40 / 57

39.波紋(後編)

「なんだ、そう、大きな声を出して」  人の通りのある場所で大声で呼びかけるなど、迷子の子どものようではないか。友人は置いてきたらしく、テオバルドはひとりだった。黙ったまま、やたらと物言いたげに見つめてくるので、しかたなく、もうひとつを問いかける。 「そもそも、おまえは仕事中だろう」 「それは、……そうなのですが」 「だったら、こんなところで師匠相手に油を売ってないで、仕事に戻れ」  歯切れの悪い態度に、ほら見たことかという気分で、アシュレイは戻るよう促した。根の真面目な人間が似合わない行動を取るから、こうもぎこちなくなるのだ。  なぜ似合わない行動を取ったのかという点には着目しないまま、おざなりに言い放つ。 「イーサンのようなことを言わせるな」 「父のような、ですか」 「店に顔を出すたびに、休憩だのなんだのと都合の良いことを言って、居座っていただろう。覚えていないのか」  それと同じだと諭したアシュレイに、テオバルドがかすかに眉根を寄せた。幼いころにも見た覚えのある、不満を抱えているときの表情。その顔で、妙にはっきりと主張する。 「私は、父とは違います」 「なにを言っている、あたりまえだ。あいつに対するようなことを言わせるなと言ったんだ」  否定したものの、イーサンの話でこの顔をすることが多かったとアシュレイは思い出した。  似ていると評したことはあれ、比べたつもりは一度もなかったのだが、テオバルドにとっては同義だったのだろうか。  イーサンとエレノアの息子であることは事実だが、アシュレイにとっては、自分の弟子以外のなにものでもない。テオバルドは、ただテオバルドだ。 「納得したのなら、もう戻れ。それとも、なんだ。急ぎの用でもあったのか?」 「そういうわけでもないのですが」  どうにか不満を引っ込めた様子で、その、とテオバルドが言葉を継ぐ。 「師匠が、急に進む方向を変えられた気がしたので」 「薬草学研究所に顔を出したついでに薬草園に立ち寄るつもりだったが、面倒になったというだけだ。気にするな」 「薬草学研究所に」  テオバルドの視線が、驚いたように薬草学研究所の方角に動く。それには答えず、アシュレイはフードを被り直した。まだ匂うが、我慢できないほどではない。 「おまえの同期という女にも会った。たしかに、なかなか優秀だ」 「え、……あぁ、アイラですか。そうですね、彼女は学院に在籍していたころから、とくに薬草学に秀でていました」 「そうか」  同期のことを説明する柔らかな口調に、満足したつもりでアシュレイは頷いた。 「それならいい」 「あの、師匠?」  一転した窺う調子に、フードの下で頭を振る。なんでもないことだ。  この子どもの世界を広げようとしたのはかつての自分で、そのとおりに育っているというだけのこと。安堵し、喜べばいい。あたりまえのことを言い聞かせ、淡々と言葉を重ねる。 「会ったというだけだ。おまえが気にするようなことは話していない」 「気にするような、というのは」 「そのままの意味だ」  そう言ったところで、アシュレイは話を切り上げにかかった。 「いいかげんに仕事に戻れ。おまえの問いには答えたろう」  それにしても、あの距離で自分に気づくとは、少々予想外だった。なにかしらに気を張っていた結果の産物である可能性は否めないが、師匠としては喜ぶべき成長であるのだろう。 「待ってください」  背を向けたアシュレイの腕を、テオバルドが掴む。反射的に引き留めただけだったのだろうが、その強さにほんの少し驚いた。  ずっと昔。アシュレイのローブを必死に掴んでいた幼い指が、身体をぐっと引き寄せる。自分の腕にすっぽりと収まっていたのはテオバルドだったはずなのに、今はまるでその逆だ。  だが、顔が見えなくてよかったのかもしれない。背後から抱きすくめられたまま、アシュレイは小さく息を吐いた。 「もう子どもではないというのなら、そうくっつくな。おまえが言っていたとおりで、要らぬ誤解をされるぞ」 「……かまいません」 「さすがに俺がかまう。イーサンとエレノアに合わせる顔がなくなるからな」 「なぜ合わせる顔がなくなるのですか」 「おまえを預かって育てた、師匠としての責任があるからだ」  まったく、今日はなにを頑なになっているのか。呆れに蓋をして、静かに続ける。  どれほどテオバルドが成長しようとも、その気になれば、アシュレイは簡単に退かすことができる。テオバルドもそのことを知っている。  そうであるにもかかわらず実行しない理由は、風の冷たさくらいしか残っていまい。冬の寒い日でも、自分がくっついていれば寒くないでしょう、と自慢げに笑っていた、幼い顔。 「ずっと好きな女がいると言っていたのはおまえだろう」 「女と言った覚えはありません」 「なら、なおさらだ。男だというのなら、余計に誤解を招く」  普段は聞き分けの良い弟子の聞き分けが悪かったせいなのか、なになのか。理由は定かでないが、このときの自分が苛立っていたことは事実だった。 「テオバルド」  テオバルドに対して負の感情がにじむ声を出したことは、ほとんどはじめてだった。ぴくりと腕が揺れ、振り絞るような声が首のすぐうしろで響く。 「俺のことを一番大切だと言ったのは、師匠ではないですか」 「ああ、言った」  きっぱりとアシュレイは認めた。 「生涯大事な、俺の弟子だ」  それだけで過分であったはずなのに、自分はいったいなにを望もうとしていたのか。本当に嫌になる。人間というものは、目の前の幸福ではすぐに飽き足らなくなってしまう。醜い。  師匠の言うとおり、自分が人でなくなったというのであれば、この醜さも一緒に捨てることができていればよかった。 「テオバルド」  なにも言わないテオバルドに、淡々と諭す言葉を紡ぐ。 「これから先も、おまえになにかあれば、必ず俺が助けよう。それが師匠の務めだ。だが、その逆は、まったく必要がない」  だから、妙な世話焼きで、これ以上の気を回す必要はない。おまえはおまえの道を行けばいい。魔法学院を卒業するときに、手紙で伝えたとおりだ。  そう告げる代わりに、アシュレイは繰り返した。このあいだの夜の醜態を気にしているというのであれば、まったく必要のないことだ。 「俺がおまえに助けを求めることはない」  思えば、この弟子が十五になる前から、アシュレイは幾度となく自身に言い聞かせていた。  正しい存在であるかわいい弟子を、自分が乱すようなことをしてはならない。正しい道を進ませねばならない。そう自制し、来たるべき別れを意識して過ごしてきたつもりだ。  そうであるのだから、万が一、弟子が違えそうになったというのであれば、師匠として自分が正さなければならない。それだけのことだった。  ――それにしても、本当に大きくなったものだ。  子どもの成長とは、本当に恐ろしく早いものである。イーサンの言ったとおりだ。次々と浮かびそうになる感慨に鍵をかけ、完成した試薬の瓶からアシュレイは手を離した。  この数日没頭した実験の成果である。居間のテーブルは散々たる状態だったが、森の家にいるのは自分ひとりなので問題もない。テオバルドがどう思っていたかはさておくが、あれがいたころは、最低限、危険物の管理には気を配っていたのだ。 「魔力を限りなくゼロに抑える薬、か」  改めて、アシュレイは瓶を見つめた。  ルカが採取した新種の薬草の大半は宮廷に納められたわけだが、譲り受けたものが残っていたので、再現に不便はなかった。  ――偶然できたという話だったが、原理としては間違っていない。ただ、改良の余地はまだまだあると思うが。  それなのに、なにをあそこの人間は、やれ実験だなんだと先走っているのやら。  呆れた息を吐き、積んでいた魔法書をひとつ手元に引き寄せる。該当ページの余白に思いついたことをいくつか書き留めたところで、アシュレイはペンを置いた。  この試薬に求められているものは、魔獣退治の効率化と、罪を犯した魔法使いに対する刑罰への転用だ。ルカは、そこから先の応用で、自分の魔力を抑えることも可能と考えたのだろう。その理屈も理解できる。だが。 「……あの人は、弟子()に甘いからな」  力を抑えたところで、深淵に一度触れた事実が消えることはない。師匠も、よくよくわかっているはずだ。  つまるところ、承知の上でも言わせてしまう態度を、自分が取っていたということだ。本当に、返す返すみっともない。辟易としたまま、もうひとつの椅子に視線を向ける。  雑然と物であふれたテーブルとは不釣り合いな、すっきりとした椅子。使用する人間がいなくなってからも、正しく椅子としての状態を保ち続けている。  ――この椅子に座っていたころは、手も指もなにもかもが小さかったというのに。  星の瞳をきらめかせて、利口に魔法書を読んでいた、アシュレイのかわいい小さな弟子。この世界のなによりも愛おしいと思うようになった、たったひとり。  柔らかくあたたかなぬくもりは、アシュレイにとっての幸福そのものだった。他人のぬくもりなど気持ちが悪い、と。そう切り捨てていたことが嘘のように。  無意識に腕に触れていた指先を、そっと引きはがす。  今日も、グリットンの森は静かだ。

ともだちにシェアしよう!