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43.幸福のかたち(前編)

 ――師匠、師匠!  子ども特有の高く澄んだ声が、長らくひとりきりだった森の家に響く。  うるさいものは嫌いだった。自分の集中を邪魔されることも好きではない。ルカに諭されようとも、イーサンに苦笑されようとも、ひとり静かに過ごすことが、アシュレイは好きだった。  だから、弟子を取るつもりなど、本当にいっさいなかったのだ。そうであったはずなのに、どうしてしまったというのだろう。  ひとりで生きていくつもりで、学院を卒業して以降の十年も、ひとりでたしかに過ごしたというのに。たった一年、あの男の血を継ぐ子どもを置いただけで、すべてが変わってしまった。  十五年前。かつて愛した男が連れてきた子どもは、呪われた緑の瞳をきれいだと言った。はじめて出逢ったときのイーサンと同じ、輝く星の瞳で。  あれは幸福の象徴だったのか、それとも、災厄だったのか。これだけの月日が流れた今も、アシュレイは答えを出すことができないでいる。 「アシュレイ。私ね、あなたにあの子を預かってもらってよかったと思ってるの。おかげで、あの子は偉大な魔法使いになったわ。私たちのもとに置いていたら、ここまでにはならなかったかもしれない。あの子にはあなたが必要だったのよ」  その台詞を聞いたのは、エンバレーから戻ってすぐのころだった。  定期報告がてら森に顔を出したエレノアが、我が物顔で薬草園に手を入れながら、そう言ったのだ。 「でもね。あの人は、あなたにあの子が必要だと考えていたのかもしれない」 「……」 「もしそうだったとしたら、なかなかよね。あの人、あなたと自分のために七つの息子を差し出したことになるのよ」 「そんなわけはないだろう」  くすくすと笑うエレノアに、アシュレイはどうにか言葉を返した。エレノアは変わらず笑っている。 「いいのよ、アシュレイ。しかたのないことだわ」  しかたのないことというエレノアの言い回しが、アシュレイはあまり好きではなかった。単純に鬱陶しかったのだ。  たとえば、イーサンが、エレノアではなく自分を優先したとき。エレノアは物わかりの良い態度で、なにも知らないというそぶりを選ぶ。  しかたがないと笑うエレノアの表情は、愛嬌だけが取り柄の大雑把な女に到底似合うものでなく、だから、アシュレイはイーサンの店に頑なに赴かなかった。雪解けたのは、幼いテオバルドが森にやってきてからのことだ。  黙っていると、またエレノアが笑う。なにもかも承知しているという、腹の立つ顔で。 「だって、テオバルドがいるのは、あなたのおかげだもの」  そんなわけがないだろう。先ほどと同じ台詞を、アシュレイはうんざりと呑み込んだ。  自分はイーサンを生かしただけだ。魔力を失い意気消沈としていたイーサンの心を救い上げたのはエレノアで、イーサンに新たな道を提示したのもエレノアだ。  イーサンの心を生かしたのはエレノアで、自分ではない。自分には、なにもできなかった。 「おまえがいなかったら、テオバルドは生まれなかった」  呑み込んだ台詞の代わりに、しかたなくアシュレイは言った。あたりまえの事実だが、言葉にしたことははじめてだった。 「イーサンが選んだのはおまえで、テオバルドを産み育てたのはおまえだ。エレノア」  だから、と淡々と告げる。 「俺に負い目を感じる必要は、なにもない」  覆しようのない事実だった。今まで言わなかった理由は、自分の意地でしかない。感情を抑えた声でエレノアが呟く。 「そうね」  アシュレイはなにも言わなかったが、噛み締めるようにエレノアは繰り返した。 「そうよね、アシュレイ。……ありがとう」  震える声が似合わない感謝を紡ぐ。それはそれで落ち着かなかったので、アシュレイは聞こえなかったことにした。  べつに、いまさら。嫌いというほどの感情も持ち合わせていないのだ。適当にイーサンの隣で笑っていればいいと思っている。すべて過去の話だ。  ――そのはずだったのだがな。  テオバルドから似た台詞を聞かされることになるなど、誰が想像できようか。  自分が未熟だった当時を知るエレノアはともかく、あの弟子は、いったいどこから感じ取ったというのだろう。呆れとも自嘲ともつかぬ溜息をこぼし、アシュレイはグラスを揺らした。  だが、あれは聡い子どもだったからな。なにかに気がついたとしても、しかたがなかったのかもしれない。揺れる水面を眺めたまま、結論づける。  賢く優秀で、優しさにも満ちていた、テオバルドのきらめく星の瞳。  その瞳が、アシュレイは好きだった。なにをしても守ってやりたいと願い、そうしてきたつもりでいる。師匠として当然の感情と考えていたからだ。自分がルカに与えられたものと同じ愛情。けれど、本当にそうであったのだろうか。  幾日も前に聞いた、もう子どもではないというテオバルドの固い声。それが妙にアシュレイの耳に残っていた。 「どうした。やけに気鬱そうだな」 「イーサン」  頭上から降ってきた声に顔を上げる。目の合ったアシュレイに笑いかけると、イーサンはごく自然と向かいの椅子を引いた。  店の奥の、一番目立たないふたりがけのテーブル。まだ夕方になっていない時間で、客の入りはあるが、そう多くない。おまけに、ほとんどが常連客だ。  自由が利くことをいいことに、休憩に入ったらしい。なんの気もない行動だとアシュレイにはわかるが、聡すぎる弟子は深読みをしたのかもしれない。  隠さずにもうひとつ溜息を吐けば、イーサンは軽く眉をひそめた。 「なんだ、どうした。テオバルドのことか? 発って、そろそろ一週間か。向こうは寒いことだろうな」 「そのことについては、べつに心配していないが」  今ごろは現地で活動していることと思うが、遠征についての心配は、まったくと言っていいほどしていない。首を横に振ったアシュレイに、イーサンの表情が苦笑いに変わる。 「それなら、なんだ。行く前に、あいつになにか言われたか? ここでも少し妙なことを言っていたが」 「妙なこと?」 「妙というか、考えすぎと笑ってやりたくなることと言うべきか。我が息子ながら、あれは頭が良すぎるんだろうな。だから、余計なことばかり考える」  どうと言うこともできず、アシュレイは黙ってグラスを傾けた。  余計なことを聞いたとは、テオバルド本人も認めていたことだ。はじめてだという大規模な遠征を前に気が高ぶっていたとしてもおかしくない。

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