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37.終わらない夜を数える(後編)
「ずっと昔、魔獣に怯える私を寝かしつけてくれたことがありましたね」
「今も怖いか?」
ぽつりと呟いたテオバルドに、同じ静かな調子でアシュレイが問い返した。ごく当然と覚えていてくれたらしい。
「まさか。そんなことは言ってられませんよ。ご承知のとおり、魔獣の討伐は魔法を使う者の責務です」
怖いと言えば、額にキスでも落としてくれるのだろうか。せんない想像をしながら、テオバルドは笑った。
「あなたがいたから、あの場所は平穏だったのでしょうね」
大魔法使いである自分の縄張りに踏み込む魔獣はいない。だから、心配する必要はない。あのころのこの人が与えてくれた言葉のひとつだ。けれど、それだけではない。
彼さえそばにいてくれたら、自分は安心することができたのだ。そんなふうに信じることのできる人がいた自分は、幸福な子どもで、幸福な弟子だったのだろう。
「あなたとふたりで過ごした時間は、私にとって代えがたい幸せだったと、今もたまに思い出します」
たとえば、こうやって雷雨の音を聞いたときに。折に触れて思い出す。そうして、自分の根本はあの日々でできていると思い知るのだ。
「俺もそうだ」
窓の外をじっと見つめていた緑の瞳が、ふいにこちらへと動いた。目が合う。
「テオバルド。おまえのことを、本当に神からの贈り物だと思っていた」
あのころと変わらない細い指が頬に触れる。アシュレイから手を伸ばされたのは、王都で再会して以来、はじめてのことだった。
「あなたの瞳は、変わらずきれいだ」
ひさしぶりに間近で見たせいか。あるいは、声と指の温度に煽られたのか。それとも、もっと単純に思慕があふれたのか。
理由は判然としなかったものの、気がついたときには、声がこぼれ落ちていた。
「どれほど私の世界が広がっても、この瞳ほど美しいものはありませんでした」
口説き文句のようなことを言っている、と自分に呆れた。けれど、事実なのだ。
どれほど美しいと称賛されるものを目にしても、この人をかたちづくるもの以上に美しいと感じるものはひとつもなかった。少なくとも、テオバルドにとって。
その美しい緑の色彩が、愛おしむようにゆるむ。
「そんなことを言うのは、おまえだけだ」
アシュレイの指が確かめるように輪郭をたどり、テオバルドの髪に触れる。
自分の髪を、愛おしそうに「夜の色」と表現するのはアシュレイだけで、父そっくりと言うのもアシュレイだけだ。
そのことを、この人は知っているのだろうか。
「テオバルド」
幼いころから変わらない優しい声が、名前を呼ぶ。
「テオ」
自分を映す緑から一瞬たりとも目を離すことができず、呑まれたように彼を見る。瞬きさえも惜しかった。
「おまえはかわいいな。この世界で一番、なによりも大切だ」
制御のできないところで心臓が跳ねる。彼の頬に、髪に、愛おしそうに自分に触れる手の甲に、触れたい。沸き起こった衝動を、どうにか必死で押さえ込む。
窓の外では、変わらず強い雨が降っていた。
遅すぎる初恋を自覚したそのときから、ずっと。弟子が持つには過分と判断した感情は、テオバルドはすべて押さえ込んできたつもりだ。
聞きたかったことも、伝えたかったことも、触れたいと願ったことも、ぜんぶなかったことにした。
それが、この人の言う正しいこととわかっていたから。それなのに、なんで、こんなことを言うんだ。伸ばすこともできないまま握り込んだ手のひらに、爪が食い込む。
「俺だけの」
「師……」
「随分と大きくなってしまったな」
どこか寂しそうに呟いた声を最後に、すっと指が離れていく。
それきり窓を向いたアシュレイの横顔に先ほどまでの名残はなく、テオバルドは今度こそなにも言えなくなってしまった。
――酔っぱらうと、延々と弟子自慢をする癖があるのは知ってたけど。
それは、もう嫌というほどに。
おかげで、最近は、飲み屋の店員の視線が生ぬるくて痛いくらいだ。弟子思いの素敵なお師匠さんですねぇ、などと言われても、これっぽっちもうれしくない。
――でも、それにしても行き過ぎだったよな、あれは。
おまけに、呑んできたというわりに、アシュレイから酒の匂いはしなかった。
だが、いくら考えたところで、「どうしたのだろう」以外の答えが出る気配はない。問わない選択をした以上、しかたのないことであるのだろうが。
やるせなさを呑み込み、夜の街を歩く。半ば無意識にアンテナの精度を上げている自分に気づき、テオバルドは失笑した。あの人がいないかと探してしまっているのだ。
めったとないことだとわかっているし、自分が気にかける必要はないこともわかっている。
なにせ、その気にさえなれば、杖がなくとも、そこいらの魔法使いでは太刀打ちのできない高度な魔法を行使する人だ。この国にふたりしかいない大魔法使い。
はじめて会ったころから、誰よりも強い人だった。
「……大きくなってしまったな、か」
呟きが、白い息とともに夜に溶ける。
改めて考えても、やはり、師匠らしくない台詞だった。
不老という現象の重みを、テオバルドも昔よりはわかっているつもりでいる。正確に理解することはできないだろうけれど、慮ることくらいはできるのではないか、と、そう。
そこまで考えたところで、テオバルドは小さく頭を振った。想像することはできる。だが、時が止まったころの彼を知る父には、どうやったとしても敵わないのだ。
父が、彼と自分のあいだにいる限り。彼が、父がそこにあることを望む限り。揺るぎないだろう事実が、ただただ苦しかった。
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