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40.誰も知らない(前編)
一月ぶりに訪れたグリットンの町は、王都よりも少し濃い冬の気配をまとっていた。
実家の店の前で指先を軽くさすったテオバルドは、クローズの札がかかった扉を押した。鍵がかかっていなければ、父が店にいる証拠だ。
今日もいるだろうとの予想のとおり、するりと扉が開く。昔から、父は休みの日も店にいることが多いのだ。
「ただいま」
声をかけると、暖炉付近のテーブルで本を読んでいたイーサンの顔が上がる。
「なんだ、テオか」
自分でなければ、誰だと思ったのだろう。曖昧な笑みを返し、テオバルドはテーブルに近づいた。ローブを脱いで、向かいの椅子を引く。
本を閉じたイーサンは、テオバルドを見て少し笑った。
「間の悪いやつだな。エレノアは今ごろ王都だぞ」
「王都に?」
「なんでも、宮廷に呼ばれたらしいが。まぁ、昔からたびたび薬草学研究所に顔を出していたからな。今回もその関係だろう」
薬草学研究所。世間話のていで飛び出した台詞に、テオバルドはローブの裾を広げていた手を止めた。イーサンに顔を向け、問いかける。
「父さんは……」
「ん? なんだ」
「母さんが携わっている研究のことは、知って?」
「触り程度ならな。詳しいことまでは、俺は知らん。アシュレイも知らないんじゃないか。いや、知らないということはないだろうが、エレノアの口から聞いてはいないだろう」
聞いてもいない師匠の名前を、これもまたあっさりと父は口にした。
「研究を進めたいなら、アシュレイに知恵を借りることが確実だと思うんだがな。なにを意地になっているのか、相談しようとしないんだ、あいつは。……まぁ、これも昔からか」
苦笑いとしか表現のできない声だった。意地の見当がついたテオバルドは、どうしようもない心地になる。
父はいったい、なにをどこまで承知した上で、意地と言っているのだろう。なにか飲むかという誘いを断ると、立ち上がろうとしていたイーサンが座り直した。
「それより、どうしたんだ。休みの日を狙ってくるとは珍しい」
「そういうわけじゃないけど」
言葉を切って、テオバルドは表情を少し改めた。
「ただ、来月は顔を出せないかもしれないから」
「長くなるのか」
その一言で、父は察したようだった。
「遠征先が北のほうなんだ。状況によっては長くなるかもしれない」
「あのあたりは雪が深いからな」
「それは、師匠から?」
いやにしみじみとした声が不思議になり、問い返す。この人が北に赴いたことはないだろうと思ったからだ。
「あぁ。アシュレイのやつ、遠征から戻ると、ここにいつも立ち寄ってたんだよ」
「……ここに」
「森に戻る前の、ちょうどいい息抜きだったんだろう。そのときに少しな」
自分があの森にいた当時からの、習慣であったらしい。知らなかった事実に、またひとつ曖昧な笑みを刻む。
――ここが、師匠にとっての帰る場所だったのかな。
幼かった自分が待つ森の家ではなく。父の顔を見て、話をして、帰ったという実感を得ていたのかもしれない。その想像はどこまでも容易かった。
――俺がおまえに助けを求めることはない。
明確な拒絶をはらんだ声がよみがえり、無意識で指先を握りしめる。はじめて聞いた声だった。自分が余計なことをした結果として、返ってきたもの。
あの日、不変であるはずの彼の中に、揺らぎを見た気がした。抑えていた感情の片鱗がこぼれ落ちた理由のすべてだ。
原因がなにかわからなくとも、弟子である自分に彼が明かすわけはないとわかっていても、離したくなかったのだ。あの夜、帰したくないと願ったことと同じように。
けれど、そのすべては自分の勝手だった。
「森にも報告に行くのか?」
「一応は、そのつもり」
「一応もなにも、こっちのほうがついでだったんじゃないのか」
「いや、べつに……」
「昔から、おまえは、師匠、師匠だったからなぁ」
くつくつと笑い、父は本に手を伸ばした。気にせずに向かえばいいという意思表示に、苦笑いになる。なぜなのだろう、と。ほんの少し呆れた気分だった。なぜ、自分の一番は今も昔もあの人なのだろう。本に目を落としたまま、イーサンが続ける。
「気をつけて行って帰ってこいよ。おまえの師匠はああ見えて寂しがりなんだ」
知ってるよ、と応じる代わりに、テオバルドは尋ねた。
「だから、俺を預けたの?」
ああ見えて寂しがり屋で、情に厚い人だから。あの人より先に逝く可能性の低い子どもを差し出したのだろうか。自分の代わりに。
「まさか」
唐突だったはずの切り返しにも、父は驚きを見せなかった。視線を合わせ、あっさりと否定する。黙り込んだのはテオバルドのほうだった。
その反応をどう取ったのか、幼い子どもを言い諭す調子の言葉が続く。
「おまえに、俺やエレノアでは手に負えない魔法の才があったからだ」
「……そっか」
根負けした気分で、テオバルドは首肯した。自分の父は、こんなにも真意を隠すことがうまい人だったのだろうか。わからなかった。父のことも、師匠のことも、なにも。
「そうだよね」
「あぁ、そうだ。アシュレイには感謝してもしきれないくらいだが。なにせ、おまえをここまで立派な魔法使いに育ててくれたんだ」
「うん」
「おまえにとっても、自慢の師匠だろう?」
――生涯大事な、俺の弟子だ。
きっぱりと響いた、凛とした声。けれど、あの緑の瞳と目が合うことはないままだった。
アシュレイはテオバルドの自慢の師匠だ。間違いない。多大な恩もある。ただ、敬愛と尊敬だけではおさまらない感情を持て余すようになってしまった。
だから、なにげないはずの父の言葉が、牽制に思えたのだろうか。屈託を呑み込んで、テオバルドは頷いた。
「そうだね。間違いなく俺の自慢の、たったひとりの師匠だよ」
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