる」 「なら……」 「あなただからです。と言っても、あなたに害を成せる者がいるとも思いませんが」 「おまえは本当に弟子の鏡だな」  呆れ半分というふうに、アシュレイが白い喉を鳴らす。自分の返答が正解だったのか、テオバルドにはわからなかった。  曖昧に笑い、暖炉の前に動かした椅子の背に、雨で濡れたローブを広げる。乾くまでには、多分な時間を要すだろう。 「それで、師匠はなにをしていたのですか」  平易を装って、テオバルドは尋ねた。ローブを脱ぎ、窓辺近くの椅子に腰かけるアシュレイの横顔は、はじめて会った日とまったく変わらないように見える。  こちらを振り向きもせず、アシュレイは小さく呟いた。 「ルカのところで呑んでいたんだが、少し気になる話を聞いてな。そのことを考えながら歩いていただけだったんだが、集中しすぎたらしい。雨が降り出したことに気づかなかった」 「危ないですよ」  らしいと言ってしまえば、それまでの理由だった。どうにか苦笑を返し、小さな丸テーブルを挟んだ向かいの椅子を引く。  そこでようやくアシュレイが視線を巡らせた。口元にかすかな笑みが浮かぶ。 「大魔法使い()だぞ」 「それでもです。せめて、あの家の中だけにしてください。父にもよく言われたんでしょう。聞きましたよ、あなたのそれは学院生だったころからだと」 「懐かしい話を」  改める意思のない調子で、アシュレイが緑の瞳を細める。  またすぐに瞳は窓を向き、テオバルドも外に目をやった。雨脚はさらにきつくなっていた。雷が落ちたのか、夜の空に光の筋が走る。  ――泊まってもらったほうがいいんだろうな。  ローブが乾く気配はなく、この雨だ。それになにより、テオバルドがこの状態のアシュレイを帰したくなかった。たとえ、眠れない夜になろうとも。この人が、自分よりよほど強い大魔法使いであろうと、関係なく。  大昔、夜に響く雷鳴と窓を揺らす風の音を怖がったことがある。  両親以外の大人との生活に心細さはあったものの、立派な魔法使いになりたくて、幼いテオバルドはいつも懸命に気を張っていた。そんな日々が一月ほど続いた大雨の夜、ふっとなにかの糸が切れたのだ。  はじめて個人的な理由で師匠の私室の扉を叩いたのは、そんな夜だった。  追い出されやしないか、怒られやしないか。幼い自分は内心ひどく不安で、だから、この人が迎え入れてくれたことが本当にうれしかった。  この人が与えてくれる不器用な愛の片鱗にはっきりとはじめて触れたのも、その夜だったのだと思う。

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