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41.誰も知らない(中編)
大魔法使いが住む森に、グリットンの町の人間は立ち入らない。彼に正しく敬意と恐れを抱いているからだ。その静かな森を、迷うことなくまっすぐ奥に突き進む。
七つのころから何度も歩いた道だ。魔法学院に在籍した三年を除けば、テオバルドは何年も同じ間隔で足を運び続けている。師匠不在のあいだは家の管理の名目で、戻ってきて以降は家の手伝いの名目で。月に一度、この森を訪れる。
そのすべてを彼は拒絶しなかったが、望んでいたわけでもなかったのかもしれない。口からこぼれた白い息が、森に溶けていく。
宮廷で突き放された日から、テオバルドはアシュレイの顔を見ていない。
アシュレイが宮廷に顔を出さなくなったからだ。訪ねる用事がないという明快な理由の可能性も否定できないが、きっと、それだけではないのだろう。それがわかるだけに、テオバルドの気は重かった。そっと息を吐いて、顔を上げる。
「あ……」
木々の合間から見えた灯りに、小さな声がこぼれた。あの人と暮らした、森の一軒家。ほっと心がゆるんだことを自覚して、じっと灯りを見つめる。
夕暮れには早い時間だが、夜が近い森はとうに薄暗くなっている。その中で変わらず佇む森の家は、まさに灯台のようだった。
「師匠」
声かけと軽いノックひとつで扉を押す。アシュレイが気配を察知しないわけがなく、この家に鍵がないからだ。
「テオバルドか」
ソファーで魔法書を開いていたアシュレイが、視線を落としたまま呟く。
雑然とした居間の状態にかまわず読みふける姿は見慣れたものだったが、丸テーブルの荒れ具合は最近では一番だ。一瞥し、なんでもないふうに尋ねる。
「またなにか実験でも?」
「そんなところだ」
テオバルドと同じようにあっさり頷いたアシュレイが、書物から緑の瞳を離した。
「それで、おまえはどうしたんだ?」
「あぁ、いえ」
「話があるなら、座ればいいだろう」
いつまで立っているつもりだと笑われて、立ち尽くしていたことに気がついた。誤魔化すような苦笑を刻み、テーブルへと近づく。長居するつもりはなかったので、ローブはそのままにテオバルドは空いていた椅子を引いた。かつて、ごく当然と自分の席と思っていたもの。
こちらの挙動は気にも留めぬ態度で、アシュレイがまた一枚とページを繰る。フードを外したこの人の横顔は、いつもひどく静かだ。
冬の月を見ると思い出すって、手紙に書いたんだよな、俺。何年も前のことをテオバルドは思い出した。学院に在籍していて、初恋の自覚すらなかったころのことだ。けれど、自分はなにも変わっていないのかもしれない。
動いた感情に蓋をして、改めて横顔を見つめる。白い頬に影を落とす金の睫毛の角度さえ、テオバルドにはあのころと変わっていないように思えた。
「しばらく王都を離れることになったので、その報告に」
「遠征か」
魔法書から顔を上げたアシュレイが、確認する調子で尋ねる。
「報告に来るほど長くなる予定なのか」
「北のほうなので」
遠征隊の打診を受けたときに聞いた内容そのままをテオバルドは伝えた。
「早くて十日。下手をすれば一月と聞きましたが。それも向こうの天候と魔獣次第でしょうね」
「そうか。まぁ、天候の荒ればかりはしかたがない。ひどくないといいが」
北への大規模遠征である以上、大型の魔獣討伐と承知しているだろうに、そちらに対する心配はまったくと言っていいほどないらしい。
大魔法使いらしい悠然とした反応に、そうですね、と苦笑まじりに首肯する。これほどまでの大規模かつ長期の遠征は、自分ははじめてだというのに、なんだか随分とひどい違いだ。
だが、過剰に心配をされたいわけでも、不安を抱いていると思われたいわけでもない。テオバルドはさらりと話題を進めた。
「それと、今回は、もうひとつ特殊任務があるので。その関係で、普段は研究棟に籠もっている同期が帯同するんです。戻りがいつになるかは、そちらの進捗次第でもありますね」
「研究棟? まさか、もう中型で実験を?」
「そのようですが。中型の魔獣を宮廷内の研究所に生きたまま連れ帰ることは、さすがにできませんので」
問う声に混じった険に疑念を抱きつつも、可能な範囲で応じる。
――そういえば、宮廷で会ったときも、特殊研究棟からの帰りって言ってたよな。
効能を考えると当然だが、思うところがあるのかもしれない。押し黙ったアシュレイに、テオバルドは躊躇い気味に質問を返した。
「なにか気になることでも?」
「もう少し足元を固めてから、次の段階に進めばいいだろうにと思っただけだ。外部の人間が口を出すことではないが」
「緑の大魔法使いさまの口添えで、早期の特別許可が下りたという話は聞きましたが」
「そうか」
ルカか、とアシュレイが呟く。心底うんざりとした調子だった。応じかねているうちに、一度うつむいた緑の瞳がこちらに向き直る。
「このあいだは、もう魔獣は怖くないと言っていたが」
緑の大魔法使いに対したものとは違う、聞き馴染んだ淡々とした声。
「大型の魔獣を葬ったことはあるのか」
「二年前に一度」
正直に、テオバルドも答えた。
「北の村に出現した際の討伐隊に参加しました。とは言っても、そのときはまだ新人だったので、後方支援が主でしたが。そういう意味では、今回がはじめてかもしれません」
「そうか」
「エンバレーで幾度か葬ったと言っておられましたが、やはり、中型とは比べものになりませんか」
「比べものにはならない。だが、そのために大規模な部隊を編成したのだろう。それに、今回は大魔法使い に声はかかっていないからな。宮廷魔法使い で問題のないレベルということだ」
それもまた大魔法使いらしい言いようだった。
「そうであれば、過度に恐れる必要はない」
「そうですね」
先ほどと同じく苦笑ひとつで頷いて、言葉を継ぐ。
「今回は予防措置の意味合いも強い遠征ですので。師匠の仰るとおり、過度に恐れるものではないのだと思います」
北の地で魔獣が増加していることは事実で、本格的な冬を迎える前に数を減らすべきという判断も、現状に即した正しいものだ。だが、必要以上に大がかりな遠征となった事実も否定できない。そうなったのは、薬草学研究所からの強い申し入れがあったからだ。
宮廷内では不可能な危険を伴う実験を行うため、彼らは北への遠征を希望した。
中型、そうして大型の魔獣に試薬を打ち込み、効果を確認する。結果次第で魔法使いへの適用も本格的に検討されることになるのだそうだ。
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