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38.波紋(前編)

 魔法を行使するためには、相応の根拠と対価が必要となる。  そういうふうに、この世界ができているからだ。 「この試薬に携わった者は。アイラ・クラークという名を師匠から聞いたのだが」  森の大魔法使いと称される自分が師匠と呼ぶ人間は、緑の大魔法使いただひとりである。信用の補完として、アシュレイはたびたび権威ある大魔法使いの名を借用していた。  悪用しているわけでもないので、このくらいはかまわないだろうと高を括っている。実際、本人に文句を言われたこともない。  深緑のフードの下から尋ねると、薬草学研究所の案内を買って出ていた魔法使いが、ぐるりと所内を見渡した。その視線が、高く積み上がった本と器具で視界を阻まれた一角に留まる。 「はい、あちらです。おい、アイラ。手を止めてこちらに来てくれないか。森の大魔法使いさまが来ておられるんだ」 「森の――、あ」  ぱっと立ち上がったのは、二十そこそこといったところの素朴な女だった。化粧気のない童顔に大きな丸眼鏡をかけ、赤銅色の長い髪をうしろでひとつに束ねている。典型的な薬草学研究所の魔法使いという風貌。勤めていれば、エレノアもこんなふうだったに違いない。  薬草の染みのついた作業用の上掛けを羽織ったまま近づいてきた娘が、丁寧なしぐさで頭を下げる。 「アイラ・クラークと申します。お会いでき光栄です、森の大魔法使いさま」  揺れる赤銅色の毛先を見下ろし、アシュレイは静かに口を開いた。 「薬草学は専門ではなくてな。今日は勉強をさせてもらっている。先日、師匠から試薬が完成したと聞いて、話を聞きに来たのだが」 「あぁ、はい。緑の大魔法使いさまに過大なお力添えをいただいた結果ではあるのですが」 「そんなことはないだろう。師匠は、優秀な魔法使いがいると言っていた」 「恐縮です」  必要以上に気負うことなく、気恥ずかしそうにほほえむ。とびきりの美人ではないが、素直で人は良さそうだ。こちらの質問にも的確な答えを返し、雑談も如才ない。魔力だけでなく、宮廷の薬草学研究所で必要とされる知能を兼ね備えているらしい。  ――変に着飾っただけの女を選ぶより見る目があると褒めるべきなのだろうな、これは。  師匠を通り越した、女親のごとき思考に呆れながらも、アシュレイはそう結論づけた。ルカから聞いた話を確かめるべく腰を上げたわけだが、思わぬ収穫である。  ――独り身のようだったが、叶わぬ恋というのであれば、付き合っている相手がいるのかもしれないな。  その相手が友人であれば、あの弟子は、自分の想いを呑み込んでしまう気がした。そういう弟子だったからだ。  試薬と関係のない方向に飛んだ思考に小さく息を吐き、薬草学研究所の匂いがついたフードに手をかける。ずっと在室していると感覚が鈍るのかもしれないが、なかなかに強烈だった。  複数の実験を同じ場所で行うから、混ざり合ってひどいことになるのだ。まったく、あそこの連中は効率の意味を履き違えている。鼻が利かなくなっては、元も子もないだろうに。  外の空気を吸い、匂いを払うように頭を振る。視界に過った金色に、随分と前髪が伸びていたと気がついた。  切らないと邪魔になるが、自分でするのも面倒だ。そういえば、前回は見かねたイーサンが手を貸してくれたのだった。テオバルドに任せきっていたんだろう、などと苦笑いだったが。  ……ろくなことを考えないな、本当に。  ごく自然と連想した古い記憶に、心底うんざりと金髪を掻きやる。エンバレーでも嗅いだ、強い薬草の匂い。  過去ばかりを懐かしもうとするから、こんなふうになるのだ。おのれを戒め、歩き始める。街中であればまだしも、宮廷内だ。フードを外したままでも問題はないだろう。  ――ねぇ、あなた。イーサンのことが好きなの?  イーサンに魔力があり、魔法学院に在籍していたころのことだ。気の強い顔で、エレノアに問われたことがある。  いくら不躾な女と言えど、さすがに度が過ぎていないだろうか。そもそもとして、本人に伝えるつもりもない感情だ。辟易としたアシュレイは、一瞥しただけでなにも答えなかった。  エレノアは嫌いだった。  自分とイーサンだけで完結していた世界に、我が物顔で入り込んできた女。そんな女に、どうして好意的な感情を抱くことができただろうか。  イーサンがかわいがる素直さは、アシュレイの目には図々しいとしか映らず、イーサンが褒める薬草学の才とやらも、はるかに自分が上だった。褒めるところも、認めるところもひとつもない。  ただ、それでも、イーサンはエレノアを選ぶのだ。  気に食わなかったものの、邪魔をするつもりはなかった。イーサンが選ぶというのなら。それがイーサンの幸せだというのなら。それでいいと本心で思っていたからだ。  親友として、イーサンの人生の端っこに居座ることができるのであれば、十分に事足りる。  イーサンがエレノアと結婚をしたあとも、テオバルドが生まれたあとも、付かず離れずの距離で、アシュレイは静かに日々を過ごしていた。  苦しさを覚え、森に籠もった期間もあったが、テオバルドを弟子に取り、師匠として忙しい日常を送る中で、その感情もいつしか薄らいだ。だから、高を括っていたのだ。  ――まったく、人間の感情とは面倒なものだな。  おかげで、必要のない醜態を弟子に晒してしまった。薄らぐ予定でいた感情を発露させ、挙句に戸惑わせるとは、みっともないことこの上ない。  溜息ひとつで、次の目的地である薬草園に意識を切り替えたアシュレイだったが、やはり、後日に改めることにした。行先を正門に変更し、足を速める。  ……こんなことをしているようでは、テオバルドのことを笑えないな。  ふたつ先の角から弟子とその友人の気配がしたからと言って、なぜこんな行動を取っているのか。大いに呆れたものの、自分から隠れようとしたテオバルドの心情が、いまさらながら少しわかった気がした。みっともなかろうが、それ以上に顔を合わせたくないのだ。 「師匠、――師匠!」  追いかけてくる気配と、背中に響く大きな呼び声。どちらも無視することはできず、アシュレイは立ち止まった。呆れた表情をつくり、テオバルドを振り返る。

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