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44.幸福のかたち(後編)

「まぁ、俺がなにを言わなくとも、自分でそのうち気づくと思うが」 「そうだろうな」  なにせ、真実でもなんでもない、余計なことだ。  目を伏せ、小さく笑う。水面に映った自分の顔はイーサンの指摘したとおりの気鬱さで、ろくでもないとますます呆れた。その呆れを上塗りするように、言葉を重ねる。 「俺も同じだ。たいしたことを言われたわけでもない。……ただ、いつまでもそばに置いておくことはできないと改めて少し思いはしたが」 「なぜだ?」 「なぜもなにも、あたりまえだろう。あれはもう子どもではない」  そもそも、十五になるときに手放したつもりであったものだ。  師匠として見守りはする。だが、不必要な干渉を行うことはしない。今後は離れた場所で成長を見聞きするだけで十分だ。  七年前に正しい判断を下していたにもかかわらず、弟子かわいさで必要以上の交流を持ってしまった。だから、潮時と悟ったのだ。  これ以上は、執着を生む。人の輪を外れたのはアシュレイの勝手だ。ぬくもりに焦がれることも、ともに年を重ねたいと願うことも、求めていいものではない。  言い切ったアシュレイに、イーサンは言葉に迷う表情を見せた。黙って待っていると、しかたないというふうにその眉が下がる。人の良い、柔らかな顔。 「あのなぁ、アシュ」  表情と同じ声が、特別だった愛称を奏でる。 「おまえが師匠として弟子に言うつもりなら止めはしないが。ただのおまえがテオバルドに言うつもりなら、少し考えろ」 「なぜだ」 「あいつが、もう子どもじゃないからだよ」  自分の口にした「子どもではない」と似て非なる響きに、アシュレイは瞳を瞬かせた。じっと見つめていると、眼鏡の奥の瞳がゆるむ。 「あいかわらず、おまえの瞳はこぼれそうだな」  もう、何年前のことになるのだろうか。魔法学院ではじめて顔を合わせたとき、緑の宝石みたいだと言ってイーサンは笑った。そのことを、アシュレイは覚えている。  同じ瞳の育ての親を除けば、そんなふうに言われたことがほとんどはじめてだったからだ。  けれど、それだけで好きになったのではない。緑の瞳と膨大な魔法の才を持つ自分を異質と弾かず、ただの同期生として扱ってくれた気持ちがうれしく、同じ時を過ごす中で代えがたい存在になったのだ。はじめて得た、特別な友だった。  ――どれほど世界が広がっても、この瞳ほど美しいものはなかった、か。  つられて浮かんだ台詞を片隅に追いやり、苦笑に変える。今になって思えば、そんなはずはないと言ってやるべきだったのだろう。あの夜の自分は、なにかがやはりおかしかった。 「それに」  アシュレイの苦笑に合わせて笑ったイーサンが、冗談めかした調子で続ける。 「今度は、拗ねてツンケンとされるだけじゃ済まなくなるぞ」 「……」 「懲りたと言っていなかったか?」 「だが、あれは」 「そうだな、あれには大魔法使いとしての建前があった。だから、テオバルドも拗ねてはいたが、呑み込んだんだろう」  建前と一蹴され、閉口する。面と向かって告げることを放棄した点において非があったことは認めるが、正しい判断で背を押したつもりだったからだ。 「おまえと呑む時間が楽しくて、矛を収めた部分もありそうだがな。あいつは、昔から、なによりも、誰よりも、おまえが一番にできている」  沈黙を貫いたアシュレイに、とどめのようにイーサンが言う。 「あの森にふたりだったころならまだしも、学院に入っても、宮廷に勤めても変わらなかったんだ。おまえの気持ちもわかるが、認めてやらないとしかたないだろう」  自分が一番だということを、か。酒を呑む気にもならないまま、アシュレイは笑った。 「だが、きちんと好いた女はいるようだぞ」 「好いた女? テオバルドにか」 「なにを驚く。モテていると言ったのはおまえだろう」  ずいと身を乗り出したイーサンの勢いに、軽く眉をひそめる。  幸い今日はいないようだが、テオバルド目当ての町の娘と鉢合わせた回数は、片手の数では足らないほどになっている。人気があることに疑いを挟む余地はない。 「まぁ、それはそうなんだが」  なぜかバツの悪い顔で、イーサンは眼鏡のつるのあたりを触っている。 「親の俺が言うのもなんだが、宮廷勤めで、あの見た目だからな。モテるはモテる。だが、そういった条件で騒がれることと、心から好いた人間ができることは、まったくべつの話だろう」 「そういうものか」 「そういうものだろう。失敗しない程度に女遊びはすればいいと思っていたが。しかし、そうか。好いた女か。テオバルドがそう言っていたのか?」 「まぁ、……」  女だとは言っていなかったが。だが、と記憶をたどる。イーサンの言うところの、まだツンケンとしていた時期のことだ。王都にあるテオバルドの部屋に泊まった翌朝。好きな相手がいるとテオバルド自身が言っていた。  そう告白したときの、真摯な瞳。どこの誰かまではわからずとも、本気の相手であることはすぐにわかった。子どもの時分から育てた、ただひとりの弟子なのだ。昔ほど素直に感情を出すことがなくなったとしても、そのくらいのことはわかる。  ――てっきり人妻が相手かと気を揉んだが、同期の優秀な魔法使いであれば、反対をする謂れもない。  おまけに、エレノアの研究を発展させた功労者だ。エレノアもイーサンも喜ぶことだろう。若く才能のある魔法使い同士。誰からも祝福される契りだ。  テオバルドの様子から察するに、叶わない可能性もあるようだが、宮廷に勤めていれば、いくらでも同年代の魔法使いと出会う機会はあるだろう。テオバルドであれば、いずれ正しい相手を見初めるはずだ。  そうして、子どもを産み育てればいい。イーサンとエレノアがその道を選んだように。 「はっきりと相手を聞いたわけではないが。ずっと好きな人がいるというようなことは言っていた」 「へぇ」  驚いているのか、どうなのか。読み切ることのできない調子で、イーサンが呟く。 「あいつがねぇ」  男親の反応は、この程度のものが一般的なのだろうか。わからないながらも頷けば、もうひとつをイーサンが尋ねた。 「寂しいか?」   静かに窺う星の瞳を見返し、アシュレイは笑った。 「多少はな」  あたりまえの話だと思ったからだ。  かつて、自分のそばに在った幼子がひとり立ちをすることは寂しい。けれど、予測できた未来であり、師匠として喜ぶべきことなのだ。  ――アシュレイ。私ね、あなたにあの子を預かってもらってよかったと思ってるの。あの子にはあなたが必要だった。あの人は、あなたにあの子が必要と考えたのかもしれないけれど。  そんなわけはないとエレノアに言ったとおりで、イーサンはそんなことは考えていなかったはずだ。だが、あの子どもが自分に必要だったことは事実だった。 「なぁ、アシュレイ。おまえは、今、幸せか」 「もちろんだ」  なぜ、そんなことを聞くのだろう。不審に感じつつも、正直に答える。 「おまえたちがいて、テオバルドがいる」  自分の隣にいなくとも、本当にかまわないのだ。ただ、この世界に存在し、ときたま自分の瞳に映るところで、幸せな姿を見せてくれるのであれば、それで。  だから、と。正しく年を重ねたかつての想い人に、アシュレイはほほえんだ。 「これ以上の幸福がどこにある」  二十年以上前、自分が下した決断は、やはり、なにも間違っていなかった。まっすぐに自分を見る眼鏡の奥の瞳が、かすかに下を向く。だが、本当に一瞬のことだった。 「そうか」 「あぁ、そうだ。逆に聞くが、イーサン。おまえも、今、幸せか?」 「あたりまえだ。愛すべき妻がいて、立派に育った息子がいて、おまえがいる。魔力が尽きようが、俺の人生は一片の悔いもなく幸せだ。今までも、これからも」 「そうか」  答えに満足して、アシュレイはもう一度緑の瞳を笑ませた。 「それはそうと」 「なんだ?」  神妙な調子に、グラスを口元に運ぼうとした手を止め、問い返す。  客の様子を確認したイーサンが、アシュレイとさらに潜めた声を出した。その様子に、今度はいったいなんだと首を傾げる。 「おまえ、遠征についての心配はしていないといやにはっきり言い切っていたが、まさか――」  まさか、に続く言葉をアシュレイの耳は捉えることができなかった。あったはずの店内のざわめきもなにもかもが、切り離されたように遠のいていく。  ただ、正確に研ぎ澄まされた神経は、すべて北の方角へと向かっていた。 「アシュレイ?」  自分の魔力が、ざわりと身体の中で蠢く。間違いない、これは、何年も前に自分がかけた、守護魔法だ。  ――俺のすべてをかけて祝おう。おまえのこれからに、限りない幸福があらんことを。  ――その代わり、おまえに降りかかる不幸のすべては、俺が貰い受けよう。  そう、守護をかけた。この世界のなによりも大切な存在だったから。自分がそばにおらずとも、守ってやることができるように。それが、自分にできる唯一だったから。 「おい、アシュ。アシュレイ?」  伸びてきたイーサンの手のひらが肩を掴む。そのぬくもりを知覚した瞬間、意識が飛びそうになった。視界がぐらりと眩む。ここで意識を失えば、もう二度と目覚めないのではないかというような、圧倒的な睡魔。  呼びかけに応えることができないまま、グラスをテーブルに置く。割りかねないと危ぶんだからだ。それが記憶の最後だった。

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