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42.誰も知らない(後編)
国と民のために使うべき力を悪用した者への刑罰として魔力を奪うことは有用ではないか。そういった案が一部界隈で浮上しているとも聞くが、きな臭い話だとテオバルドは思う。
――宮廷に呼ばれた、か。
本意の結果でなかった可能性はあるが、母はこの研究の大本に関わっていた。
なぜ、母は研究に没頭していたのだろう。アイラの言うとおり、女性の魔法使いの能力の向上を目指していたのであれば、それでいい。素晴らしいことだ。でも――。
「なんだ。言いたいことがあるなら、はっきりと言え」
「……え」
唐突な「師匠」の声に、テオバルドは知らず落としていた視線を持ち上げた。絡んだ視線の先で、なにものにも代えがたい瞳に柔らかな色が灯る。
「おまえは昔から、なにか言いたいことがあるときに、そういう顔をする」
黙っていてもわからんと昔から言っているだろう、と瞳と同じ柔らかな声が言葉を綴る。この場所で幾度となく聞いた、師匠の声。自分だけを特別に愛してくれているのだ、と。傲慢に、無邪気に信じていた。
なにも言えないでいると、アシュレイはそっと目を伏せた。
「だが、おまえはもう子どもではない。言わなくともかまいはしないが」
一線を引かれたようにも響いたそれに、笑おうとして失敗した。唇を引き結び、もう一度視線を落とす。
予想もしないところから、研究が成功することはある。だが、たいていにおいて、どこかで線は繋がっているものだ。魔力をゼロにする、の対極は、ゼロになった魔力を復活させる。
母は、父の魔力を取り戻そうとしていたのではないだろうか。相談すれば、一番の力になるはずの師匠に頼る道を放棄して。ひとり、意地らしく。
「師匠」
呼びかけて、改めて顔を上げる。
こんなことを尋ねたところで、意味はない。すべて、いまさらだ。わかっていたのに、止めることができなかった。結んだはずの唇から、問いかけがこぼれ落ちていく。
「あなたは、私の父のことを愛していたのですか」
伏せられていた緑の瞳が、テオバルドを正面から捉える。こぼれたものを誤魔化そうと思うことは、もうできなかった。その瞳を見つめたまま、はっきりと問い重ねる。
「父は、あなたのことを愛していたのですか」
十八のときから、胸のどこかで抱え続けていた問いだった。
だって、そうでなければ、命を賭けることなどできないだろう。禁術は、時として簡単に人の命を奪い去っていく。だから、禁じられているのだ。
魔法使いとして研鑽を積み、禁じられた術の重みを知ったからこそ、より強くわかる。そういうものなのだ。簡単に手を出すことのできるものではない。
……そうだったとしても、裏切りだなんて、俺には言えないけど。
無意識に握り込んでいた指先を、テオバルドはそっと解いた。緊張しているときの自分の癖だと、この人はきっと知っている。
裏切りと糾弾することができないのは、息子としての感情より、この人を好きだという感情のほうがもはやはるかに大きいからだ。そうである以上、ただの妬心でしかない。母に対する申し訳なさは残っていたが、どう対処すべきかはわからなかった。
しかたないのよ、と笑った母は、父たちのことをどう思っていたのだろう。どう思って、自分をこの人に預けたのだろう。
「愛していたさ」
十八で時が止まっているのだという顔で、アシュレイが笑う。
そのころの彼と同じ時を生きたかったと、テオバルドは父を羨んだ。自分ももう十八を通り抜けてしまった。ずっと大きかったはずの彼は、今やずっと小さなものに見える。
この家にいた当時の自分は、こんな未来はひとつも想像していなかった。
「友人として、ただずっと」
「……友人として」
「それだけだ。おまえやエレノアが気に病むことはなにもないとおまえに誓おう」
何度も聞いた言い回しだった。目の前の自分を裏切らないとする彼の誓いはまっすぐで、どこまでも優しいと信じていた。でも。
「イーサンは、エレノアを選んだ。そうして、おまえが生まれた。それだけが真実で、ほかはなにもない」
幼子に言い聞かせる調子で、アシュレイが続ける。それもまた昔よく聞いた響きだった。ふたりきりの、この箱庭で。あの日々は、テオバルドにとってたしかに幸福の象徴だった。
解いたはずの手のひらを、きゅっと握りしめる。
「そうだろう?」
なにも言えなかったのは、得心したからではない。アシュレイの瞳がただただ優しく慈愛に満ちていたからだ。
――あなたがなにも知らないのは、父に操を立てていたからですか。
もとより、口にできるはずのない問いだったのだ。テオバルドは諦めて目を伏せた。
自分と父はなにが違うのだろう。父の魔力がたとえ枯れていなかったとしても、自分のほうが強かっただろう。自慢ではないが、自分のほうが見目も良いだろう。
けれど、そういうことではないのだ。この人にとっては、それはひとつも優劣の材料にならない。父はただ父であるだけで彼の唯一で、自分はただ父の息子でしかなかった。
そのことを改めて突きつけられた心地だった。
この人の、一番になりたい。
思えば、自分の感情を恋だと知らないうちから、そう願っていた気がしている。
アシュレイのことが好きだった。優しくて不器用な、偉大な魔法使い。テオバルドだけの師匠。どれだけ努力を積み重ねても、触れることひとつできやしない。
「そうですね」
精いっぱいの弟子の顔で、テオバルドはほほえんだ。そうするほかなかったからだ。
「余計なことを聞きました。忘れてください」
「テオバルド。エレノアも、イーサンも、もちろん俺も。みなおまえのことを愛している。なによりも、誰よりも」
やたらと真面目な顔でアシュレイが言う。再び視線を外したテオバルドは、彼がよく夜の色と評した髪をくしゃりと掻き混ぜた。表情を隠したまま、淡々と呟く。
「知っています」
そうでなければ、ここまで悩むことはなかっただろうにと思いながら。そっと息を吐いて、顔を上げる。
「明後日、発ちます。その前に、話せてよかった」
本音なのか、建前なのか。自分でもわかっていないことを、テオバルドは口にした。その言葉に、緑の瞳がほほえむ。昔から変わらない、大好きな優しい笑顔。
「おまえなら、絶対に大丈夫だ。安心して行けばいい」
絶対に大丈夫という台詞のおかしさに気がつかないまま、はい、と頷く。
「戻ったら、また酒でもご一緒させてください」
「今から王都には戻れないだろう。泊まっていったらどうだ」
「いえ、実家に帰ります」
席を立とうとしたところを引き留められ、テオバルドはきっぱりと断った。
ほんのわずか驚いたふうに揺れた瞳に、だから、嫌なんだと内心で溜息を吐く。そんな顔を見せるから、付け入る隙があると勘違いしたくなる。
背を向けて、扉を開ける寸前。振り返ることなく、テオバルドは告げた。この人が知るつもりのなかっただろう、本心を。
「あなたの言うとおり、もう子どもではないので、ここには泊まれません」
それが、今の自分が言うことのできるすべてだった。
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